RYO SASAKI

「叱る」という行為から考える平時の「苦痛」と「快感」の選び方。

タナカ シンゴ

『不適切にもほどがある』というTVドラマがある。

主人公が昭和から現在の令和へタイムスリップして時代を行き来するというストーリーで、昭和の古き善き?おおらかさと、同時によろしくないパワハラ・セクハラなどを令和に対比して見せてくれている。

このドラマは私を含む昭和の人には、懐かしさがあって面白いと好評のようだが、若者には不評なんだとか。

それは、今ではありえない過去のパワハラ・セクハラが当たり前の昭和が若者にとって不快だから、という単純な理由からだという。

(一部、昔は良かった、という若者もいるようだけど。)

時代はホワイト化(キレイ・清潔が正しくて、汚いものは正しくない、という価値観によって様々なものが浄化されていくこと)に向かっているというが、これもまたその価値観の変化のひとつなのだろう。

このことをキッカケにして、私の中でもある変化が起こり始めた。

それは、昭和の私の中に出来上がっていたある大きな価値観がどうも怪しくなり、揺らぎはじめる!といった感じのものだ。

今回は、その価値観のことから始めていろいろ考えてみたい。

「理不尽に耐える」ということ

「理不尽に耐える」ということが人生において美徳である。

これがどこからか私の中に出来上がっていたひとつの価値観だったことに気づいた。

人は、苦しまなければ、強くならない。

人は、苦しまなければ、変化・成長できない。

という価値観。

子供の頃見ていたスポ根モノをはじめとする多くのドラマは理不尽なことを乗り越えることを描いていた。

当時はそれをハッキリと理不尽なことだとは感じずに、それが社会というものだ、と思っていたふしがある。

今見ると明らかに理不尽なことばかりなのだが・・・。

そして昭和の私には、これまでいろいろな理不尽に晒されてきたことを今思い出しては、それを乗り越えてきたことに対して、ある種の勲章のような感覚がある。

たぶん、「理不尽に耐えて苦しまなければ何者にもなれない」という価値観が私を支えてきたのだろう。

苦労した経験はいつでも武勇伝として語れるように準備万端である。笑。

これが私が生きてきた証であり、宝なのだ、と。

今はなんとかそんなように説明できる自分ではあるのだが、当時は、(今思うところの理不尽に対して)嫌で嫌でしかたなかったし、目の前のその嫌なことをやり過ごしたかと思えば、また新しい嫌なこと(理不尽なこと)が現れる、そんな繰り返しだったように思う。

自分も当然ながら時代に乗っかって「理不尽なこと」をしてきたようにも思う。

周りほどはひどくなかったが・・・。(←本人談だから怪しいものだ)

「この理不尽に耐える」ということを、最近ではどのように捉えているのだろうか?

そのヒントとなる本があった。

人間はこんなふうにできている

こちらの本は、「叱る」ということについて書かれているものだ。

この本を一言で表すと、

「叱る」という行為は、緊急の場合を除いて害こそあれど意味のないものである。

ということになる。

「離婚は約2分おきに1組」というが、社会全体の「叱る(叱られる)」頻度と言ったらそれどころではないだろう。

この「叱る」という行為はそこら中にあって、理不尽なことの代表的なもののようである。

「叱る」という行為に意味のない理由をまとめてみる。

それは人間がどのようにできているか?によって説明されている。

(叱られる側からみると)

・(言葉であろうが、体罰であろうが)「叱かれる」ことでネガティブな感情体験(恐怖、苦痛、苦しみ、悲しみなど)をしてしまう。

・人の脳は偏桃体などにネガティブな感情に対応する「防御システム」を持ち、戦うか逃げるかを選択している。

その一方で、学びたい、成長したいという本人の欲求に基づく「冒険システム」がまたあって、これらは別物で「防御システム」が働くと「冒険システム」が機能しなくなる。

(叱る側)

・「叱る」ことで自己効力感(自分の行為は影響力がある、自分が行動することで周りによいことが起きる)が満たされる。

・処罰感情(悪い奴は懲らしめないと気がすまないといった感情)が充足する。

つまり、「叱られる」と人は反発したり避けるほうが強くなってしまい、学ぼうという気持にはならないから、「叱る」ことでの改善は望めないというのだ。

※表面的に改善がされているような場合はあるが、反発という感情が膨れることの代償の方が大きい。

一方、「叱る」と人は気持ちよくなる。

「叱られた」人が、それ以上の「お叱り」を避けるために「すみませんでした」という謝罪をする。

それを見ることで、「叱る人」が自分はよいことをしたのだと、ただ気持ちよくなっているという。

何とも興味深い。

興味深いのは、どうやら双方の「防衛システム」も「処罰感情」も「自己効力感」も生きながらえるための機能のようだからだ。

これらは、自分を恐怖や苦痛から守らなければ生きられないし、同様に周りの(恐怖や苦痛を与える)悪を排除しないと生きられないというところから備わってきているのだろう。

その機能を発揮してきたから種が生きながらえてきたというか・・・。

その機能が「叱る」ということに現れていて、ネガティブな感情をまき散らすも、改善をもたらさずに、理不尽なものの代表格にのし上がってしまっているとは・・・。

平時の野獣性のコントロール

またここでも人のもつ野獣性のコントロールが課題になっているように感じられる。

人のDNAに刻まれた野獣性、それは荒々しくも戦って勝つための強さであり、時には逃げて生き延びる強さでもある。

そして、また人というものは、生きるのに都合のいいことは、快感になるようにできている。

その快感のひとつに悪の成敗というものがある。

ここで、無法状態で殺戮や搾取が行われている状態を有事としよう。

有事に機能する野獣性というものが、平時には必要以上に働いてしまっている、こういうことだと言えるのではないだろうか?

「叱る」という行為に当てはめてみても、有事(緊急時)には必要不可欠なものだ。

自分の身に危険が及んだ時に相手に「危ない、やめろ!このやろう!」と叱りつける。

安全安心という平時が確保されている状態では、その野獣性がアンマッチを起こすのだ。

更に言えば、人は平時に持て余している野獣性を、自分の正義にかざしながら「叱る」という行為によって満たしているとも言えるのではないだろうか?

DNAの成り行きままでいけばこうなることは極自然なこと。

それゆえ、野獣性のコントロールが必要と感じるのだ。

これから平時がどのくらい続くのかわからないが、平時が続く限りこれは現代人に課せられたものなのだろう。

ちなみに、平時における野獣性の発散方法にはいろいろなものがある。

スポーツやゲームで疑似的に戦うことであったり、人によっては厳しい自然に身を置いて自然の中でサバイブする、というようなことかもしれない。

それでも、このような疑似的なものでは物足りないという人が、知らず知らずのうちに「叱る」を選んでいるのかもしれない。

昭和のオッサンが選ぶべき苦痛と快感

冒頭の「理不尽に耐える」ということに戻る。

「理不尽に耐える」というのは明らかによろしくないように思うのだが、それでも「苦しまないと成長できない」について、真理のように感じる昭和の自分がどうしてもいる。

これについて一旦決着をつけておきたい。

「防衛システム」が作動する時のいわゆる周りの恐怖からくる苦痛ではなくて、「冒険システム」が作動する時の自分がやりたいとした苦痛をできるだけ取り入れるべきだということである。

苦痛というものにもいろいろな種類があって、苦痛というものを選別する必要があるのだ。

これまでは苦痛というものをあまりにもごっちゃにして捉えてきたように思う。

周りに脅されるような苦痛は避けるにこしたことはなくて、自分で自分に課す苦痛をいろいろ経験するということだ。

この言ってしまえば当たり前のようなことを、私という者は昭和から平成を経て、令和になってやっと整理するとは・・・なんたるふつつかモンなのだろうか!汗。笑。

さて、ここまでを踏まえて、昭和のオッサンのこれからの生き方をまとめてみたいと思う。

そもそも自分の快感を満たすということが誰にとっても幸せであることに間違いない。

そして、人は概ね自分を快感で満たさないと壊れるようにできているんだと思う。

我慢だけでは生きられない。

どれだけストイックな人であってもストイックなことによって得られる何かの達成が快感になるのであって、ストイック自体が快感にはならない。(時にそんな人がいたようにも思うが・・・)

そうすると次は、どの快感を選ぶのか?ということになる。

ちなみに食で快感を満たす、ということ、これについても食が豊富にある平時には、食べ過ぎという不具合が起こる。

これもまた有事にはない平時のコントロールの必要性、その代表的なものなんだろう。

では、私が自然にしたいと思う、おっさん特有のいくつもの理不尽を越えてきたという武勇伝を語る、という行為はどうなんだろうか?

まずはじめに、このような自慢というものは「咜る」と同様、自分の快感である、ということを自覚しないとならない。

人は、DNAの成り行き任せにすると野獣性が露出したままの快感を求める。

快感を欲して周りをやたらと叱ったり、やたらと自慢話をしたりする行為は、人の迷惑になるのだ。(言わずもがなだが)笑。

理不尽を越えてきたことを勲章のように思っている昭和のオッサンは、その勲章の放つ光によって人の迷惑がわからなくなるものらしい。

残念ながらこれこそが、若者がドラマ『不適切にはほどがある』に感じる不適切さの代表でもある。

成り行きままにせず、それは野獣性のままにしないということであり、周りの迷惑にならないような快感をそれぞれが見つけ出して、選択する必要があるのだろう。

それには「防御システム」に占められることなく、「冒険システム」を作動させる必要があるのだ。

過去のことではなくて、今やっててホントに楽しい、と思えること、これを見つけてそのことのために自分が課した「苦痛」を経験し、「快感」を得るんだ、というところに結局今回も着地するのだった。

最後に

野獣性が活かされる時代は、弱肉強食、生存競争の時代であって、それが共存共栄の時代に移っている、というのがわかりやすいかもしれない。

昭和のオッサンは、共存共栄の時代をどこか信じきれないでいるのだが、そんなことはかまわず時代は移っていく。

これから平時が続く限り、社会はどこまでホワイト化していくんだろう。

ドラマ『不適切にはほどがある』がまた数十年後に創られたとしたならば、「咜る」という行為が今よりももっと不適切なものとして描かれるはずだ。

「咜る」という行為が、ネガティブな感情を世にまき散らすだけの公害のような害悪に認定されている未来が見える。

そして、ホワイト化が進むならば、いつの時代もオッサンという存在は若者から汚らしく見えるはず。

オッサンとはいつの時代にも過去のブラックを長らく経験してきた存在なのだから。汗。笑。

こうしていつの時代もオッサンは時代の狭間にいる。

それは若いあなたにもいずれ訪れるものだ。

だからというわけではないのだが、急にホワイト化しないオッサンでも、せめてこのような自省を含む考察をしている、ということで何とか大目にみてもらいたいものだ。

情けないかな、最後は若者への懇願で終わる。汗。笑。

UnsplashBermix Studioが撮影した写真

【著者プロフィールと一言】

RYO SASAKI

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

やはり人とは?自分とは何者なのか?を知ることが幸せへの一歩なのではないか?

繰り返しですが、今回またそんなことを思いました。

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