変化が激しい現代では「完璧主義」から距離を置くのがいい。
最近、若者の間で完璧主義者が増加しているという話を聞いた。
「完璧主義」というものを3つに分類している動画がある。
①自己本位の完璧主義
→自分の内面から完璧でありたいという欲求がにじみ出る人
②社会既定の完璧主義
→社会の規定(常識)に対して完璧でないとならないと思う人
③他者指向の完璧主義
→相手に完璧を求める人
それぞれが増加している中で②社会既定の完璧主義が他の2つより倍増していて、生きづらさが増しているという。
これを聞いて思い出したのは、私の子供の頃に無意識に観察していた大人たちのこと。
みんな一生懸命に社会の常識に照らし合わせて恐る恐る生きているように見えた。
不思議な感覚が蘇ってきた。
なぜそんなにもビクビクしながら生きているのだろうか?
素朴にそう思った。
「決まりが○○だから、○○しなくてはならない。」
「○○しないと笑われる」
などと話していた。
これが、当時の常識に順応しようとする、ここでいうところの②社会既定の完璧主義に当たるものなのだろう。
また別では、何につけ完璧にできることが褒められて、素晴らしいことだと完璧主義が刷り込まれていった。
こうして私は「完璧主義」を信奉するようになったように思う。
今回も「常識を疑うシリーズ」として、この「完璧主義」を疑ってみたいと思う。
完璧主義によって社会はよくなった
昔の同僚に会った時に話しに出るのは、
「今の時代に昔の会社で働いていたとしたらどうだったろうか?」
というものだ。
多くの人が「いや、しんどいと思うよ。」と言う。
十分にダメージが蓄積した今の身体でもって、あの戦火の中にまた舞い戻ろうとイメージしているのだろうからーこれはある意味勘違いー、この判断はどうも怪しい。
それでも、今から見ると当時は、やっていることが幼稚であったし密度がゆるいところがあった、と思う。
そのゆるさ、どこか牧歌的に感じられる過去をおっさんたちはいい時代だったなあ、と回想するのだ。
その後仕事の風景は、1分1秒を惜しむようにして緻密さが加速していったように覚えている。
時代が、自分がのし上がるための①自己本位の完璧主義、あるいは会社から完璧主義が要望される方向に移行していったと言えるのかもしれない。
より緻密に、より効率的にしようとして完璧に向かうのは当然のことなのだろう。
完璧を求めるからいい製品を作り出すことができるし、誰よりも上回って金メダルがとれたりもする。(もちろん多くの人が完璧を目指しながら、金メダルを獲得できる人はごく一部の人だけなのだが。)
完璧主義を目指すことによって、社会が便利になってその恩恵に預かってきたのだ。
おかげ様で時間通りが当たり前になった電車が、たまに1分でも遅れるとイライラするようになってしまったのだが・・・。汗。笑。
これまで、完璧の追求は不可欠で間違いのないものだと私に十分に染みついてきたところだ。
完璧主義のワナ
そんな不可欠な完璧主義なのだが、ここからは逆の弊害を上げていこうと思う。
私の親もまた何事にも完璧を目指している人であった。
家の掃除に関してまでそうで、隅々まで完璧にしないと気が済まないところがあった。
それは有難いことだったが、それができなかった時に親はできなかった自分を責めるのが日課のようになっていた。
毎年末の大掃除はやれない部分について自分に言い訳をして苦しんでいるように見えた。
親は共働きでよく働く人だったから、
「なぜ、そんなことで苦しまなければならないのか?」
と私は違和感を持っていた。
これがずいぶん後になって完璧主義による弊害ではないか?とみるようになった。
どうやら仕事に限らずに、どんなことにも「完璧」という位置がある。
その完璧の位置を一度知ってしまうとそこと現状の差から欠けている部分を感じてそれが引け目になる。
これがやはり人というものの悲しい嵯峨なのかもしれない。
当時から何でもかんでも完璧にする、ということは途方もないことだと、感じていた記憶がある。
私は何でも完璧にできなくて怠惰だとよく指摘されたものだ。
その後、ずいぶん経ってこの完璧に関するものを知った。
ロジスティック曲線という、ある生物が繁殖していくスピードを表した微分方程式。
出典:wikipedia
これを何かの物事の出来具合にもあてはめることができる。
縦軸が物事の出来具合で、100が完璧に当たる。
横軸が時間になる。
出来具合70~80点くらいまでは比較的早く進むが、そこから100点までに上げるにはかなりの時間を要することになる。
”そこそこ”から完璧に昇り詰めるのに多大な労力がかかる、という法則だ。
実感ともマッチする。
数学の微分方程式が初めて、「掃除なんてものはだいたいでいいんだ」と投げ出したい私に言い訳をくれたようだった。笑。
こんな背景がありながらも社会人になって、仕事に完璧を求められるようになった私は、やはり真面目にも完璧を目指したものだった。
ところが、組織においては、自分が完璧にできたとしてもその影響は限られること、事業環境の変化が早いこと、などなどによって、完璧だと作り上げたものはしょっちゅう雲散霧消していった。
完璧を求めることで体調が壊れるギリギリまでいったこともあった。
自分の完璧に何の意味があるのか?
そんな思いが生まれた。
その反動からか、「ひとりいい加減キャンペーン」なるものを張った時がある。
仕事以外のところでは、細々したところを気を抜いてとにかくいい加減に生きようと試みたのだ。
これが功を奏してか、「あなたみたいにいい塩梅で生きれた方がいいかもね。」と言われたことがある。
今思えば皮肉だったに違いないと思うのだが・・・。汗。
そのキャンペーン中、ちょっとした事件が起こった。
人ん家の蛇口をうっすらと閉め忘れ、水道が垂れ流しに。
丸一日分の水道料金を支払うことになった。
さすがにやりすぎた。
何でもかんでもいい加減=70点というわけにはいかない。
蛇口は100点=完璧に閉めなくてはならない。汗。笑。
こんなしようもない行ったりきたりを思い出してみて、やはり完璧主義というものはそれによる結果が美しいものだからこそ、逆に劇薬のように危険である、と感じる。
負担が大きいにもかかわらず、周りから求められるから抜け出しづらい面もある。
そんなことで、今思う結論は、完璧というものは極力捨てる、というものだ。(蛇口などは除いて)
物事のありとあらゆる事象に完璧が発動することで見える現状の不足。
不足が見えるとそれをすべて埋めるための苦役で生活が埋まってしまう。
その苦役はその割にコスパが悪い。
「まあまあこんなもんで(このくらいで)」などと自分に言い聞かせながら物事をいなしていなして進むのがいい。
それでは「完璧」の恩恵はどうするのか?
何も「完璧」というもののすべてを失くそうというのではなくて、自分の完璧を完璧に失くそうとまで振り切った時に、最も大切で完璧を目指すべきものが自分に残る、という風に思うのだ。
結果、完璧は特定のものに絞る。
すべての科目を100点にしようとすると、ある科目を尖らせることはできないから、尖らせる部分にエネルギーを集中する。
そしてその個性を更に尖らせる、そうしつつ世の中の完璧主義による恩恵を担保しようというものだ。
なんとも都合がいいが、そうありたいと思うのだった。
この結論に違和感がある人は多いかもしれない。
掃除を含む、他のいろんな物事の完璧が気持ちいい人もいる。
そんな人は完璧にしても消費するエネルギーが非常に少ないかもしれないから、これに当たらないのだろうと思う。
私の場合は、そんなにエネルギーがある方ではないから、身の程をわきまえてここに至った。
様々な価値観に翻弄されずに・・・
さて、完璧を失くすという結論に行きついたところで、②社会既定の完璧主義を失くすためにピッタリの本があった。
この本には、現代とは異なる各時代の社会既定(=価値観)が紹介されている。
・男性同士のセックスが当たり前の時代があった。
キリスト教が広がって悪いこととなった。
ソクラテスも織田信長も男性とセックスしていた。
・お金を稼ぐ人が偉いという価値観は最近のこと。
例えば江戸時代は、武士は貧乏だったが偉かった。
歴史をたどると今の常識が必ずしも常識ではない。
ということは、今の時代の社会既定がこの先もずっと正しいとされるわけではないということになる。
どうやら現代に生きる私は、現代の社会既定が絶対だと勘違いして現代の社会既定にのめり込む傾向にあるということをわかっておく必要があるようだ。
このように変わってしまう社会既定ならば、距離をとることができて、それによって完璧主義を薄めることができるというわけだ。
これは何も今の社会規定を無視して勝手に生きる、というのではない。
「距離をとる」このニュアンスは流行りくらいに捉えておくといったところだろうか。
無視して公の場に出ると炎上必死。
だから、自分だけのスペースでは流行りに乗っからないでいる、といったような・・・。
この本の最後では、この社会既定と距離をとることに、更に説得力が加わっている。
昔は情報の伝達量が限られていたので、社会規定はあまり変化せず、同時に自由度も低かった。
よって、一律の社会既定(=価値観)に則って一生を生きれば安泰だったという。
完璧主義は、その一つの社会規定に対してなされれば良いというシンプルなものだった。
ところが、現代は自由度も高く変化も早くなった。
何かの社会規定(=価値観)に対して完璧を追いかけても、常に価値観は変わり、真逆の価値観が出てくることもしばしばある。
完璧主義者にとって、何の価値観に対して完璧であればいいのかが、かなり難しくなっているように思う。
一つの社会既定の完璧主義を貫くと偏りを感じるし、すべてを網羅しようとすると身体を壊しそうだ。
だから、あらゆる社会既定(=価値観)と距離をおいてどれも100点まで突き詰めない、という”いい加減”さが共感できるスタンスだ。
数十年前に、「いい加減」「まあこんなもんで」などはあまり好ましい言葉ではなかった。
それが今は陽の目を見るように感じられてきた。(あくまでも私個人の中でだが。汗。)
これは、完璧を追求する時代から、いい加減でいる対極の時代に変化してきていると言えるのかもしれない。
社会をこのように大きなスケールで眺めてみる。
そうするとまた”いい加減”になって楽になる。
私のような怠惰でエネルギーがそこそこの人間は、その言い訳ができたと思わずほくそ笑む。笑。
そして、子供の頃の違和感について、今になってやっと表現できるようになったことでまた、ご満悦なのである。
UnsplashのRebecca Ritchieが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
個体差があるので、普遍的なものとはとても言いにくいのですが、一旦感じるところを結論としてみました。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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