「評価」のない生き方をしてみたい。そのために自分の客観視したものを無視して進む。

今年は夏風邪にかかることもなく調子が良い。
それで逆に思い出したのが、以前夏風邪で塞いでいた時のこと。
熱が出て何もできずに横になっている。
眠ってしまえばいいのだが、眠るにも限界があって、頭だけは回るのだが、どうしようもなくてじっとしているしかない。
最も自分が無力であることを感じる時間だった。
考えることは決まって「(この症状が)いつまで続くんだろうか?」というもの。
考えたところで答えが出るわけでもないのだが、時間があり余っているから余計なことを考えてしまう。
それ以外には、仕事に穴を開けて迷惑をかけてしまっている、何で風邪を引いてしまったんだろうか?あそこで無理をしたからいけなかったのか?仕事を休んでしまう自分は、弱くてダメな人間だ!
風邪を引いた時はいつだって、ほぼこのようなことを頭で何度も繰り返している。
自傷するという何の足しにもならないことを考えてしまうのだ。
これはいわゆる客観視というものだろうか。
自分の置かれている状況を俯瞰してみて、そこに何らかの評価を与える。
この客観視する能力は、社会で生きるために、具体的に言うと、上手く立ち回るために、必要なもので、自分はこのトレーニングを長らくしてきたように思う。
でも・・・客観視にどこまでの価値があるんだろうか?
この夏風邪の件で、また得意の疑念が生まれてしまった。
今回は客観視というものについて今一度考えてみた。
客観視とは?
あらためて、客観視とは自分が置かれている状況を俯瞰してみることである。
自分の頭の中を覗いてみると、
「怠惰だ!」
「小心者だ!」
「無謀だ!」
風邪の時に限らず、忙しくあれやこれやと自分を評価していることに気づく。
そして、自分を評価した結果を元にして自分に何らかの修正を加える。
修正を加えない場合は、今度は修正しない自分に「わかっているのに変われない駄目な奴!」という評価をまた下す。
これが自分が培ってきたルーティンのようなもので、こんな風にして自分を常に評価して生きる癖がついてしまったように思う。
ところで、物事を評価するには照らし合わせる基準というものが必要である。
自分が基準にしているものは何か?というと、ひとつに自分のこれまでの経験、というもので、もうひとつに世間一般の平均的な常識、というものがある。
どちらも、良さそうな基準ではあるのだが・・・ちょっと考えるとどちらにも限界があることがわかる。
自分の経験してきたことは限られるし、世間一般の基準はあくまでも平均的なものに留まるからだ。
照らし合わせる基準は、どちらの場合でも常に狭いものになってしまうわけだ。
客観視とは言っているものが、自分の枠、世間一般の平均の枠をはみ出ることができない、という結果になってしまう。
また、この客観視は自分が評価しているようだが、ともすると自分が正しいと信じている世間の平均に評価基準から評価されている、ということでもあって、これは周りから評価され続ける人生である、と捉えられなくもない。
何かに評価され続ける人生は、当然ながら常に気が気でなくてたまったもんじゃない。笑。
こうしてみると、良かれと思ってやっている客観視というもの、これにも危険がはらんでいることに気づいて、その危険の割にはそれを重宝がってきた自分にハッとしてしまった。
自分の客観視なんてのは大したものではないのだから、客観視をもう少し雑に扱わないとならないのだろう。
今更ながらそんな風な見方にあらためるのだ。
余談ではあるが、会社なんかで働くと歳を重ねる毎に人を評価する場面が多くなっていくもので、他人様の評価をそんなような狭い自分基準でもってやっていたかと思うと・・・。
無知、無感とは怖いものだと思う。汗。
孤独について
少し毛色が異なるが、今度は「孤独」というものを取り上げてみよう。
孤独もまた、客観的に自分を眺めた時に浮き上がるひとつの評価である。
人と人はいつも寄り添って協力し合うもので、分かりあえるものである。
という世間一般の基準に照らし合わせた時に、それらができない自分にネガティブな意味で「孤独」という評価を下すことがある。
これに関してもこの世間一般の基準に照らし合わせていいものなのだろうか?
人と人は寄り添って協力し合うことがどの程度まで必要なのだろうか?
人と人は本当に分かりあえるものなのだろうか?
分かりあうように努めることと、分かりあえるものである、ということとは似て非なるもの。
人は、最初から別々のものだからそもそも孤独なのであって、それが稀に寄り添えるから尊いものなのではないだろうか?
寄り添うのが当たり前と認識している人が、寄り添えないことに気づいて絶望を感じるのかもしれない。
そもそも、孤独が悪いことでもない。
そしてまた、ネガティブに孤独だと評価した場合、その評価する基準もまた怪しいということになる。
更に別の見方をすると、何よりも自分がやりたいことに夢中になれば、没頭すればするほど、浸れば浸るほど、客観視などしていられない、ということ。
客観視がなければ、評価がないのだから自分に対して孤独であると意味づけることがない。
周りから見てどんなに孤独に見えたとしても、本人が要らぬ評価をしなければ孤独を感じることはないわけだ。
これを人生全体に伸ばしてみた時に、夢中でやった後に、お墓に入る間際に人生こうだった、と自己評価すれば十分なのではないか?
そう考えると日々の自分の評価は早や過ぎやしまいか?
自分の拙速グセがここにも出ているようで苦笑いするしかない。
更に言えば、自分が墓に入る前に評価しなくても、周りが評価してくれる。
十分変な人だったと・・・。汗笑。
だから評価は人に任せればいい。
いや、人からも評価されなくていい。
客観視による評価なんか気にせず、好きなことに没入するから人生が面白いのではないか?それだけで十分なのではないだろうか?
客観視によって老化は加速する!?
若い頃は、まだ経験が乏しいし、世間一般基準に対しても無頓着だから、客観視するにしても評価材料がない。
だから、返って客観視による制約を受けないという自由度がある。
一方、経験を重ね、世の中を知った大人は逆にそれらから制約を受けることになる。
若いから何でもできる、歳を取ったら冒険ばかりしていられない、守りに入らなければならない、というようなことを聞いてきたように思うが、これも本当なのだろうか?
歳をとると、確かに体に無理は効かなくなるのだろうがそれに引きづられて、すべて冒険が「年寄の冷水」という言葉に単純にまとめられてしまってはいないだろうか?
これもまた世間一般の基準であるだけで、それ以上意味を持たないように感じる。
自由な選択がまだまだあるにも関わらず、重ねてきた経験、完璧にマスターした世間一般基準によって、それに蓋をされてしまうのだ。
その結果、自分の狭いの中に留まり続ける。
世の中がこれだけ変化しているというのに・・・。
関節に決まった動きしか求めなくなるように、頭でも決まった考え方しか求めなくなるといったようなことで・・・これは言わば客観視が老化を加速させているようなものだ。
それを避けるためは、自分に癖づいてしまっている客観視、そして自分の経験からの評価、世間一般の基準からの評価というものを自分が無視する、ということに尽きる。
敢えて評価の逆をいく、といった方がわかりやすいかもしれない。
そうすることで少しだけ若い頃の自由な選択に近づけるように思うのだ。
それでも、私がこれからする自由な選択なるものは高々知れているのだろう。(←これも要らぬ評価かもしれない)
しかし、自分の客観視への疑念が生じてしまったからには、少なくとも自分の枠から抜け出るチャレンジをしないわけにはいかない、そんな留められない思いを胸に進んでみよう。
・・・・・・
さて、若い頃の自由な選択、と言っておきながら、自分は若い頃から冒険しない人間だったことを思い出してしまった。
冒険しない人間だから、今更ながらその反動が出てしまったというのが今回のことなのかもしれない。笑。
まあ、反動が出ているのならば尚更のこと、それに向き合って自分の魂?を満たしてあげないとならないのは言うまでもないことだ。
UnsplashのIsaac Smithが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
子供の頃、親に評価されていた自分を思い出しました。
ウンザリだった感覚も同時に思い出しました。汗。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
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