子供から学ぶ大人の情操教育で、またひとつ殻が破れた。
再び、子供の自主性を重視する森のようちえんピッコロさんでの出来事から・・・。
その日の昼食は、みんなの分がまとめて用意されていて、そこからひとりひとりが自分の分を取り分けるというものだった。
A君は人の倍以上の量をよそった。
それによって、最後の方の子供が少量しかよそうことできなくなってしまった。
A君に「ダメでしょ!そんなに取ったら。」とダメ出ししないのが、このようちえんの保育方針。
保育士さんは、A君に「たくさん取ったねえ。たくさん食べたかったんだねえ。」と声をかける。
A君「うん。」
次に、保育士さんは少量しかよそえなかった子供に聞く。
「少ししか取れなかったけど、どうだった?」
B君「A君だけがたくさん取ってしまって悲しかった。」
C君「A君がたくさん食べたいならば、自分は少なくて大丈夫。」
これを聞いてA君が自ら何かを考えるのがポイントである。
このやりとりによって、A君は悲しんだお友達がいることを知って、悪いことをしたと思うように変化した。
時間が経ってもどうしてもこの出来事が私の心に引っかかって、何回も思い出してしまうようになった。
それの引っかかりは何なのか?
いろいろと考えていくうちに、「情操教育」という言葉が思い浮かんできた。
「情操教育」は、私にとって学生の頃からある種の気持ち悪さをまとった言葉であった。
そして、私は情操教育というものをこれまで一度も考えずに生きてきたことに気づいてしまった。
今回もいつものこと、それは遅ればせながらのことなのだが、情操教育について初めて考えてみたい。
情操教育とは?
この出来事で私がまず思ったことが、「たくさん食べたい」というわがままだって情緒の一つであるということだ。
この情緒は大人だって否定されるものではないはずだ。
次に、少量しか食べられないお友達をかわいそうに思う気持ち(情緒)をA君が全く持っていないはずはない、とも感じる。
A君はただ、「食べたい」という情緒の方が勝って、あるいは、「かわいそう」という情緒に気が付かずに、たくさんよそってしまっただけなのではないか?
人がこれらの情緒を両方持ち合わせているのは、それこそが生きながらえるための叡智であるはずだ。
ただ、人によってある特定の情緒が強くて他の情緒が隠れていたりして、バランスが悪いだけに感じられる。
すべての情緒は否定されるものではない、と言っておきたい。
この当たり前すぎることを自分が刻んでおきたいのは、情緒を起こす自分を否定して、情緒が出ないで冷静な人へと自分を強制してきたことへの反動なのだろうと思う。
情緒を出さないのではなくて、むしろ自分と他者に境がなくいろいろな情緒を感じられることが、ー情緒同士には相反するものがあり、複雑で選択は難しいのだがー結局は偏らないから理性的に見える理想の行動と言うべきなのではないか?
これが結局は上手な大人がしていることなのではないかと。
この一件で私の中に未だに横たわっていたまた一つの固定観点が壊れたように感じるのだった。
そういう意味から、「食べたい」という情緒も否定せずに、「かわいそう」という情緒を引き出す、という保育は、人間がどういう存在であるか?を自然に受け入れていて理にかなったもののように思えた。
には、情操教育の4種類が紹介されている。
<科学的情操教育>
自分の置かれている状況や事象を観察して、知的に判断する能力をつけることを言います。
<道徳的情操教育>
善悪の判断をしっかりとつけられる道徳心を養い、人として「善行」を行えるように教えます。
<情緒的情操教育>
命を大切にする「情緒」を育てます。ご先祖さまの大切さや、命の尊さを知ることで、人や動物の命の重さを知るこ
とができます。
<美的情操教育>
美しいものを見てキレイだと思える心を育てます。絵を見たり音楽を聴いたりしたときに
「美しい」「キレイ」だと感動できる心を養います。
ここには必要な要素が整理されているのだが、どうも語尾が気になる。
「能力をつける」「教える」「知る」
教育とは、ない能力をつけるものなのか?
知らないものを教えるだけのものなのか?
人間は、能力が後に開花する土壌を持って生まれてくる、そして、自分で知る(認識できる)力を持って生まれてくるのではないのか?
ならば、
「能力を引き出す」
「認識する機会を与える」
というような表現になるのではないか?
子供の教育のイメージは、真っ白なキャンパスに色付きの筆を入れるものといった固定観念が染みついているように思う。
実は、キャンパスには既に絵ができていて、それが無数のドアで覆われている、そのドアの一部は勝手にも開くが一部は外からノックしてあげるとそれをキッカケに開けてくれる。
このノックが教育であって、このようにしてキャンパスの全貌がだんだん見えてくるようなイメージなのではないか?
情操教育は情を操ると書くから、誰かに操られ抑制されないとならない、というイメージをまとっているようだったことが、私が「情操教育」に持つ気持ち悪さだったと、今ここでやっと説明できるようになった。
ノックをして(機会を与え)、開かなくても待ち(表出する時間を十分に与える)、決してこちらからドアを開かない(強制しない)というのがピッコロの保育なのだと思った。
正直と忖度
次の出来事を紹介する。
お食事会であるお子さんのお母さんが作ったケーキがふるまわれた。
ある先生がそれをいただいたところ、少しフルーツが酸っぱかったので、正直に「酸っぱいね」と反応した。
するとその反応を聞いた別のお子さんが、こう言ったという。
「折角作ってくれた人に、そういうことを言ったらいけないんだよ。」
先生はこの言葉に驚いたという。
先生は日頃から、できるだけ自分の思いを正直に伝えられる子供に育てようとしてきた。
だから、自分も正直であろうと努めてきて、自然に正直な「酸っぱい」が口に出たのだったのだが・・・。
先生は子供のこの言葉に驚いた。
ここにも、「酸っぱい」という情緒と「(作ってくれて)有難い」という情緒の両方がある。
私なんかは、自分になくなっている悪気なく正直なことを言えるピュアさを子供から気づかされて心が洗われたりするのだが、それとは逆のエピソードを聞かされて、二重に揺さぶられることになった。
大人だけが学習によって忖度を知っているものだと思っていたが、子供もわかっているのだ。
そもそも、ほとんどの人に知られてなかった「忖度」という言葉が悪い部分だけで有名になった。
シンプルに人の気持を察する情緒があるという話なのだ。
少なくとも、人は正直なだけではうまく生きられないし、忖度だけでもうまく生きられないことは学んできている。
私は、相手を不快にさせることは、正直な気持ちであっても否定されるべきと学んで、自分の正直な気持ちを否定して、自分の気持ちを塗り替えようとしてきた面がある。
周りからの抵抗からそのような無難な選択(不感症)に落ち着いてしまったのだろう。
そうしてまた、どうやら、
大人は感情的になってはいけない=悪い感情を外に出してはいけない。
ということと、
悪い感情は自分の中から湧いてはいけない。
を混同したまま生きてきたようだ。
情操とは、情緒を決して押し殺さずに情緒が出た後のコントロールの話なのだと分別した。
これは、子供も大人も変わらない。
「酸っぱい」=正直も「かわいそう」=忖度の両方のように、いろいろな角度からも情緒を自由に豊かに感じればいいのだ。
そこから行動(反応)に移すには言い方を変えるなど少し考えないとならないだけだ。
私はここまで、正直と忖度をあたかも対立軸のように据えて、正直が正義側、忖度が悪側に見るような感じで、この二つを曖昧にしてきたようだ。
そのままにして平気で生きてきた。
平気で生きているのはこのことだけではないんだろうけど。笑
正直と忖度に関して最低でもこのくらいの整理がないと、子供に対して申し訳ないように今更ながら思う。汗。
キレる
「最近はキレやすい人が多い」
このキレるをどう捉えたらよいだろうか?
には、最近の切れやすい人の原因が紹介されている。
①我慢や抑制をしない(前頭葉が活性化しない)
②疲労やストレスによるセロトニンの低下
③甘い物の大量摂取にいる血糖値の乱高下
②はスマホなどによる情報過多の社会環境によって起こっているという。
①の我慢・抑制について思うことは、我慢や抑制の経験がないから、甘やかすから、キレる、について違和感を感じる。
多くの人が隣接して住みながらにして、不快やリスクを減らそうとする現代社会では、昔に比べて制限が多すぎるのではないか?という思いがもたげる。
むしろ、我慢や抑制が多過ぎる環境なのではないか?
あれはダメ、これはダメ、と周りから我慢を強いられるとストレスが溜まる。
抑制や我慢を外から強制されるのではなくて、自分のいろいろな情緒の照らし合わせの末に、我慢や抑制を自分の意志で行うことが必要なのではないか?
情操は外のものが操るのではなく、自分で操るようになることではないか?
そして、この自分による我慢や抑制ができるためには、普段の我慢や抑制を少なくして子供の中に余裕を作る必要がある、それがピッコロの大人が指示しない保育なのだろうとも思うのだった。
情緒の素晴らしさ
いくつかの角度から情緒というものを見てみたい。
数学者の岡潔氏は、情緒の大切さを主張した人だ。
数学者とは、一見して論理的で情緒とは関係ないと思えるのだが・・・。
学問にしろ教育にしろ「人」を抜きにして考えている気がする。
~中略~
人を生理的に見ればどんなものか?
これがいろいろな学問の中心になるべきではないだろうか?
他にも、
・思考だけでなく、感情までも数学に没頭する状態が結果を出す。
・数学の定理を解くには、美や調和が必要である。
・定理を解いた時の達成感を味わいたいと切望する。
となどという意味合いのことを言っている。
論理的な思考も情緒の恩恵を受けて成就しているように感じられる。
岡氏は、情緒を十二分に味わうために電車で窓側に向かって正座することを厭わないなど、非常に個性的な人だったという。
次は、インドの宗教的哲人ジッドゥ・クリシュナムルティの自我の終焉―絶対自由への道から抜粋する。
・私たちの求めるもの(一般的に幸せというもの)は外にはなくて、自分の思考や感情や行為の過程をあるがまま(制限せずに受動的に)に見つめることから始まる。
・このあるがままから人はすぐに逃げ出そうとして、宗教や思想や党派という方式が重要になり、結果人間が無視されることになる。
・自分自身を理解しない限り、自分自身の内部が混乱しているから、そんな状態では社会の変革などはできはしない。
・自分自信を理解した時に、自分に静寂が訪れ創造性が現れる。
これらから感じられたことは、自由に生きるためにも幸せに生きるためにも何かを創造するにも社会を改革するにも、その原点にあるものが、感情(情緒)をあるがままに見ることである、ということだった。
これは5年前にこの本を初めて読んだ時には、感じられないものだった。
なんという長い間、これとは逆に出てきた感情を抑制しようとしてきたことだろうか?
感情が出ることは恥ずかしいことだと思い、
感情が出てくる自分を否定して、
出てきた感情に解釈を塗りたくってきた。
これがわかると感性を豊かにするために、芸術を鑑賞すべし、新しいことをするべし・・・などなどとよく言われていたが、ここにきてやっとその本意に少し近づけたように思う。
嫌だ、キライだ、気持ちいい、面白い、怖い、可哀そう・・・
自分の感情を自由にして、そのありのままを見つめて自分を理解していきたいと思うのだった。
今までわからなかった固定観念がまたひとつ壊れることになった。
このように日頃は気にもしないような細かいところに、まだまだ固定観念が染みついているんだろう。
さて、今回のかなり遅れてきた私の情操教育は、子供から学ぶことになったのだが、固定観念があるならば、どこからだろうと関係なく私はこれを壊し続けることにしようと思う。笑
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
前頭葉を損傷して、感情を失った裁判官の話を聞いたことがあります。
感情がなくなると冷静で良さそうなものですが、判決することができなかったようで、法律も可哀そう、ひどい、ずるいなどの感情を元にできていて、感情がないと量刑も決められないのだと思いました。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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