人間の「自己家畜化」という環境適応から導き出した、面倒くさがり屋に都合のいい未来。
前回記事では人間の「自己家畜化」について思うところをいろいろ書いたが、今回もこちらの本の内容をベースにして、人間の環境適応を学んでいきたい。
善と悪のパラドックス ーヒトの進化と〈自己家畜化〉の歴史
引き続き『人間とは何者なのか?』についてヒントになるであろういくつかの例の紹介から始めてみる。
ちなみに、私という人間はどこまで「自己家畜化」が進んでいるのだろうか?
そして「自己家畜化」の進む未来をどのように想像できるものだろうか?
「自慢話」が鼻につくのは?
まずは、ある狩猟採集民のボスの話が何とも興味深い。
我々は自慢する男を拒絶する。
自慢は、自分以外の者を劣ったものとすることの現れであって、その自尊心が他の者の命を奪うことになるからだ。
人間は他者に対して自分がすごいと示して、優位に立ちたいものだ。
そして自分の不都合な者が入れば排除してしまいたいのだ。
(タイプにもよるものの)人間とはそういうものである、という経験則からこの知恵が生まれたのだろう。
この自慢話を乱暴者になる予兆と捉えるところは何とも賢いと感じる。
現代において我々が自慢話を聞いた時に感じる退屈さ、あるいは、少し嫌な感じも、これと同様に乱暴に振舞われることを警戒するからなのではないか?
そんな風に感じる。
現代は、命が奪われることはなかなかないだろうが、身動きがとれないようにされることはあるのだろう。
自慢話に嫉妬するのもとどのつまりは、このような警戒からくるのではないか?と。
ここで、2つの進化の方向が思い浮かぶ。
①自慢主の「自己家畜化」が進めば、自慢は周りから嫌われる、と感じて自慢をしないようになっていく。
②聞き手の「自己家畜化」が進めば、自慢主が乱暴者になることは少ないと認識するので、自慢話を嫌に思わなくなる。
現時点では①の方が早く進んでいるように思う。
やはり目の前の問題を真っ先に除外していくのが人間であって、一方では警戒はなかなか解かれないのが人間なのだろうから、①が早く進化するのが必然なのかもしれない。
アイランドルール
次に、生物の進化に関するアイランドルールなるものを紹介する。
島に棲む生物には、島以外の同類と比較して以下のような特徴が見られる。
・攻撃性が低い
・小型化する
・性差が小さい
・長生きである
島という狭い場所では争ってしまうと争いが頻繁になってしまい、それが得ではないことを学習する。
それによって攻撃性が低くなるということらしい。
小型化する、性差が小さい(争いに勝たなくてもいい)、長生きすることもこのことに関連しているのではないだろうか?
これは自然環境による「自己家畜化」と言えるものなのだろう。
ここで思い浮かぶのが、日本という島国。
島というには大きいのかもしれないが、上記のアイランドルールの特徴がどうも日本人の特徴と一致してはいまいか?
鎖国時代も長く、島国特有の進化が進んだのではないか?
村という共同体において「出る杭は打たれる」「村八分」などによって共同体の異分子を排除し、平和を維持していたことも、アイランドルールになぞられる。
※現代では、この争いを避けて協調することが既得権益を産み、圧力によって旧態依然とした現状の打破ができないといったように、協調がまた別の問題を引き起こしていたりもするのだが。
平和な島で争いがなくて、更には外から情報が入らないと、ピュアで信じやすくて騙されやすくもなる。
これは日本人の特徴のように感じる。
話は少し横道にそれるのだが、日本の縄文時代は平和な時代が長く続いたと言う。
その要因に日本人のDNAが素晴らしいという説も出ているようなのだが、私は地政学的に見て島国である日本は外敵の侵入が難しく、それに加えて日本列島の食べ物が豊富、争う必要が少なかったから、というのが大きいのではないかと思っている。
これらがつながって、人間の環境適応をもう1段深く理解できたように思う。
ペドモルフォーシス(幼若化)
続いて、自己家畜化の結果として上げられる特徴=ペドモルフォーシスの話だ。
例えば、我々の先祖はその頭蓋骨(一例として偏桃体)が大きくなって成熟したのに対して、我々の頭蓋骨は途中の段階、頭蓋骨(扁桃体)が小さいままで成熟が止まってしまうことや、未成熟の子供である期間(親が面倒を見る期間)が長くなったりするなど、種が幼若化することをペドモルフォーシスという。
前出したように周囲の危険が減ると警戒を司る偏桃体が大きい必要がなくなる、ということや、同様に危険が少ないから子供が早く成熟しなくてもいい、ということが影響していると思われる。
廃用性の萎縮により、使われなくなった機能は省力化のために退化するようにできているのだ。
島国の日本人が海外で若く見られることなど、子供っぽいところを裏付けているようにも思う。
また、自己家畜化した種は、大人になっても子供のようによく遊ぶともいう。
警戒がなくなればゆとりができて遊ぶことを選択するのだろう。笑。
縄文時代にできた土器などが実用的なものというよりは芸術的だったこともうなずける。
さて、このペドモルフォーシスを知ると、ペドモルフォーシスが、生活の中で私が感じてきたいくつかのことと符合するようにも感じ始めた。
現代人は先輩世代より若く見えて長生きだ。
現代人は道徳心が低下している、とよく言われる。
最近の若者は根性がない、と私の世代は思ったりする。
先輩世代と話すと常に何かと勝負しているように感じる。
長生きなのは、社会が衛生的になって栄養が満たされてきているから、などの要因もあるとは思うが、それに加えて争いが少なくなり、警戒が少なくなったからではないだろうか?
若く見えるのも警戒が減少して幼若化が進んでいるからではないだろうか?
警戒が強いと眉間の皺は深くなるし。笑。
私なんかは、もう少し年をとったら素晴らしい道徳心を持つ偉人に少しでも近づけるのではないか?と思っていた時期もあったものだが、今ではいくつになってもああはなれない、と確信するに至った。
どう比較しても、どこか無責任で子供っぽい自分がいるのだ。
多少の経験からではあるが、争いはどうもコスパが悪いという印象だし、必要最低限の道徳心を持って周りと調和して生きている、いや、生きていると思っている。
社会は結構平和だし(安心できるとは言えないものの)、争い事はとにかくかんべんだ。
そして、足りない道徳心を積むよりもやりたいことをしていたいと思う、まるで子供のようなのだ。
これは私個人の素養の問題なのかもしれないのだが、私のこの反応は、環境適応による幼若化が理由だったのかもしれない。
どうやらうまい言い訳を見つけてしまったようだ。笑。
このように暖かい部屋で、自分の考えていることを好き勝手に書いていられるというのも子供そのものと言える。
人間の自己家畜化、あるいは幼若化に照らし合わせてみると・・・
若者が根性なく見えるのも、根性を出す必然性が薄れたのではないか?
先輩が何かと戦っているのは、これまでの警戒の名残なのではないか?
警戒が薄れた者から見ると、どうしてもその過剰な警戒に違和感を感じてしまうのだ。
かつて私の親世代は、大丈夫なのか?と私を心配したが、私はそれほど気にしていなかった。
そして私は今、私の子供世代を、大丈夫なのか?と心配するが、彼らは我関せずだ。
そういうことなのだろう。
これは、先輩が構築してきた平和な社会というものが、先輩が求めるところの若者の根性と道徳心への興味を奪ってしまった、と言えなくもない。
なんとも皮肉に見える。
私にまれに起こる、時に支配される恐怖に襲われて、その人に噛みついたりしてしまうこと。
手を出すというのではなく、言葉によって合法的な範囲?で。汗。
これは警戒の名残りなのだろう。
同時に、一方では勝負というものにお腹一杯になっている自分がいる。
このように留まることのない進化の途上にいることを実感する。
都合のいい未来へ
この自己家畜化、幼若化が進む未来はどのようになるだろうか?
このサイトRANGERのライター田中さんから前回の「自己家畜化」の記事への感想をいただいた。
その中にあった言葉は、
「自己家畜化という進化のスピードに振り落とされる人が多いのではないか?」
というもので私にはなかなか刺激的なものだった。
なぜ刺激的かを考えてみると、私の中には自己家畜化、幼若化という進化に対して、「人間が弱くなる」という意味合いで負い目を感じるところがまだ残っていたからのようだ。
また、サイレントインベージョン(武力行使によるものではない長い時間をかけた侵略・支配)に対応できなくなることをどこか警戒して、進化しては危険だという思いがある。
これに対して、田中さんの言葉に、「進化待ったなし!」という力強い前提が感じられた。
そうだ、確かにこの流れに抗うことなんてできないのだ。
既に若い世代はそれを無意識に感じてそのことを前提で生きている、それが進化の実態なのだと考え直す。
この待ったなしの進化、この流れに身を委ねることは、チャンスと言えるのではないか?
という思いが浮かんだ。
警戒が減っていく平和な社会は、物理的にそこに割いていたリソースを別のものに割くことができるようになる。
幼若化した新種の大人はまた遊びが大好きときているらしいが、時間があれば遊ぶのは当然だろう。
縄文人が浮いた時間で芸術的な器を造ったように。
遊びとは、芸術やスポーツに限らず、その他様々なことに可能性がある。
オタクと言われる存在は、警戒リソースを自分の好きなことに回した進化系とも言えるのだろうと思う。
夏目漱石だったら、最近は自己家畜化によって道楽者が増えた、と言うだろうか。
好きなことに時間を注ぐことを躊躇しない、ここにチャンスがある。
躊躇しなければ、その分野で才能を発揮することになる。
そのことが、偏桃体が退化して別の部位が進化することを早めることになる。
未来のユートピアは、警戒なくピュアで騙されやすい子供のような人間たちが自分の好きなことで遊びながら、好きなことに夢中になって才能を発揮している社会を想像する。
私は、下手な心配をよりも、待ったなしに愉しいことを愉しもうと思うように変化した。
この愉しみとは、ここまでの仕事やストレスから解放されて癒されるための、旅行やマッサージや食事といった”楽しむ”ではなくて、多少の苦痛があっても”愉しめる”ものだ。
その愉しみが仕事になってもならなくてもどちらでもかまわない。
愉しむことが人生であり、それぞれの愉しみが阻害されないことが究極の社会の進化形なのではないだろうか?
これは、自己家畜化という必然を知って、面倒くさがり屋の私が導きだした都合のいい未来像だ。
この未来は自分の生きているうちにはまだやってこないとは思うのだが、それでもこの未来に向けて前倒しで始めておこう。
今から愉しむことを準備する。
「人生を遊び愉しむ」とはよく言ったものだ。
人生の意味は唯一愉しむことにある。
無理に大人になろうなんて思わなくていい。
幼若化者が大人を取り繕うなんて必要もない。
平和が続くならば、どんなに年をとっても遊び愉しむのだ。
どうも楽観的だが、これも幼若化の表れとしてご勘弁いただきたいと思う。
さて、最後に更に楽観ついでに・・・
恐怖がなくなるひとつのしくみとしてベーシックインカムというものがある。
縄文人で言えば、少しの狩りと野山の散策で食べ物に困らないという当時の状態がベーシックインカムに似ているように・・・。
これは人生を愉しむための福音だと思う。
ところが、ベーシックインカムが充実しても、ストロングゼロを飲んでパチンコしてしまうだけになってしまうから、よろしくない、などとベーシックインカムを危険視する向きもある。
あまりにも平和になると人間は堕落してしまうのではないか?
という懸念だ。
それでも私は、疲れ果ててしまわない限り、そんなことになっては結局退屈するのが人間なのではないかと思っている。
退屈すると愉しみを探すのが人間なのだと。
この愉しみを探す好奇心がいくつになっても枯れないのが、また幼若化の特徴でもある。
反動から一時は堕落するような時期を経るかもしれないと思うものの、私はそうでない人が大半を占める未来をどこか期待しているのだ。
最後に繰り返すのだが、私には良いことがあるとそれは当たり前として、次の心配を探す癖があるのだが、そんなことはやめて待ったなしの自己家畜化、幼若化に身を委ねようというところに思いが至った。
それが自然な環境適応。
目指すものは、そう、大人になるでも、徳を積むでも、成長するでもなく、自然に環境適応する、ということだ!
UnsplashのBenjamin Daviesが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
幼若化というのは不要になった過分なものを削ぎ落すということなんだと思います。
よく考えるとなじみのある大人(らしい)、子供(らしい)という言葉の定義もわかりやすい年齢というものを除けば、なかなか怪しい言葉だと思います。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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