RYO SASAKI

人間の「自己家畜化」という環境適応から導き出した、面倒くさがり屋に都合のいい結論。

タナカ シンゴ

世の中の争いはいつになっても絶えることがない。

それをニュースで知って、不安と恐怖を完全に払拭することができない自分を時々認識することになってしまう。

そんな時に浮かんでくるのが「我々人間とは何者なのか?」という疑問だ。

この疑問に対して私が今納得できている回答というのは、

「種は生きながらえるために適応している」

というものだ。

このことは以前の記事、『すべては生きながらえるため』 にも書いたのだが、争うのも協力するのもどちらも生きながらえるための環境適応の一環なのだ、と言い聞かせることで心が穏やかになるものだ。

人間は環境に適応するから環境によって変化し、よって、人間がどこに棲んでいるかが大きく影響するものである。

そういう意味で、地政学的な見方にも興味が湧くようになった。

最近、この見方を更に強固にしてもらえる本を紹介いただいた。

善と悪のパラドックス ーヒトの進化と〈自己家畜化〉の歴史

こちらの本では、大きな環境適応の例としての「自己家畜化」を紹介していて、そこから見て人間の本来は善なのか?悪についての考察も加えている。

納得いくところが多かったので、紹介をしてみたい。

人間は『自己家畜化』してきた

家畜化とはその言葉通りに、動物が人間との共同生活に適応するために進化することを言う。

野良犬とペットの犬が別の生き物になっていると言われるように、狼とその狼を祖先とする犬も大きく変化して異なる性格を持つようになった。

家畜化した動物は野生の生き物と比較した時に、攻撃性が低く、従順である。

そうした方が生きながらえられるのに有利であることを学習して適応しているというわけだ。

では「自己家畜化」とは何か?

家畜化と言えばそこには飼い主がいるわけだが、人間は飼い主がいない中で、人間が自らによって自らを家畜化した、という意味の言葉である。

この言葉はここまで私に引っかからなかったのだが、100年以上前から人間に対して言われている言葉らしい。

人間は昔はもっと攻撃的で争いも暴力も殺人も多かったのだが、それにリスクがあるとして攻撃性を低くして(我慢して抑えて)周りと協調する生き方を選んできたという。

ネアンデルタール人が絶えて、ホモ・サピエンスが残ったことの理由がここにあるのではないか?という仮説まで示されている。

確かに10万人当たりの殺人による死者数などはずーっと減少してきている。

大戦などの際は死者数は一時的に跳ね上がったもののそれより昔には及ばない。

家畜化すると体格的にも変化があって、野生よりも小型化したり、耳がたれたりする。

耳が垂れている野生動物などは存在しないのだ。

危険を察知するために常に耳を澄まして警戒する必要がなくなるためなのだろう、と想像する。

人間の頭蓋骨はあるところまで大型化してきたのだが、現代はMAXの時より小さくなっているらしい。

脳の偏桃体は、不安や恐怖を感じたりする部位なのだが、当時より人間の偏桃体は小さくなっている。

当時は生きながらえるために、不安と恐怖を感じて警戒することが必要だったが、平和になった現代は、その必要性が少なくなったということなのだろう。

これは、時間スケールこそ異なるものの、自動車によって脚力が弱くなったり、パソコンによって漢字が書けなくなったりするのと同類のことだと納得できる。

どのようにして自己家畜化したのか?

なぜ、自己家畜化してきたのか?その要因について紹介する。

社会にはいつの時代も暴君だったり、暴力的な者だったり、人々の生活に危険(迷惑)を与える者が必ず存在してきた。

ある狩猟採集民では、現代においても長らく続いている乱暴な男性に対して、女性が協力して乱暴者を抑制したという例がある。

人間以外の哺乳類にも一部認められる。

弱い者が連合して乱暴者に制裁を加えたり除外することによって平穏を取り戻す道を選んできたわけだ。

それは当たり前に生きながらえるための知恵だと言える。

人間のこの連合は言葉が生まれたことでより強く確実なものになった。

暴君に対してなすがままになっている時代も長かったわけだが、この連合を元にしてそれが法につながり、乱暴者の除外が実現してきたということなのだろう。

好き勝手やる者は周りから(あるいは法によって)制裁を受けるようになって、勝手なことをするよりも協調することを選んだ方が生きるために得だと考えるようになった。

こうして自己家畜化が進んでいった。

ところで、「自己家畜化」という言葉、すごく印象の悪い言葉だ。

更に「家畜化症候群」とも使われるなど、なってはならないような病気のごとく語られてもいる。

飼いならされているような意味合いは、自尊心のある人間には非常に嫌な言葉だ。

「自己家畜化」なんて言わずに、「温和で従順に進化した」あるいは「争いを避けるように進化して平和になった」とか言えばいいのに・・・。

でも・・・制裁がないとやめないのが人間なのだから、制裁に飼いならされるという意味で「自己家畜化」という言葉は皮肉にも的を射ているかもしれない、と苦くも認めてしまう。

一方では乱暴する前から、協調して生きている種もあるのだろうと思うのだが・・・。

人は一律ではなくて、進化の速度もバラバラなのだろう。

人間は善なのか?悪なのか?

狩猟採集民においてもその後の現代においても、乱暴者や無法者を社会は処刑してきた。

また、狩猟採集民は、仲間同士で争うことはないのだが、外部の別の狩猟採集民とは激しく争い殺し合うことがあった。

同様に現代の戦争になると敵国と激しく争い、殺し合う。

自分の生存に悪影響を及ぼす敵に対しては自ら生き延びるために残虐にもなる。

一方では、家族や仲間には優しく愛を注げる面も持ち合わせているのは、昔も今も同様なのだが。

処刑、殺し合い、戦争は共に「殺人」に括られる。

現在では「殺人は悪である」と言われるのだが、これは果たして人間の「悪」なる部分によるものなのだろうか?

性善説か性悪説か?この本では以下の2つの説を引き合いに出している。

〇ルソー派・・・人間は社会のせいで堕落した生まれつき平和な種である。

〇ホッブズ派・・人間は社会のおかげで文明化した生まれつき凶暴な種である。

本の中では、性善、性悪の両方とも正しいと主張している。

両面を持ち合わせていると。

これにも共感はできる。

悪の部分も、善の部分も持つ。

生きながらえるためには両方が必要である、人間もそういう種なのだと納得するのだ。

私は法というシステムに任せてしまっていて、自分が罪人の処刑(殺人)とは関係ない、ということにしてしまっていることに気が付くのだが、それによって平和の恩恵に預かっている。

手を下していなければ悪ではないとは言えないだろう。

更に辞書を見ると、

善とは「正しい。道徳にかなった。立派な。すぐれた。」とあって、

悪とは「正しくない。よくない。不道徳。また、法律に反すること。みにくい。不快な」とあるが、

正しいとは何なのか?

道徳とは何なのか?

多くの人に共通する部分があるとは思うものの、どこからどのように見るかによって変わってくることもあろう。

定義もあやふやで見る視点によって異なるものをどっちかに決めようなんていうのは、今風で言えば、無理ゲーというものだろう。

世の中には無理ゲーを解こうとする学問があって、私のような根性なしはその学問の前から早々に退散したくなってしまう。

よりよく生きるために、別のアプローチがありそうに思える自分がいるのだ。

「よりよい」というのもなんだか同じようにあやふやなのだが・・・。

現在や未来に照らし合わせてみる

さて、この「自己家畜化」説を知ってこの先に役立てることができないだろうか?

この説から、どんどん殺人や暴力が減ってきている社会は、安全安心そのものでずいぶんと私の偏桃体も小さくなり、警戒を解いて楽観的になっているものと思われる。

もちろん地球に現存する核兵器というものの殺傷力を前にして決して安心などはできないのだが・・・。

その現代において、警戒心が強く他人を信じないし他人と交わらない人がいるとすると、その人は偏桃体が大きく残っている人なのではないだろうか?

例えば、警戒の強い環境で人生を歩んできて、自己家畜化が遅れた人ではないかと。

当時は警戒しないと命が危なかったのだが、今はそんなに警戒しなくても命の危険はないのに、警戒だけが残っている、ということと言えるように思えるのだ。

何も自己家畜化が遅れることが悪いわけではない。

逆にこんなこともあるだろう。

日本人は海外旅行でのスリやヒッタクリのカモになるなど、警戒心が弱い。

これは、安全安心の日本にいる日本人は「自己家畜化」が一番先行しているからだ。笑。

いわゆる平和ボケと言って揶揄されるような状態。

どうやら、家畜化のスピードが遅すぎても早過ぎても進化の過程で痛い目に合うということがありそうだ。

環境変化はエリアによって一様ではなくて、一方の適応する側も人によってバラバラであって、いろいろな痛みを経験して修正しながら適応は進んでいくものなのだろう。

適応とは試行錯誤そのものかもしれない。

また、仮にここまでの平和が何かのキッカケで激変して戦争に巻き込まれた時に、「自己家畜化」した我々の戦闘能力はかなり低いのだろうと心配になったりもする。

まあ、そんな激変は考えにくい、というよりもむしろ考えたくない。

でもこんなことが既に起こっているのではないか?

我々の求める平和は、殺人の数や法律違反の数で測れるものではなくなっている。

すぐに刃物を出して振り回されることは少なくなるが、もちろん合法的であってすぐには自分の危険や脅威に見えないようなものが、長い時間をかけて自分の生活に影響してくるというようなものがあるように感じる。

現時点で良しとされている何かのルールやシステムが、行き過ぎや抜け道によって欠陥が出るようなこと。

そのことにより、例えばあるところから食べ物が得られにくくなっていくようなこと。

人は、生きながらえようとする種だから、合法の範囲で周りから迷惑だと言われるところまで自分の優位を目指すだろう。

その行き過ぎのルールやシステムは後から法で規制されるように追いかけることになる。

これからは、直接的な恐怖と不安それに対する警戒から、ジワジワと時間をかけて変わる見えないものに対する警戒に変化していくことが新しい環境への適応で既に始まっていることなのかもしれない。

この適応は情報戦になって頭の別のところに使うものーそれは狡猾と呼ぶにふさわしいところなのかもしれないがーに変わって、人間の以前よりも小さくなった頭蓋骨の中の大脳新皮質のある部分が凹っと飛び出す形質として進化が現れることになるのかもしれない。

さて、この「自己家畜化」説から、日々の生活に活かせることを引っ張り出したいと思ったのだが、なかなか難しいようだ。

「自己家畜化」しているから、警戒を緩めないようにしよう、と言うのも環境適応に抗うようで無理がありそうだ。

みんなが一緒に何かになるということを種としては選択しないから、結局警戒を緩めない種と警戒を緩めた種がバラつく中で、全体で適応もバラツキながら未来が作られていくのだろうと思うのだった。

せめて、このように人間を種として大きく俯瞰してみることの利点欠点を確認して終わりたいものだ。

まずはあらためて「すべては生きながらえるため」とは歪められない根本にあるように感じる。

いろいろ学ぶ学問、その中にある道徳心などという概念は、この根本のサブの位置づけでしかないと感じるのだ。

ここに軸をおいて物事を眺めていくことが無理がないことなのだろうと思う。

そして、日々のいろいろなストレスを種の進化のバラツキによる仕業として片づけることができる。

これはあきらめに近いかもしれないが、納得と安心をもたらす。

更にまた、大きく俯瞰すると種の一つがどうあがいてもしようがない、などと楽になることもできる。

しかしそのことは同時に、自分の無力さを痛感することでもある。

このように、いくら種の法則から学んで私の頭で考えて未来を想像したとしても、頭での思考、想像には限界があって、早く進化するかゆっくり進化するのか?どこを自分が選ぶのか?についてどこかそれを凌駕する運命的なものに決められているようで、このことを知らなかったとしても何も自分が変わらないようにも思えるのだ。

そう、自分は無駄な労力を使って考えているのではないかと・・・。

それでも、根本的なところの理解があるとあまり細かい学問、議論にツッコんでいかずに、省力化して生きることができるのではないかとどこか満足している自分がいる。

こうしてみると「無理しない」「楽になる」「省力化できる」など、私という者はどこまでも面倒臭がり屋にできているようだ。

そしてまたこのように考えている私自身が、「自己家畜化」のもたらす、まさに「ペドモルフォーシス(幼若化)」の形態そのものなのではないか!

新しいワードが出て変な結論を出してしまったところで、次回もこの本の紹介の続きで、この「ペドモルフォーシス(幼若化)」による面倒くさがり屋に都合のいい未来について、そしてワード「自慢」「アイランドルール」などから、環境適応の先のチャンスについて思うところを続けてみたい。

UnsplashChristopher Windusが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

種の環境適応はどこまでも続いて、納得することはなく変化していくのだろうと思います。

平和になれば弱くなる、という不都合は何とも興味深く、逆にチャンスではないかと。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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