RYO SASAKI

I could change the world!物の見方を変えて、新しい世界を創っていこう!

タナカ シンゴ

少し前に読んだこちらの本は、1884年に出版された古典的な名著だ。

この物語の中で特筆すべきは、

二次元での 〇 という形は、 

一次元では ー にしか見えない。

→一次元では、平面の〇を地面にペタッと倒して、地面上から横を見ることしかできないから。 

また、

三次元での 球体 は、 

二次元では 〇 にしか見えない。

二次元には奥行というものがないから。 

というところだ。

次元が低いと全く見えないものが、次元が上がると急に見えるようになる。

もし私がこの本を若い頃に読んだならば、「(興味のある)四次元のことは何も書いてない、子供騙しじゃないか?」と不満を漏らしていたことだろうと思う。

この年になってやっと、この本が示唆していることをわずかながら感じられるようになった。

それは、決して次元が上がったわけではないものの、それまで自分に全く見えてなかったものが、突然見える、というような経験が起こっていることによるんだと思う。

こういった突然視界が変わる、といった感覚は何とも驚きであり、時に気持ちいいものでもある。

今回はこの「見えてなかったものが突然見えてくる」ということについて、今感じていることを書いてみたい。

次元が変わるようなこと

さすがに人間が、4次元世界を感じられることはこの先もないように思う。

それでも、次元が変わったように感じることで、思い出したことがある。

インターネットの存在がまだ一般に知られる前に、会社の中でNTTの専用線を使って情報のやりとりを自由自在にするような事業を描いていたことがあった。

そうしていると、何だか米軍?が使っていたインターネットなるものがあって、無料で提供することになった、と聞いて泡を食わされたのだ。

「有料で商売にしよう、っていうところに、無料ってどういうこと?」

と、すぐには理解ができなかったことを今でも覚えている。

インターネットのようなしくみを作りたかったが、既にあるインターネットが突然目の前に現れてきたのだ。

その出現によってゲームが変わってしまった。

書いていて、次元が変わる、で思い出すには、あまりにショボいことに愕然とする。汗。

まあ、このような黒船が突然現れる、みたいな変化は世の中で頻繁に起っているんだろうと思う。

私のショボい話を持ち出すまでもなく、例えば産業革命、例えば明治維新、あるいは敗戦・・・・歴史上の大転換点においては、そこで当時の人に突然見えたものは、とんでもないようなものだったのだろう、と想像する。

自分が変わることでも見えるものが変わる

先ほどは、環境の変化によって見えなかったものを否が応にも見せられてしまう、という例だった。

これに対して、周りは大きく変わっていないのに、見えないものが現れてくるケースがある。

自分のモノの見方が変わることで、今まで見えなかったものが突然見えてくることがある。

また、つたない経験を書いてみることにする。

ある時自分というものが、社会や企業といった組織の常識に縛られている、ということが見えるようになった。

会社人を卒業してしまえば、利害関係が絶ち切れるのだから、すぐにそんな呪縛はなくなるものだろうと思っていたが、組織から外れてずいぶん経ったある時、未だに呪縛があることに気づいた。

例えば、当時の会社への愚痴を思い浮かべてみる。

そして、それを思い切って口に出してみたら、最初の頃、ひどく罪悪感を感じた。

自分の生きてきた道を美化したい気持ちがそうさせたのかもしれない。

その後は、その罪悪感がだんだん薄れていって(笑)、思ったことが口をついて出るようになって少しずつスッキリするようになった。

当時、解決策のない愚痴などというものは、責任のある者として、口が裂けても言わないのが流儀であって、大人の常識でもあった。

でも、今思えば様々なことに突っ込み処満載だったから、もっと言ってもよかった。笑。

思ったとしても言わないように抑制してきた、いや、それよりも感じないように抑制してきた、と言った方がいいのではないかと思う。

その抑制が未だにあるから、どこか罪悪感を感じる。

自分にまだ罪悪感があることで、私がまだ自由になれていないんだ、と感じたのだ。

断っておくが、私は勤めていた会社が悪かった、とか、上司が酷い人だった、とか言いたいわけではない。

組織の中にいるとその組織の目的のために動くことが不可欠で、どんな素晴らしい会社であっても文句を言わないように個人の感覚を抑制しないとならないもので、その抑制は個人にとって負荷がかかるものである、組織と個人との関係はどう転んでも難しいのだ、ということを言いたいのだ。

そしてこれはまた、会社に限らず、昔でいうところの村落という共同体、あるいは国という共同体、更には家族というある意味組織においても構造的に起りうるものだ。

私は、会社人の自分とプライベートの自分を分けられていて、自分という者を持って生きているつもりでいたが、会社人としての時間に浸食されて、いつからかビジネスマンとしては進化した自分、同時に本来の自分らしさからは歪んだ自分というものを創り上げてしまったようなのだ。

そんなことが感じられると「自分というものを活かすために、社会や組織のルールをうまい具合に使っていくものだ」という新しい人生観が見えるようになり、そのことが見えると今度は「人生というものは、元々自分に不足している社会や組織のルールを自分に沁み込ませることを目的とするものだ」という人生観をこれまで持っていた自分に気づく。

何を今さら、と言われるかもしれないが、これはルールを主、自分を従にしていた人生を、自分を主にルールを従にする、主従転換という大きな価値観の変化なのだ。

これは流石に大げさ過ぎか?笑。

さも呪縛を抜けた風なことを言って見るも、まだまだ組織の呪縛から抜けていないところがたくさんあるように思う。汗。

不思議なもので、このことが見えてくると人と会話している時に、今度はその人が何を大切にしている人なのか?悪い言い方をすると何に縛られている人なのかを感じられるようになってくる。

私に「人生というものは、元々自分に不足している社会や組織のルールを自分に沁み込ませることを目的とするものだ」という人生観があったように、人それぞれが自分が大切にしている人生観をもって生きている。

それは時に人を縛りつけるものでもあるのだが、それぞれが持つその人生観と、それが出来上がった経緯を知りたいと思うようになった。

言わずもがな、これは周りの人が急に人生観を持つようになったわけではない。

私の物の見方が変わってそこに興味を持つようになったから、そこにセンサーが働くようになったのだ。

こうして物の見方が変わると見えなかったものが見えるようになる。

何とも遅きに失する話だ。

そのセンサーがどれほどのものか、怪しまれないうちにせめてできる風のまま、次の話に移ることにする。笑笑。

新たなゲームが見えた

次の話は極最近のものだ。

投資のことをかじり出して、また見え方が変わった。

そもそも、株を代表とする投資なんてものは、私の親の世代から怪しまれていたものだったから、親の価値観を私もそのまま持つことになった。

更に、会社人としてバブル崩壊を経験したことで、より危険なものに見えるようになった。

あぶく銭なんてのをあてにするようになると人として終わりだ、とか、汗水たらして働いて稼がないと、とか・・・。

これがまた、戦後教育によって特に日本人に強く沁み込んだ価値観でもあったのだろう。

昔は、銀行預金が今では信じられないくらい高金利だったからそのことも一役買っているように思う。

また別角度のことだが、最近ではお金で人は幸せにならない、という価値観もよく聞くようになった。

これらの価値観が浸透してきたこと、これが私が投資に対してどこか罪悪感を持っていることの背景にある。

そして、投資というものからどこか距離をおいてきた理由でもあるのだろうと思う。

日本人が投資している割合は20%以下なのだと言うが、うなずける気がする。

さて、直近の為替レートは1週間で十数パーセント円安に動いた。

放っておいたら、どんどん円が目減りする。

輸入に頼るところが大きい日本は円安によって、インフレになりやすい。

政府は補助金をばら巻いて、ガソリンの高騰を抑えているが、補助金が外れると200円/㍑くらいになるんだとか・・・。

それでも、デフレが長かった日本人は、インフレなんて起るまい、と高を括っているようなところがあるらしい。

確かに自分もそんなようなところがある。

アメリカの景気次第で、あるいは金利設定次第で、為替レートが動く。

アメリカによって生活が大きく揺らぐという不安定な社会構造。

これにただただ納得して生きていていいものなんだろうか?

急に自分の足元がグラついて見えるようになった。

この本で示されたのは、

「r>g」

「r」=資本収益率 「g」=経済成長率。

という不等式だ。

投資した場合の収益の成長が労働による収入の成長を上回るというものだ。

出版されたのは2014年のことでそこから既に10年が経過している。

当時これを読んでも自分の行動はなんら変わらなかったものだ。

しかし今回、この不等式を最近の自分のグラつく足元で眺めると、新しい世界が見えてくる。

通貨の発行の主導は中央銀行から政府に移り、更に緩くなるから通貨価値は下がり、株価は上がり続け、インフレ方向が強くなる。

そんな世界は、労働を主にするものから、既に投資を主にするものに変わっているんではないのか!

そう、ゲームが変わったんだ。

正確に言い直すと、かなり前から周りはそうだったのであって、今回私の物の見方が変わったことで新しいゲームが見えた、というわけだ。

グラつく足元を守るために、自分を防衛するために、

「あぶく銭なんて・・・」

「汗水垂らさないと・・・」

などとは言ってはいられない。

胡散臭かった投資というものに自分なりの大義名分を与えることで新しいゲームが今、始まろうとしている。

そんな風な世界が私の目の前に広がった。

物の見方を変えて新しい世界を創る

ディズニーランドのことを「天国だ!」と言ってリピートする人がいると聞く。

人は自分の物の見方によって自分の世界を創っているものだ。

ディズニーランドのように、この世の中を天国と捉えることもできるし、逆に地獄と捉えることもできる。

人はそれぞれが創造した(こうだと捉えた)世界の中に生きているのだ。

そして、その世界は物の見方を変えることで変えることができるのだ、ということを今回再確認するに至った。

ここまでのところで、これからのことをまとめてみることにする。

私が目指すものは、

「これからも自分に見えてないものを発見して、自分の新しい世界を創造して行こう!」

とでも言ったらいいだろうか・・・。

新しい物を発見した時の気持ち良さと言ったらないし、新しい世界を創造できればできるほど、世界が広がって人生が豊かになるように今感じ始めている。

落ち着かない私だから、所詮固定的な世界に飽きがくるんだろうし・・・。笑。

さて、これから自分はどれだけ新しい世界を創造することができるのだろうか?

その質はともかくとして、非常に楽しみだ。

先日のカラオケスナックにて。

隣に座ったのは、今日退院してきたという人だった。

よく見ると隅っこに車椅子が畳んである。

お祝いの乾杯の後、しばらくしてその人から、エリック・クラプトンの「チェンジ・ザ・ワールド」をリクエストされた。

聞いたことはあるが、歌ったことがないので、恐る恐る歌い始める。

すると、その人が同時に和訳の歌詞を被せてきた。

I could change the world

(僕は世界を変えられる)

I would be the sunlight in your universe

(僕は君の世界を照らす太陽の光になるよ)

You would  think my loves was really something good

(きっと君は、僕の愛を素晴らしいって思うだろう)

私はその人の思いをどこか感じて、下手くそながら一生懸命歌った。

歌いながら、昔初めてこの歌詞を知った時に、ずいぶん大げさでキザな歌だ、と思ったことを思い出した。

でも今は、これだ!って思った。

人は(自分の)世界を変えることができるのだ!

キザな歌詞に共感するとは、柄にもないのだが。恥汗。

UnsplashFabien Bazanegueが撮影した写真

【著者プロフィールと一言】

RYO SASAKI

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

世界は簡単に変えられないが、自分の世界を創造し続けることはできる。

それは何も独りよがりの世界ではなく・・・。

それぞれが持つ世界を共有し合えたら、それはまた素晴らしいことだと思います。

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