RYO SASAKI

大人の学問を考える~解放学のおすすめ~

タナカ シンゴ

今回のタイトルは「大人の学問を考える」。

そのキッカケになったのは、意外にもカラオケスナックだった。

一人の男性が我々の後から入店して、隣のテーブルに座った。

しばらく経過するも、その男性はずーっと歌わずに呑むだけで、こちらのテーブルばかりが歌っていたので、気になって「歌ってください」と声をかけてみたところ・・・

「いや、私は(人の歌を)聞くのが好きなんでお気遣いなく・・・。」

と返ってきた。

昔の私だったら、礼儀を示したということにして、これで終わっていたのだと思う。

ところが・・・。

私はいつからお節介オジサンになってしまったのだろうか?

私の中には、

(いや、そんなはずはあるまい、一人でカラオケスナックにやって来る人が歌を歌いたくないわけがない。)

そんな興味が湧いてしまったようで、

「なんでですか?歌ってくださいよ~。」

ともう一歩踏み込んでしまった。

「私は下手なんで・・・」

からの軽い押し問答の後、その男性が歌わない理由を話してくれた。

その男性が昔同じようなスナックで歌っていた時のこと、同じ店にいたかなり酔ったお客さんから、「この、下手くそーっ!」と野次を浴びせられたらしい。

それで、

(自分は下手なんだ。それならば周りに迷惑はかけまい・・・。)

そんな気持ちになったのだろうか?それ以来、歌わなくなってしまったというのだ。

私は、何だかとてもやるせない気持ちになってしまった。

大人のトラウマ

カラオケスナックで歌を歌わないと決めている人に私が出会ったのは、この男性で2人目のこと。

以前会った男性から、そのキッカケになったカラオケ付の呑み屋さんの話を聞いたことがある。

男性が仲間と談笑していると別のテーブルのお客さんがカラオケで歌い始めた。

そのカラオケが非常にうるさくて、仲間との話がかなりしづらかったらしい。

場所が、カラオケ付の呑み屋さんというのが何とも珍しいのだが、そこでそんな周りに迷惑な歌なんてものを金輪際歌うまい、と決めたんだそうだ。

私はならばと、「今日は、カラオケ専門の店だし、他のお客さんもいないんだから、歌っても大丈夫ですよね!?」

と問いかけてみたのだが、彼の「歌わない」は頑として揺るがなかった。

もちろん大人が自身で決めたことなのだから、周りがとやかく言うのは野暮というものだ。

しかし、この2人は歌自体が嫌いじゃないと思われる。

現に私が歌っているのを時々横で口ずさんだりもして、そこから漏れ聞く限り音痴でも何でもない。

そんな人が、自分で歌うのを抑えている、これをほっといていいものなのだろうか?そんな疑問がまた強くなっていくのだった。

さて・・・このカラオケの件はたまたまの例なのだが、こんなように周りからのちょっとした一言によって人の信念が変わってしまったり、人が萎縮してしまったり、といったようなことは他にもあるんではないだろうか?

私のケースを思い起こしてみたい。

私には、周りの迷惑になっていようが平気で歌える図々しさがあるから、カラオケとは別のケースを探ってみる。

私が会社で中堅になったずいぶん昔のこと、自分のメンバーを含む周りの何人かが、「あの人(←私のこと)はリーダーとして弱いなあ」という私に対する陰口を聞いてしまったことがある。

私の営業成績は全くフルっていなかったから当然と言えば当然だったのだが、その後はこれまでにも増してメンバーにアドバイスできなくなり、言われた言葉通りに「弱い」リーダーで終わる、ということがあった。

こんなことは序の口でまだまだ、記憶にある痛い言葉がドンドン思い浮かぶ。

それがその後夢に出てくることさえあった。

自分はそんな外圧に屈してはいけない、と思っていたし、屈していないと思いたかったのだろうが、よーく内面を探ってみるとしっかり刻まれているようで、自分というものをその言葉の通りの者である、と多かれ少なかれ思い込んで生きてきたところがあるのだと思う。

そう言えば、社会人1年目の時には、私を含む同期3名のあだ名は「トンチンカン」であって、当時はトンチンカンとして生きた。

人は幼少期にトラウマを抱える、とよく聞くが、大人だってトラウマを抱えるものだということをあらためて認識するのだった。

その多くのものは忘れてしまっていくようだが、潜在的に残っていて大人になってもトラウマによる萎縮が残っている可能性は大いにある。

なので、大人にとってもトラウマから解放される必要があるように思えてくる。

大人の学問を考える

このことからまた浮かんだのは、「大人の学問」という言葉だった。

「生涯学習」という言葉が言われて久しい。

子供の頃のような大人の必須科目があるわけでもなく(子供の必須科目ー国語算数理科社会・・・ーにも疑問はあるが)、大人が何を学習するかは自由で幅が広い。

子供の頃、羨ましたかった大人の自由はそれはそれで素晴らしいが、大人にも人生において優先順位の高い科目、さらに言えば必須の科目があってもいいのではないだろうか?

先の大人のトラウマに関する科目だってあってしかるべきではないのだろうか?

そんなことをツラツラ思っていた時に、結びついた本があった。

タイトルがしっくりきた。

大人には「人生の処方」なるものが必要であって、そのようなものが大人の学問と言えるのではないだろうか?

この本で著者は、森鴎外の金言、

「常識なきを恐れず、学識なきを憂える」

を引き合いに出して、

「ものを知らなくて一番困るのは、人に迷惑がかかることだ。

しかしそのためにもう少しものを知らなくてはならない、と思うことは当たっていない。

~(中略)~常識ほど役に立たないだけでなく、あるだけ邪魔になるものはない。」

と続けている。

この常識に対する感覚は、アルベルト・アインシュタインの言葉、

「常識とは 18 歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない。」

にもつながった。

この裏返せば、人に迷惑をかけないことを人生の最大の目的にするならば常識をどんどん高めていった方がいい、ということになる。

そんなナンセンスなことはないはずなのだが・・・(もちろん迷惑をかけないことは大切なことではあるのだが、それを突き詰めることに無理がある)

そして、常識と言う言葉と学識と言う言葉をしっかり分けて並べていることから閃いた!

人生を幸福にするための大人の学問体系があってもいいのではないかと・・・。

大人の学問体系を策定する

改めて人生に必要なものは何か?これを考えた時に、今私に思い浮かぶのは以下の3点である。

・収入を得ること(これがないと食っていけない)

・社会と調和すること(これがないと誰からの援助も得られず、時には犯罪者になったりする)

・自分らしくあること(これがないと窮屈で苦しい)

このうち、どれかが欠けても人生は幸福に生きられないし、どれかに偏り過ぎても幸福に生きられないだろう。

この必要な要素に対応する学問の体系があっていいんではないだろうか?

そんなことで策定した学問体系は以下のものである。

〇収入学→収入を得るための技術を修得する学問

〇専門学→好きなことを突き詰める学問

〇常識学→常識を修得する学問

〇解放学→様々な制約から自分を解放する技術を修得のする学問

初めに断っておくが、これらの言葉はどれも私の造語である。

収入学は文字通り稼ぐための技術を学ぶものである。

それは仕事の種類だけ枝分かれしていることは言うまでもない。

専門学の専門も仕事の種類だけあるし、仕事と認定されていないもの、趣味などを含めて無限にある。

鉄ヲタの例:撮り鉄、録り鉄、乗り鉄、模型鉄、時刻表鉄、廃線鉄・・・・

専門学と収入学が一致している人はこれらを分ける必要はないが、稼ぐこととやりたいことの分離というのは結構難しくて、稼げていればそれをやりたいことだと思い込ませている大人が結構多い。

私もそうだった。

それで、敢えて収入学と専門学を分けている。

収入学はほどほどにして、自分らしくある、ホントにやりたいことをやって(専門学)生きることが自然なのだ。

常識学とは、周りに迷惑をかけないように、社会と調和するために身に付けるものである。

最後に、解放学とはある意味ワガママに様々な抑制を外して行く学問である。

外すべき抑制とは、常識、思い込み、先入観、観念、トラウマなどによるものである。

常識というものは「こうあらねばならない」と人を抑制するものでもある。

人が社会で生きるために常識は必要ではあるが、抑制が行き過ぎると自分らしく生きられないし、それは苦しいものだ。

だから、この抑制から解放されないと幸福だとは言えない。

解放することによって、本来の五感が表出し、結果、五感が研ぎ澄まされる、という表現になる。

解放学とは常識学の対極に位置して、常識学のカウンターとして必要なのだと感じる。

ひとつTVのクイズ番組を例に出してみる。

常識(教養)クイズというものは、18歳で終わっておけばまだましだったものを、更に延長してしまっては、常識の刷り込みを続けているようで観ていて気持ちが萎えてしまう。

クイズ(特定の分野のクイズ)が常識としてではなくて、自分の知りたいことであって、自分の専門学として捉えられているならばいいが、そうでない限りクイズによって自分の抑制を強めているだけのように感じられるのだ。

今の世の中は、収入学と常識学がトップに君臨しているように見える。

まだまだ収入が多い者が上に立ち、非常識をバカだと下に見てヒエラルヒーが作られる世の中、人は収入学と常識学だけで手一杯になってしまっているようなのだ。

だから、専門学と解放学へのシフトが必要だ!そんな風に感じられる。

世間には解放が進んでいて収入学と専門学とが交わっている人がわずかだがいて、その人は最高に幸せなのだろうと思う。

こんなような意味合いから、「大人四学」を体系立てることで、君臨している学問とのバランスを取る必要があると感じるのだ。

ちなみにここから先、収入学、常識学、専門学、解放学、その詳細については、それこそそれぞれの専門にお任せしたい、何とも無責任だが・・・。

解放学とは?

詳細は専門家に・・・と言ったものの、解放学については一部詳細を掘っておきたい。

解放すべき抑制のうち、トラウマの解放について。

私が過去に「弱い」と言われたことによるトラウマの解放とはどんなことになるのだろうか?

前提として、解放によって五感を鋭くするのだから、この痛みあるいは悔しさを感じないとならない。

まずは痛みや悔しさを抑制せずに解放するのだ。

(まずは認めること、これは一般的なトラウマ解消のプロセスにある)

次に、どうしてそれが起こったのか?当時のことを今の目線で俯瞰してみる。

そうすると、当時の自分は無能であって何かのスキルが足りないからだと自分にフィードバックしていただけだったものに対して、別の視点が現れる。

ひとつに、やっている仕事がそもそも私にとって不得手だった。

だから、鍛錬してもスキルアップには限界があった。

更に掘ってみると・・・

その仕事を自分のどこかがやりたくなかった(意義を感じなかった)。

当時はやりたくないとは思わなかった。

いや、今思うと責任があったので、やりたくない気持ちを圧し殺していたのだ。

他の上手くいかなかったことを思い返しても、やはり同様に自分の根底に「やりたくない」が隠れていたようだ。

そして、私のような凡人はやりたくないことに我慢ができない。(我慢できて器用にこなせる優秀な人もたくさんいるだろうけど。)

凡人は自分のやりたくないに向き合わず、自分に嘘も付けるし、かと言ってやりたくないことをやっている時に「無能」にもなり「弱く」もなる。

こんなように今ならばいろいろな見方ができるようになっている。

過去のトラウマは未来の年をとった自分から、自分のホントの個性(好き嫌い、得て不得手など)を真正面から観ることによって意味づけが変わる。

その一連のことによって昇華されるのだと思う。

このことを「人は過去を塗り替えることができる(過去の意味づけを)」と表現する人もいる。

あくまでも自分の苦痛や無能さに真摯に向き合わないとできないのだが・・・。

その後ホントに好きなことがわかってそれをやっていると、当時のやっている事と比較において昇華度合が高くなる。

あとはその経験を、必要に応じて周りへのアドバイスなどの糧に、そして笑いのネタにすればいい。

一例ではあるが、こんなようなところが私のいう解放学のトラウマの解放である。

・・・・・

ここでやっと我に返る。

カラオケを歌わない人に会っただけで、大人の学問の体系まで立ててしまう。

私という者は、何とも大げさで理屈っぽい奴だ。

しかもその詳細は他人まかせとはスカスカで、身勝手極まりない!

そんなご批判が上がっているのではないか?

それは困ったものだ・・・

だがちょっと待て。

このような批判はこれまでしっかりと常識学を学んできた人の常識から発せられるものだ。

ならば、周りの常識から批判されればされるほど、私は解放学が修得できている(解放が進んでいる)と言えるのではないか!

そしてまた、カラオケを歌わない人に会っただけでこれだけ楽しく書きたいことを書けてるんだから、これは私の専門学(これは一体何ヲタなんだ?)と言えるのだ。

そう!これがまさに私が学びたい解放学と専門学!

それは批判されてナンボ。

今回は、強がって我田引水したまま終わることにしよう。

最後に、冒頭のカラオケスナックで歌わない男性だが、その後私の粘り勝ちで一曲歌ってくれることになった。

お上手だった。

学問体系はともかく、やりたいことを抑制してしまうのは、何とももったいないことだ。

UnsplashKenny Kennethhが撮影した写真

【著者プロフィールと一言】

著者:RYO SASAKI

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

こうしてみると、人は常に常識と解放の葛藤を抱えている存在なのだ、とあらためて感じます。

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