RYO SASAKI

目標設定は慎重に。「目標」と上手く付き合う方法。

タナカ シンゴ

今年もあと数日になった。

年始に立てた目標は何だった?と思い返してみるが、全く思い出せない。

そんな思い出せないような目標ならば、達成できるはずもなく、苦笑いするしかない。

思えば若い頃は、いろいろな目標を立ててはそれを達成する、これを繰り返してきた。

もちろんすべて達成できたわけではないが、目標を達成しては次の目標を立てる。

目標を立ててそれを追いかけることこそが、生きる意味であり自分の価値なのだ、と鼻息が荒かったものだ。

KPI(キー・パフォーマンス・インジケーター、あるいはKGIなどというが、ここではザックリとKPIで括る)によるマネジメントが流行り始めた頃だったから、目標達成のために必要になるステップ(クリアしなければならない通過点)を細かく設定し、たくさんの細かい目標を敢えて作って管理をしながらビジネスを進めたものだ。

サラリーマンとして。

マネジメントを業務としている時期も長かった私が、今は立てた目標すら忘れてしまう、というこの体たらく、何たることだろうか?

私はキャベツが大好きで、それが昂じてキャベツを食べ過ぎてしまって、逆にキャベツ嫌いになってしまった時期がある。

目標についてもこれと同様のことが起きているんではないか?

目標の立て過ぎ?で、アレルギー反応が起きてしまった!?

そんなことはないだろうけど気になってきて、自分の様変わりの原因を少々考えてみたくなった。

新しい年の目標を立てるにあたって、このタイミングで一度向き合っておきたいものだ。

目標を立てて管理するということ

目標を立ててその進捗を管理するという業務。

私はこれで評価されてきたのだが、その一方で当時感じていたことを思い出す。

目標というものはそもそも、管理するのも、管理されるのも、大変面倒くさいものであった、ということだ。

あらためて、かなりイヤなことを目標達成のために長いことやってきたんだ、と振り返る。

そんなのは当たり前のことだ!何を言っているんだ?と誰しもが言うだろう。

イヤなこと、苦しいことがあるから仕事なのであって、それらを克服していくから、目標達成がある・・・。

ここではこの常識を一旦無視して、確かにある感情=「苦痛」に注目したい。

この苦痛をもっと減らすことはできなかったのだろうか?

思い出したのは、場面場面で自分の「苦痛」の度合いが違ったということだ。

この苦痛度合いの違いは、その時々の「目標」の違いによるもの、その「目標」を自分がどこまでやりたいか?という思いの違いによるものだった。

このビジネスのこの目標は社会的に意義があるし、収益につながりそうで筋がいいから納得してやりたい。

そういう目標もあれば、そうでもない目標もあった。

会社の判断と自分の好き嫌いが一致しないことはまああるもので、共感して心酔した目標ならば、目標の進捗管理の苦痛は感じられず、そうでない場合は苦痛を強く感じるのだ。

サラリーマンという組織人ならば、このような会社の方針と自分の好き嫌いのアンマッチを我慢するのは当たり前のことだろう。

「目標を嫌うのは、おまえに甘えがあるからだ!」

そんな言葉を私の頭の中に鳴り響かせて納得させようとしていたが、苦痛は消えることはなかった。

特に責任者として自分が気乗りしない目標を自分が掲げなければならない時の、その苦痛と言ったらなかった。

事業撤退という結果になるとか、私が嫌ったその目標がその後その感覚通り、やはり目指すべき目標ではなかった、なんてこともある。

このような組織の目標については、サラリーマンである以上どうしようもないところもあるのだが、目標を間違うとこんな風に強烈な苦痛を受けるものだ、ということをまずは抑えておきたい。

目標達成への集中

目標達成のために必要なことは何か?

必要なことのひとつに「目標達成に集中する」ということがあげられる。

マルチタスクなどと言われるが、人は基本的に同時に複数のことを処理することはできない。

だから、自分の時間を目標達成に集中させることを選ぶのだ。

特に私のように不器用な者は、集中するために他の無駄をなくすことが必要になる。

四六時中目標達成のことに充てるのだ。

ザッカーバーグが毎日服を選ぶ時間がもったいないので、同じTシャツを何枚も持っていてそればかり着ていた、という話は有名だ。

とんでもない人を引き合いに出してしまったようだ。汗。

ともかく、私は目標達成以外のことを考える自分を「散漫である」と叱咤して集中させようとして日々を過ごしていた。

そうすることで、目標達成以外のことへの感覚をシャットダウンして、何も感じなくする、というスキルが高まった。

おかげで、世の中で起きている事件、世の中に流行っているモノ、大人として常識、喜怒哀楽などからドンドン疎遠になれたのだ。

目標に関すること以外のすべてに対して興味がなくなる。(なくさせる。)

おかげで、キャッシュカードを止められたこともあった。(再三の警告を無視して、自動引き落としの銀行口座にお金を入金する、たったこれだけのことを怠ったため)

そのカードの再発行が許可されるまで十数年かかった

会社のレイアウト変更のために17時に会社を放り出された時、何もすることもなく、何も感じず、街中をただ彷徨っていたこともあった。

目標達成に集中することで、鳥の名鳴き声も聞こえず、道端の草花にも気づかず、あるいは、鳥の鳴き声が聞こえたとしても何も感じず、道端の草花を見たとしても何も感じず、という状態を作り上げることまでできてしまった。汗。

目標を目指すーそのネガティブなところ

ここまで書いたように、私というものは自分が好きでない目標を達成するために、苦痛を感じながら、その他のモノに何も感じなくなり、更には無知のまま生きてきた、と切り取ることができる。

一般的に、何も目標を持っていない、などと言うと人間として失格のように思われる。

みんながそういう感覚だからこそ、そのことを疑って敢えて目標を持っていることのネガティブな面を総ざらいすると、こんな感じになる。

同時に、今という瞬間を目標達成のためのことを考えるか、あるいは、目標達成以外のことを効率化することを考えるか、どちらかに覆われてしまう。

日々効率化に追われる生活を続けることになるのだ。

こんな風にまとめると人生それでいいのか?と思えてくる。

「これはかなり極端。気分転換の時間をチャンととって上手くやってるよ。」

これが一般的な反応だろう。

しかし、本当に目標を追いかけることから全く切り離された時間をどれだけ過ごせてこれたと言えるんだろうか?

自分に当てはめると結構怪しいものだと思う。

曖昧な目標、見えない目標

年始に立てた目標も思い出せない自分ではあるが、目標が全くないわけではない。

考えていくといくつかの目標の中で、ややこしそうなものがひとつあることに気づいた。

その目標を頑張って表現してみると、「自分が日々変化すること、そしてその変化を感じること」こんなものになる。

その変化とは新たな気づきであったり、何らかの見方、考え方の変化である。

このブログに書いているようなことでもある。

その変化とはどんなカテゴリーのものなのか?それをこれ以上詳細にすることができない広くて曖昧なものだ。

そして、その変化はいつどのようにして起こるのか?どこで起こるか全く読めないものでもある。

ある時、突然わかったぁ!ってなることになる。

突然見えなかったものが目の前に現れる。

わかってしまえば何てこともないものなのだが・・・。

その連続だから、納期もゴールもあるわけでもない。

当然、一年単位で何か、というものでもない。

そんなだから、その変化のための必要なステップーKPIを事前に設定することができない。

強いてKPIを設定するならば、目の前に現れるすべてのことを何かの目標への集中で無視することなく、しっかり感じるということになるから、それは特定の目標を追いかけない時間を過ごす、ということとイコールになる。

人は、ボーっとしている時に実は頭が良く働いていて発想が豊かになる(この状態をデフォルト・モード・ネットワークなどという)というが、これに似ている。

私の目標の中には、こんななんとも曖昧で、見えないものもある。

そして、この曖昧で見えない目標のKPIは、奇しくも目標を追いかけない、という正反対(パラドックスのような)のものになるのだった。

目標との付き合い方。

これらのことから「目標」との付き合い方を一旦まとめてみたい。

まずは、「目標」設定には、慎重になるべき、ということだ。

目標というものは、社会の役割で、あるいは周りの期待によって簡単に背負わされてしまったりする。

自分がホントはやりたくないものにもかかわらず、それとはわからず体裁のために立ててしまったりすることもある。

更には、すぐに目標に飛びついて自分の価値を感じたい、などとその前向きさに急き立てられたりもする。

情報社会が、もっといいモノ(状態)があるよ、と新たな目標を立てることを急き立てたりもする。

こうして目標はドンドン増える。

目標を立てないと、それはそれで自分は何もできていないんだ、と苛まれたりする。

こんな風にして目標に追われては、人生もったいないと言えるだろう。

目標にも断捨離が必要なのだ、とでも言おうか・・・。

目標に追われないという余裕によって、気づきと発見が生まれるのだから、目標を追いかけない、目標に追われない時間を持つことが必要だ。

生活を目標で一杯に埋めないでせめて7割くらいにしたい。

何事もこの7割程度の塩梅が、非常に難しいと言わざるをえないのではあるが。

結論は、目標は慎重に選び、限定する、目標についてあまり欲をかかないということだ。

そして、周りにわかるような目標でなくても、また、明確なゴールと納期を持っていない目標であっても自分だけは尊重するべきだ、と言える。

見えない曖昧な目標なんてものは、ビジネスマンとしては失格なんだろうが、ビジネスと人生は別物なのだ。

もちろん人生において、周りにもわかる目標の達成というものは素晴らしいことである。

しかし一方では、流れに身を任せて目標に追われない時間もまた素晴らしいものである。

この両方のことを心にとめてこれから目標と付き合っていきたいものだ。

先日、この私の見えなくて曖昧な目標のことを後輩にして話してみたのだが、全く伝わらなかった。

「言ってる意味が・・・、めんどくさい人ですねえ。うやむやにして目標から逃げてるだけですヤン。」

と言われてしまった。

めんどくさい人、とは何たる言いぐさ!

めんどくさいのは言われなくてもわかってるわい。

おい後輩よ!あんたは、ホントに草花をチャンと感じられているのか?

目標達成なんてのは、人生の一面に過ぎないんだよ。

目標達成のないところに、豊かな世界が広がっているんだよ!

・・・

とてもこれを幼い子供がいる後輩に伝える自信がない・・・それから自分が逃げてないと言いきれない気もする・・・結局、私は心の中で叫んで終わった。

私という者は、自分がめんどくさいという自覚は芽生え始めてはきたが、先輩としての自覚がまだまだ足りないようだ。

UnsplashImmo Wegmannが撮影した写真

【著者プロフィールと一言】

著者:RYO SASAKI

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

2024年はどんな目標を立てることになるでしょうか?

あとわずかですが、もう少しだけ思いを巡らせてみたいと思います。

会員登録していただいた方に、毎週金曜日にメールマガジン(無料)をお届けしております。

「今週のコラム」など「メールマガジン限定のコンテンツ」もありますのでぜひご登録ください。

▶︎過去のコラム例

・週に1回の長距離走ではなく、毎日短い距離を走ることにある利点

・昔の時間の使い方を再利用できる場合、時間の質を大きく変えることができる

・医師・中村哲先生の命日に思い返した「座右の銘」について

メールマガジンの登録はコチラから。

最後まで読んでくださりありがとうございます。

これからもRANGERをどうぞご贔屓に。

記事URLをコピーしました