最高の季節によって気づかされた。私はその時独立していたのだ!Maybe Became Independent.
日本には四季があり、どの季節もそれぞれ素晴らしいのだが、その中でも大好きな季節、そして大好きな時間がある。
それは丁度今頃、梅雨前の初夏の好天の日の夕暮れ時だ。
日が長くなって、18時過ぎでもまだ明るいままのひとときがなぜだか私を高揚させるのだ。
今日は、週末の金曜日。
まさにそのまだ明るい時間にワインバーにたどりつくことができた。
今回は、その場で私が「独立」していたことに気づいた話をしてみたい。
最初に言っておくと、この「独立」という言葉は一般的に言われるものとは異なる意味で使っているということ。
それは物理的なものではなくて、心理的な意味合いにおいて、ということになる。
この「独立」という言葉を持ち出したのは、何とも大げさだと私自身も思うのだが、私にとって非常に重要な捉え方になった。
川沿いのワインバー
このお店には、これまで何回か訪れたことがある。
カウンター5席とテーブル3席をご夫婦が切り盛りしている。
カウンターに座ると目の前に窓が広がっていて、すぐ横を川が流れている。
カッコつけて?言うとリバーサイドのワインバー。
川岸にたくさんの木々が生い茂っていて、3月上旬の河津桜が素晴らしくて、また今の時期は新緑がまぶしい。
来店すると、カウンターの5席は既に常連さんで埋まっていたので、私は空いているテーブル席にひとり通された。
これまではカウンターで店主と話をしながらワインをいただくばっかりで、テーブル席は初めてだった。
オーダーを終えてひとりになった私は、すぐにカウンターの常連さん越しの窓の外の光景に引き込まれた。
そこに私が最も好きな季節のもっとも好きな時間の光景が広がっていた。
川岸の新緑の先にはマンションやらビルが見えるのだが、それらすべてを西日がかすかに山吹色に染めて、どこか街全体が霞んでいるような光景。
暑くも寒くもないが、動くと少しだけ汗ばみ、喉がいい具合に乾いてくる。
いい季節なのは言うまでもないとして、私がこの時間を好きになったのはなぜなのだろうか?
特にマジックアワーが美しいから好きというわけでもない。
それは・・・
一日が終ろうとしている安堵感、アクティブな日中が終わってしまうというどことない寂しさ、同時にこれから楽しい夜が始まろうとしていることへの期待感、これらが共存している何とも贅沢な時間だから。
言葉にするとこんなところになるんだろうか・・・。
はて、こういった良いイメージはどこで生まれたんだろうか?
そうか、初めてハワイに行った時の夕方だ。
それは社会人になって間もない、右も左もわからない者の初めての海外旅行だった。
すべてが新鮮で、すべてが期待に溢れていて、同時にすべてが不安だったような感覚がそこにあった。
そんな感覚と共に光景が鮮明に刻まれている。
私は今その山吹色の光景を自分の身体に浸透させるようにして味わっている。
いつまでも没入していられる心地よさ。
今という永遠がそこにあるような・・・
しばらくして、料理が届いてふと我に帰る。
するとそこまで全く聴こえなかったジャズが聴こえてくる。
酒場で生演奏をするトリオが奏でるようなピアノがメインのおとなしめのものだ。
学生時代、こんな曲がこよなく好きだった。
当時、まだバイトくらいしかしていない苦労知らずの若者が、バーでタバコを咥えてさも人生に疲れたように、酒場で演奏されるジャズに浸る。
正確には浸る、を演じていた。
実際に社会人として働き始めた時には常に頭はフル回転で、それ以来ずっーと疲れをジャズに浸らせるなんていう余裕がなくなって、ジャズを味わえなくなったまま今に至る。
大人になってホントの疲れを知る者がジャズを味わえないとは、何とも皮肉なものだ。笑。
今なら少しは味わえるんだろうか?
苦笑いしながら、ひとりそんなことを思い巡らす。
どうやら、ひとり思いが尽きることはない。
そうしていると今度は、今まで聞こえなかった常連さんの話が聞こえてきた。
「今日この日、この時間を空けるために、休日出勤をしたんだよ!」
普通にありそうなことだと思ったが、ちょっと考えてみると引っ掛かる。
やっぱり日本人は働き過ぎでしょ!?
いや、そんなことを言うのは、大きなお世話というもんだ!
などとまたひとり自嘲した。
面の皮が厚くなった
金曜日の夜と言って思い出すことがある。
若い頃は、金曜日の夜にこんなワインバーにひとりで入店するなんてことを決して選ばなかったものだ。
昭和では金曜日のことを花金(ハナキン)とか呼んで、ずいぶん浮かれていた。
そんな花金のワインバーには、カップルでないととても入れやしない。
万が一ひとりで入ってしまったならば、
「あの人は、一緒に来るパートナーもいない可哀想な人なんだ」という周りの視線を私は勝手に想像して、その想像に耐えられなかったのだ。笑。
同時にひとりでは何をしたらいいのか、とにかく手持ちぶさたでどうしようもない。
人と話すにしても人の役に立つようなことを話せやしない。
早く飲んで食べて帰りたかったんではなかっただろうか?
それに比べると、今や花金もカップルもお構いなしになったようだ。汗。
店のBGMも他のお客さんの声も聞こえなくなるくらいにひとり没入できている自分に気づく。
仕事柄、人と人がいてそこに間があったなら、パブロフの犬のように自動反応を起こして間を会話で埋めようとしてきた自分だ。
だから、この体の反応には自分のことながらやや驚いた。
どうやら、話さないでいることも平気。
ほったらかされても平気。
そうなったのはいつくらいからだったんだろうか?
そんなに昔ではあるまい。
カウンターにいて話ばかりしていた時にはわからない意外な自分に気づくのだった。
ずいぶん面の皮が厚くなったものだ。笑。
私は独立していた
このような心理状態について、どんな風に捉えることができるだろうか?
そうだ、私はこの時、完全に独立していたのだ。
ひとりで没入できるということは、ひとつに周りの人に影響されない、周りの人に依存していないという状態である。
周りの人の話しも、周りの人の視線も気にならない。
人というものは周りに気を使ってチームワークと愛を育むことに奔走し過ぎてはいないだろうか?
それは時に自分への愛を犠牲にしているようにも見える。
そしてもうひとつに、例えば今回のような光景にひとり没入できるということは、時間にも影響されない、時間にも依存しない、ということでもあるだろう。
「そろそろ帰る時間だ。」
「そんなボーッと無駄なことをしていてはいけない。」
こんなような言葉が頭に浮かんできてすぐに没入を書き消してしまうことが多い。
しかし、今回は没入したまま、時間の感覚がなくなっていた。
さらにもうひとつ、ひとり没入できるということは、未来に影響されない、未来に依存しないということでもある。
「あすの予定は何だっけ?」
「これからもっとこうしないとならない。」
「来年に向けてどうしたらいいだろうか?」
とかく人の思考というものは、常に改善点を見つけようとするところがある。
改善のために未来の計画を立てること、そして、その計画の進捗に対する評価に専有されてしまうものだ。
何事かを成し遂げるために計画というものは有効であることに違いはないのだが、それでも計画を作ってしまうとその計画通りにいくかどうか常に監視されていてソワソワして生きることになる。
その監視が強く働いてしまうと没入が難しくなるのだろう。
このことが、ライター田中さんの直近のブログ
『もしかすると「あらゆる人種の中で現在を生きていない人の割合が多いのは日本人」と言えるのかもしれない。』
にあった。
今を生きられないのが日本人のひとつの特徴なのだ、と。
以前の私がその代表格であったように、今に没入することに常に罪悪感があるという日本人が多いのではないだろうか?
そして、また日本人は行き当たりばったりが苦手であり不安である。
あるいは、行き当たりばったりが気に食わない人が多いのではないだろうか?
正確なところはわからないが、そう感じるのだ。
ところで、独立というものは、煩わしい他人を避けるための手段にもなるわけなのだが、何も煩わしい他人を避けることが独立の目的というわけではない。
人と話すことに没入することもできるし、そしてまた、人と話さずひとり何かに没入することもできる。
このどちらでも行けるというのがここでいう独立の意味するところであり、どちらかだけに寄ることなく、自由自在こそが望むところなのだ。
周りの人から追われることも、周りの人を追うこともなく、時間に追われることも時間を追いかけることもなく、未来に追われることも、未来を追いかけることもない状態。
周りの人、時間、未来、これらすべてから独立を果たす。
こうなったら無双状態、目の前の様々なことに没入できて、今という永遠を存分に味わうことができるのだと思う。
ちなみに、こんなようなことを若い頃から当たり前にやっているセンスのある人もいるんだろうと思う。
残念ながら私の場合、これまでかなりの時間を割いて独立が何たるかを、やっとこさわかってきた、というところなのかもしれない。
Maybe Became Independent.
そして、逆に長らく独立というところから離れていたからこそ、今、独立 という言葉に妙に惹かれるのだろうと思う。
英語のIndependentという言葉にはなおさら惹かれるものがある。
それはこの言葉が依存を否定する意味でできているからなのだろう。
従属に帰る
よく見るとワインバーの窓の外の新緑に電球がくくってある。
その様を見るとまたどこか気分が上がって来る自分がいる。
そうだ!あれはどこかの祭りで見た光景だ!
林の木々にくくられて先まで続く電球、そしてその電球が途切れたところに夜店が並んでいる。
電球付近から屋台のソースの匂いがしてくるようにすら感じる。
今やそのたったひとつの電球すらも味わえているのだ。
ところが・・・
すっかり暮れてきてはっきりした。
緑にくくりつけられている電球は、店内の電球が窓に映りこんだものだったのだ。
騙された!
いやー、気持ちがよいとどこまでもいいように勘違いするものなんだな。
まあ、勘違いもまたよかろう。
こんな風に他愛もないことにも、まだまだひとり没入し続けることができている自分なのだ。
・・・
おっといけない!
いい時間になった。
明日は何時起きだったっけ?
二日酔いは大丈夫だろうか?
いきなり独立から従属に戻り、そそくさと店を後にするのだった。
まあ人生なんてものはどう転んでも従属と依存でできているものなんだ。
それでも、いつでも独立できるようスタンバイ完了して、方時でも独立にシフトしていられるならば、それで十分幸せだと言えるんだろう。
UnsplashのAnkush Mindaが撮影した写真
【著者プロフィールと一言】
RYO SASAKI
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
毎日人は、人に、時間に、未来に影響を受けて、ものすごいたくさんの言葉を頭の中で発信し続けているのだと思います。
その言葉がひとつでも減ればもっと健康でいられるように感じるのです。
会員登録していただいた方に、毎週金曜日にメールマガジン(無料)をお届けしております。
「今週のコラム」など「メールマガジン限定のコンテンツ」もありますのでぜひご登録ください。
▶︎過去のコラム例
・週に1回の長距離走ではなく、毎日短い距離を走ることにある利点
・昔の時間の使い方を再利用できる場合、時間の質を大きく変えることができる
・医師・中村哲先生の命日に思い返した「座右の銘」について
メールマガジンの登録はコチラから。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
これからもRANGERをどうぞご贔屓に。
コメントを残す