自分は幸福になりたいのだろうか?幸福になりたいならば幸福とは何かを学んで自分の幸福を決めないとならないのだ。(前編)
今でも毎回湧き上がる感覚がある。
仕事がない休みの日だったとしてもそれが平日であったならば、心がどこか落ち着かなくなる。
長かったサラリーマン時代が週休2日だったから、その名残があっても不思議ではないのだが、ここまで根強いものなのだろうか?
昔は有給をとった平日は1日中わずかではあるが罪悪感を抱えていたようにも思う。
その頃から私は周りの人と一緒でなければ安心できない人間になってしまったままなのだろうか?
そうならば、周りに依存する自分に何ともガッカリするのだが・・・。
以前にも、よりよい人生を生きるには日々の習慣が大切であって、その中でも瞬間瞬間何を考えるか?ということが特に大切にするべきではないか?と書いたことがある。
もたげてくるこの不安はその思考の一つであるから、余計な不安は払拭しないとならないわけだ。
ということで払拭すべき候補として気になるものになった。
よりよく生きるために不安の払拭が必要だと言っているのだが、よりよく生きるとは何のことを言っているのだろうか?
これがよく言う幸福になりたいということなのか?
どうもしっくり来ない。
それは苦痛を避けたいだけのことなのかもしれない。
苦痛を避けることを目標として生きているのだろうか?
これもしっくり来ない。
今回は、人生の目標、そして、幸福について考えてみた。
幸福度ランキング 日本は第54位
幸福度ランキングの最新版が2022年3月に発表された。
今年で10回目の発表になるらしい。
まだ、ウクライナ・ロシアの紛争は加味されていないのだが、来年にどんな風に反映されるのか非常に気になるところである。
幸福度ランキングは以下の6つのポイントでランク付けを行っている。
1.一人当たり国内総生産(GDP)
2.社会保障制度などの社会的支援
3.健康寿命
4.人生の自由度
5.他者への寛容さ
6.国への信頼度
4.人生の自由度 5.他者への寛容さ の低さが日本が下位にいる原因とのことだ。
4.人生の自由度 は日本人には多くのこうあるべきが決まっていて、一様であることを求められているように思う。
例えば、就職というものが、有名大学→公務員・大手企業が良いと決められていたようなことだ。
5.他者への寛容さ は寄付金などで測定しているようで、それはどうかと思うものの、確かに日本が他者に寛容であるとは思えない。
正確・清潔・迅速・安全・安心に高いレベルのルールがあり、それを厳格に求めるというのが常識になっているからなのかもしれない。
また、お金があるだけでは幸せにならないと言われて久しいのだが、生きるためにある程度のお金は必要だと思う。
この感覚を1.一人当たり国内総生産(GDP)のポイント化だけで見るのはどうなのか?と疑問が湧いたりもする。
幸福度のランキングは各国がよりよく変化していくための指標としてもちろん意味あるものだとは思うのだが、一方では「幸福」の測定は非常に難しいのでは、という思いもある。
幸福度は環境によって影響を受けることは間違いないが、どんな環境においても幸福な人と幸福ではない人がいる、という主観的なものである。
周りと比較して評価する人と、周りを知らないで自己評価している人もいる。
そんな幸福度の難しさを認識しながらも、幸福度ランキングの高い国の特徴を探ってみることにしたい。
「おバカ大国」オーストラリア
オーストラリアの最新ランキングは12位だが、2013年頃にはランキング1位だった国だ。
「おバカ大国」オーストラリア – だけど幸福度世界1位! 日本20位!
こちらの本では、日本人から見た時に特に「おバカ」と言いたくなるようなオージー(オーストラリアの人)の特徴を紹介している。
その特徴をいくつかピックアップしてみると、
・何よりも強さを求める。
・物事の原因と結果を繋げて考えない。
・遅刻は当たり前。
・真面目に働かない。
・人の話を聞かない。
・学力に価値を置かずに何の専門なのかが大切。
・流行を気にしない。
・酒好きで泥酔するまで飲む。
・ギャンブル好き。
※以前先進国の中で、日本人が飛び抜けてギャンブル好きという情報を見たことがあるが、対象とするギャンブルの種類の違いによるものらしく、ギャンブルに使う平均金額を比較すると、
日本 約1万円/月 オーストラリア 約10万円/月 とオーストラリアが圧倒的に高い。
・多少のルール違反はルール違反ではない。
・所詮、他人とは分かりあえない、という諦観が前提。
・努力を認めずラッキーであると信じている。
日本がこんな状況ならば、日本人はとても幸せだと思えないだろうが、オージーはこのような状況であっても幸せなのだ。
いや、こんな状況だから幸せなのかもしれない。
更に詳細を加える。
トータルするとオージーのことを身体の大きな子供だと思えば間違いない、ということらしい。
ずいぶん前のサッカーワールドカップで日本がオーストラリアに勝てなかった試合があった。
その時のオーストラリアの印象は、首も太いし身体が頑丈で強い、こんな人たちと戦わなければならないんだから大変だなあ、というものだった。
やはりオージーは強くなるために鍛えるのが当たり前の国だったのだ。
オーストラリアでは、学力なんかよりも強さがすべてで高給取りの公務員などはかえってもやしっ子のようにひ弱に見られて評価が低いらしい。
ここだけ見ると小柄な日本人は生きづらい国なのかもしれない。
そして、強さが軸だから、老人に対する扱いは冷たい。
オーストラリアには、イギリスの植民地管理者と犯罪人が流入してきて人口を構成して始まるのだが、その中で犯罪人の方が圧倒的に多かったようだ。
とするとルール違反が当たり前なことなども流刑者のメンタルを継ぐと言われれば納得がいくものだ。
オージー自身もこのことを知っていて、むしろ罪人をヒーロー扱いしていたりするらしい。
また、その後の移民も非常に多い。
このように、外から移民、多様な人々によって急造された国であるから、長い間の文化、智恵、伝統が備わっていない。
このことによって、始めから分かり合えていないとして接する姿勢が構築される。
より慎重に一定の距離をとって接することがうまくいく結果になっている。
幸福とは何か?活かせることはあるのか?
さて、日本人が今からオーストラリアに移住した時に、このような人々と共に幸福に生きられるものだろうか?
また、オージーのメンタルをコピペしてすぐに日本人の幸福のために取り入れられるのだろうか?
オージーのメンタルは、流刑者がルーツにあることに加えて資源・土地が豊富にあること、1大陸に1国があり周りに脅威の国がないこと、そして、戦争で負けたことがないことなどの環境によって、構築されているものなのだと思う。
日本も島国で1国であることは似ているのだが、他の面がまるっきり異なるような環境であると言える。
だからメンタルがビックリ過ぎるくらい異なっていて当然で、そのまま日本人に取り入れられるものではないかもしれないが、それでもここからいろいろなものが見えてくる。
何を大切にするのが幸福か?については、環境に大いに影響を受けるものである。
これは、どんな家庭環境に育ったかで違うメンタルが育つことと同様であると思う。
日本であれば幸福の有り様にも協調性が求められてきたのだろうから、そんな環境の中でオージーのような、人の話を聞かないという選択をすることは、不幸に傾いてしまうから選択できないわけだ。
環境によって変わるのだから、幸福にも絶対的にこちらが正しいなんてものが存在するわけではないということだ。
正しいものが存在しないということは逆に言えばどれを選んでもいいとも言える。
幸福というものは、自分がそうだと決めてしまえば簡単であり、一方で決められなければ難しい。
それから、幸福に感じることにもそれによって失われている幸福もある、いわゆるトレードオフがあるから、何かを得れば何かを諦めなければならない。
例えば、時間通りに動く日本の電車は快適ではありGDPを上げるものでもあるが、その仕事に携わる人のストレスと引き換えに成り立っていたりする。
GDPを上げることが幸福になるための一部でしかないから、そこの行き過ぎは幸福を減退させる面があるのかもしれない。
どこをどの程度享受できるのか?
その許容度に寄ってくる。
ここまでのことから幸福とは個人の選択であるので、しがらみを忘れて求めるままに、オージーを真似られることを一旦上げて見ることにしようと思う。
・人の言うことを聞かない
・どうにもならない未来を心配しない
・意見が合わないことが普通だと理解する
・知らないものは知らないままで知らなくてもいいことで思い煩わない
・自分はラッキーだと思い込む
オージーらしい言葉
「他の国は知らねえけど、俺はまあまあいい方だ。へっ、ビールでも飲むか?」
日本人のしていることの真逆っぽいものが多いから、現実には日本の環境に合わせながら、人の言うことを利き過ぎない、未来を心配し過ぎない程度が幸福としていいバランスなのかもしれない。
それでも偏ったものを少し戻すことで幸福に少し寄っていける発想になるのだろうと思う。
さて、ここまで幸福について見てきたところで、私の中の根っこにある感覚をいくつか発見してしまった。
私の人生の目標を「幸福」だと言えないのは、まずは幸福というものが自分の中で曖昧であり、そしてまた、なぜだか、幸福になるなんてこそばゆいと思っていたり、自分だけが幸福になってはならないと思っていたり、自分が幸福になる資格があるんだろうかと思っていたり・・・といろいろなブロックがあったからだったのだ。
これは全く意識していなかったことだ。
なぜこういうものが植えついてしまったのだろうか?
自分だけが幸福であることは、利己的であり、周りから批判を浴びるから、ということなのだろうか?
幸福とは苦痛を避けることに直結してしまって、苦労を知らない役立たずでひ弱な大人になってしまっては良くないと思ったからだろうか?
だから、幸福を避けて、人生の目標を正しさだったり、効率性であったり、賢さだったり、強さだったり、優しさだったり、お金であったりと別の物に設定してきたのかもしれない。
こんな目標だから、不安定で偏った人生になってきたのかもしれない。
私はこうして「幸福」というものをどうやら曖昧なままに遠ざけてきたようだ。
これは私だけなのだろうか?
明確に「幸福」を人生の目標である、と言える人はどのくらいいるものだろうか?
幸福とは、一言二言で言いきれるような、そんなにシンプルなものではないように思えてきた。
幸福に対して人それぞれが異なる表現をしているから、幸福と言ってもそれぞれの幸福を構築しないとならないのかもしれない。
もう少し幸福というものをハッキリさせたいものだ。
そしてまた、人生の目標が曖昧だと曖昧な生き方にしかならないから、できるものならば目標をハッキリした方がいいのだろうとも感じた。
というわけで次回はこの続きで、幸福度ランキング上位13国を旅して取材した本から見ていきたい。
世界幸福度ランキング上位13ヵ国を旅してわかったこと
上位13か国
アイスランド・ノルウェー・コスタリカ・デンマーク・スウェーデン・スイス・フィンランド・カナダ・オーストラリア・パナマ・ルクセンブルグ・メキシコ・コロンビア
こちらの本の著者は完璧主義で有名なドイツ人なので、戦争の傷なども含めて日本と似たようなメンタルがあるように感じられるから、非常に面白い。
ドイツは2021年度の幸福度ランキング13位と日本に比較してもかなり上位なのに、ドイツ人が幸福になるにはどうしたらいいのかを一生懸命考えているところがまたすごい。
最先端研究で導きだされた「考えすぎない」人の考え方
この本にある幸福度に関する実験結果も学びながら、私と幸福の関係について何とか決着をつけてみたい。
Photo by Cam Fattahi on Unsplash
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
幸福を考えることで、自分は雑に成り行きで生きているなあ、と認識したところです。
どんな人生にしたいのかについて、曲がりなりにも少し鮮明にしておきたいと思います。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
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