RYO SASAKI

お尻にできたエクボから学ぶ人生の教訓とは?

タナカ シンゴ

最近、整体の先生から私の体の変化を指摘してもらった。

「お尻にエクボができてますねえ。すごい。」

出典:お尻のエクボ

お尻は筋肉を使わないとだんだんとたれてくるものだが、お尻の筋肉が使えるとお尻を締めた時にエクボが出るようになるらしい。

確かに、私の中でのレベルの話ではあるが殿筋の厚みが生まれてから今が最大になっている。

私の股関節痛(約8か月前の記事に書いた)は骨格の歪みからきていて、それによってお尻に体重を乗せることができなかったので、これは私にとって画期的な変化である。

私は、久々にあがって少しだけ高価な牛肉を購入したのだった。

お尻のエクボであがっているこのタイミングで、今一度私のここまでを振り返ってみたいと思う。

そして苦しんでいるだけではもったいないのでそこから何かしら学ぶことができないか?などと都合のいいことを思っている。

股関節痛の原因となった私の勘違い

骨盤を立てることで、重心がかなり後ろにあることを感じて、その正しい位置に驚いたのがここまでだったのだが、今回更にその先にまた新しいものを発見して、自分の勘違いが明らかになってしまった。

出典:“背中で座る”新発想!特許S字カーブ椅子で驚異の腰ラク!

イラストのAFTERを見ると正常な背骨はS字に反っている。

このことは子供の頃からわかりきっていることなのだが、私の体では骨盤を立てるという意味を背骨が垂直になることまでにしか捉えていなかったのだ。

認識している正しい知識=S字の反りと自分の体感とが一致していなかった。

ここで思い出したのが、28歳の時のギックリ腰だった。

伊豆に遊びに行っていろいろなスポーツをしたのだが、その最後のバスケットボールの時に空中でエビぞりになってその場に倒れ込んだ。

うつ伏せから体を表に返すまで痛みで30分もかかった。

そこから10日間ほど入院することになった。

私の骨盤が寝ている歪んだ姿勢や背骨が垂直というイメージには、どうやらこれが影響している模様だ。

このエビぞりが強烈な印象となって、正常なS字に反った位置にすることが怖くてできなかった。

S字にならないように保護して生きてきてしまったのだ。

正常な背骨位置にせずに、股関節の正しくない位置で代償してきたわけだ。

おかげで?股関節痛が起きてから、腰の痛みは一切出ていない。

勘違いとその勘違いの起った原因が明らかになって、やっとS字のカーブを意識することができて、最近やっと腰に上半身が乗っかるという感覚が出てきた。

このカーブと垂直の感覚の違いは自分の中ではとてつもなく大きい。

見た目にはほとんどわからないレベルなのだが。

ラジオ体操で体をねじる運動があるが、初めて背骨を軸にしてひねっていることが感じられた。

骨盤が立っていて背骨のS字カーブが保たれていないと、上半身のひねりに下半身が引っ張られる、ということがわかった。

私はずーっと下半身が引っ張られたままひねりの運動をしていたのだった。

ここで、このような特殊な例ではなくて、一般的な例「老人の腰が曲がる」について見てみる。

ギックリ腰を経験しないにしても、仕事の姿勢やちょっとした癖で楽な方に身を任せることで一方の筋肉に頼って一方の筋肉を使わなくなるという代償が進み、歪みが始まる。

歪んでも痛みがないケースも多いから、楽な方の曲がったままが定着することになるというのが腰が曲がるカラクリのようだ。

生まれつきの何らかの問題も・・・

これは以前も書いたのだが、私の歪みの原因はこのギックリ腰だったのか?というと実はそうは言い切れない。

私は子供の頃から支障なくいろいろなスポーツをやってきたのだが、その頃からお尻やハムストリングスはテロッテロでうまく使えていなかった。

ケツプリの黒人を羨ましく思ったものだが、人種的な骨格の違いとして自分を納得させていたのだった。

数年前に小学生のある記憶が蘇った。

子供ながらお尻に体重を乗せようとしてみたのだが、お尻に体重が乗るとジリジリと暑く痛い感じがした。

それでその位置は違うんだと避けるようにしてずーっと生活してきた。

どうやら生まれつきお尻?股関節にある何らかの問題(骨のつき方等)が、骨格の歪み、股関節痛を引き起こしやすい状態にあったようだ。

このような微妙な歪みは生活に支障がなければ誰からも気がつかれることなく、個性として認められて時間が過ぎるものなのだと今振り返る。

骨格の歪みを改善することで痛みをとるという専門クリニックですら、私の骨格の歪みは正常の範囲内として捉えられてしまう始末。

歪んでいても正常(支障のない)の幅は結構広かったりもするからとにかく微妙なものなのだと思う。

微妙ゆえに勘違いというか落とし穴はいろいろなところにあるものなのだと感じた。

代償人生

私の股関節痛の原因は、生まれつきの何らかの不具合をベースにして、ギックリ腰や姿勢の悪さに経年劣化が加わって閾値を超えたことによることがやっとわかってきた。

人間の体というものは、何かの不具合があれば、別で代償できるようになっていて、これは素晴らしいことである。

私の場合は骨格が歪んだ形のままで、お尻を使わずに他(股関節の前側と前もも)で代償して普通に生きてこられたわけなのだから・・・。

しかし、この代償機能の代償が今股関節痛として現れていると言える。

私のこれからの股関節痛の治療は、本来のお尻に体重を乗せる姿勢をキープすることにある。

お尻に乗せる姿勢は、生まれてこの方使ってないところを使うからまだまだ違和感がある。

老化もあるだろうから、果たしてどこまで改善するのかはわからないのだが、代償ではない本道でいかないとならないことに結局は行きついた。

※整体の先生からは、先天的な不具合を持って生まれて来る人にも本来の形や動きに改善するケースがあると聞く。

人は、DNAに生きていく確率が高い本来のバランスが組み込まれていることがほとんどで、母胎内や産後の環境から後から不具合が発生するケースが多いから、私も本来に戻り得ると理解するに至る。

この代償のことで別のシーンを思い出した。

子供の頃、ヒョロヒョロだった私だが柔道では、その身のこなしなどで器用さを発揮した時期があった。

肩関節が異常なほど柔らかかったから抑え込みをすり抜けられる良さもあった。

成長とともに肩関節が正常に近づき、すり抜けられなくなって、それよりも重みとパワーが必要になって、それ以上は強くならなかった。

夢中になっていたゴルフはこちらも手が小器用だったので球に当てることが最初は上手だったが、その後ボディーを上手く使えずに頭打ちになった。

器用貧乏とも言える者においては代償が行われていて、最終的には本来的な体の使い方(私にとっては動かしづらい)をして良いバランスに行きつかないと頭打ちなどの不具合が起こるものなのだと感じた。

ビジネスでも家族生活でも、何につけ一見してよく見えているものに一部によって代償されている場合があって、本質的なものを欠いているから長く続かないのだろう。

そこで自分を修正をしていくわけなのだが、長い人生においては結局は本質を見つづけないとならないものだと感じざるを得ない。

局面局面でセンスのいい人に出会ってきて、そんな人は最初から無意識に本質的なバランスができているように思うのだが、私はどうもそうではない。

合理的で拙速な私はどうも目の前の成果を安易に求めてきた。

それゆえの勘違いと代償で人生を生きてきたんだと今感じている。

勘違いと代償について他のものにも照らし合わせてみる

この勘違いと代償は考え方にも当てはまるのではないか?

理想の考え方、正しい考え方とは何か?については難しくてひとつには決められないものの、思考の偏り=勘違いで問題が起こることは同様に避けた方が良さそうだ。

思考の偏りも、固定観念などから簡単に起ってしまうから要注意である。

思考をシンプルにすることも大切だと言われるが、シンプルにしよう=楽をしようとすることがある思想に依存するなどという思考の偏りをもたらすことにもなる。

これも姿勢のことと似ているように感じる。

社会の複雑さに参ってしまって、これでいいや、と諦めると腰が曲がってしまうようなことが起きる。

勘違いと代償を避けるためには、姿勢であっても考え方であっても安易に流れて諦めてしまうことが結果ダメージを深くしてしまうように感じる。

私なんかは関節痛などに煩わされて、面倒臭くなるタイミングがあるわけなのだが、それではダメだ、理想をしっかり持って使いたくないところも使って、別の考え方も取り入れて、バランスを保つ鍛錬が必要だ、と釘をさされたように思えた。

最後に種から俯瞰してみる

生物の突然変異とは環境影響あるいは遺伝子のコピーエラーによって発生していて、エラー率が少なすぎると変化が少なく進化が止まり、エラー率が多すぎると蓄えられてきたDNA情報が劣化する。

したがって、最も成功する種は、不変と変化の絶妙なバランスを保てる種であるという。

WHAT IS LIFE 生命とは何か

種は自然淘汰に抗うために、多様に広がり生き延びる可能性を高めようとする。

多様になるために今までにない(常識にはない)変化=エラーを求めているということが言える。

あたかも、エラーによって多くは失敗してよくて、その中のわずかなエラーが次の時代に成功することだけを期待しているようだ。

それは、どっちになるにせよ、我々がエラーと向き合い苦労することになる。

俯瞰して見ることで何かヒントがあるかと思ったが、種の考えていることは一人一人の幸せとはどうやら一致せずに冷たいもののようだ。

※あくまでも苦労を取り除くことが幸せだとした場合において。

合成の誤謬(個々のレベルでは正しい対応をしても、経済全体で見ると悪い結果をもたらしてしまうこと)の逆パターンのようにも見える。

しかし、この冷たい種の話で役立つことがあるとすると、人には種をつなぐために常にエラー、それは時には勘違いというものが起こるようにできているという確信なのかもしれない。

このことからは、エラーの多くはすぐにはうまくいかないものだが、エラーは起こってしまうから、

「エラーを放置して代償して生きていいんだよ」

(その選択をする種があってもいいんだよ)

というメッセージと

「エラーに抗って生きなさいよ」

(未来の種につなぐために)」

というメッセージの両方を受け取ってしまった。

エラーを克服することとエラーをそのままにすることのどちらも、未来に強い種をつなぐための営みである。

そして、例えば私でいうところの股関節の問題は、個人の幸せに関わるものではあるが、同時に種全体の未来に関わるものでもあるわけだ。

その両面から易きに流れずに苦労をしないとならないと言われたように感じるのだった。

私はここ数日で背伸びをした時に腰が伸びる感覚が出てきた。

健常な方は、何を言っているのか?と思うだろうが、ここまではそんな感覚がなくて、あたかも腰がなく生きてきたみたいなのだ。

最近この変化を感じて、またここまでたどってみて、私に今までと違った意味で克服のための苦労を受け入れる覚悟が芽生えてきた。

これから起こる多くの勘違いにも平然と対応していこうと思えてきた。

これが人生に腰を入れて生きていくということなのだろうか。

ここまでは腰が入っていなかったか。汗。笑。

お尻のエクボキッカケで、決意を新たにすることになった。

UnsplashNimi Diffaが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

エラーを期待されている者としては、前向きに自分の勘違いを発見していきたいと今思えております。笑。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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