田中 新吾

コミュニケーションは「分かり合う」ではなく「通い合う」を目指すといい。

タナカ シンゴ

この前、改めて感じることがあったんですがコミュニケーションの中から、いきなり「分かり合う」を作ることってホントに難しいことだな、と思うんです。

しかもこれが、関係性が薄ければ薄いほど難しい。

それはやっぱり岡本太郎が言っているとおり、人間関係には理解なんてものはなく、「誤解」しかないからなんだと思います。

参照:理解されるなんてことがあると思うのが誤解。

人間関係には理解はないし、誤解しかない。

でも、この切れることのない人間関係社会の中で、気持ちよく生きていくためにはコミュニケーションは切っても切ることができないものだと思います。

では一体何をコミュニケーションのゴールにしたらいいのでしょうか?

ということで、今回は最近僕が色んなところで話をしている「仮説」について少し書いてみたいと思います。

コミュニケーションは「分かり合う」ではなく「通い合う」を目指すのがいい

その仮説を最近こんな感じでツイートしてみました。

今までのコミュニケーションの成功や失敗を考えていたら、こんなことを思ったんです。

要するに、僕たち私たちが、欲してしまう「分かり合う」って、「通い合う」の後に勝手についてくるものなのではないのか?ってことなんです。

そしてこれは、「通い合う」がなければいつまでたっても「分かり合う」には到達することはない、という考えでもあります。

この仮説が、個人的には妙にしっくりきていまして。

妙にしっくりきているのは、多分今まで無意識的に大事にしてきた感覚だったものを言語化することができたからなのではないかと思ってます。

ちなみに、「通い合う」ためのポイントになるのは「一緒に何かをすること」だと僕は思っていまして。それを抜いてしまっては「通い合う」は得られないと考えています。

こないだ行ったイベント時に、サイボウズ式の竹内さんも「都会と地方」という文脈で似たようなことをおっしゃっていました。

「分かり合う」と「通い合う」というのも、結局は「繋がり方」の話。

理想を語って繋がるか、協働してから繋がるか。東京と地方の繋がり方の違いと、非常に近い感覚をこの時得たんですよね。

コミュニケーションは「分かり合う」ではなく「通い合う」を目指すのがいいのではないかということで、最後はちょっと抽象的な終わり方になってしまいましたが、何かのヒントになれば幸いです。

さいごに

このブログでは、コミュニケーションにまつわる記事を時々書いているんですが、今の所、最もアクセス数が多い記事がこれです。

参照:相手の立場に立って考えるために最も重要なこと。

なんとこの記事、グーグルで「人の立場に立つ」で検索すると3番目とかに出てくるんですよね。完全にPVの稼ぎ頭になっています。ありがとうございます。

それでは今日はこの辺で。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとって、何かしらの参考になったら幸いです。

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