メンタルを携えスキルを磨く以前に、チャンと把握するべきことがある。
先日、飲み屋でカウンターの隣りに座った男性が、あまりにもいい男(ルックスがいい)だったので、思わず「男前ですねえ」と声をかけたところ、「人は中身だ!」と軽くあしらわれてしまった。
この後の話でその方がそのように言った背景がわかり、自分が思ったことを安易に口にしてしまったことを後悔したのだった。
また、こんなこともあった。
また、別の飲み屋ではそこの店長を常連さんがこんなやりとりをしていた。
店長「いらっしゃい、あれ、生きてたんだ?」
常連「バカ言っちゃいけないよ。」
店長「しばらく見ないからさあ。」
常連「いそがしんだよ。そんなにこんな店に来てられっかよ。」
店長「あの店はつぶれたんじゃねえのかよ?」※常連さんは飲食店経営
常連「バカ言ってんじゃねえよ。」
他の常連さん曰く、店長とその常連さんのこの軽いケンカのようなやりとりは、いつもの調子なのだそうだ。
店長も常連さんもどこか楽しげだった。
深川あたりでは来店の間が空いた常連さんは”死んだ”ことにされる、と以前に聞いたことがあったが、それを実際に見ることになった。
そんなことから気になり始めたのが、私はいつになったら会話が上手になるのだろうか?
店長と常連のようなやりとりはどういうメンタルから成り立っているものなのだろうか?
といったようなコミュニケーションにまつわることだった。
思えば、いつになっても相手に誤解を与えてみたり、何かの不足を感じさせてしまったりしては、反省する自分がいる。
私が気づいている以上にもっと反省すべきことをやってしまっているのだろうとも想像する。
コミュニケーション力の合格点はいつになったらいただけるものだろうか?
100万部を突破した『人は話し方が9割』ではスキルよりメンタルが大切だと言う
コミュニケーションは生きる上で非常に大切なもので、上手くできるに越したことはない。
子供は大人になるにつれて上手くなっていったコミュニケーションであるはずなのだが、その上達はどこかで頭打ちになってしまい、このままずーっと反省しながら年をとっていくのだろうか?
もし、コミュニケーション学なるものがあるならば、いい加減に修了して修行を終えてしまいたい。
そのための方法はないものだろうか?
数多あるコミュニケーションに関する本の中に、最適な教科書はないものだろうか?
『人は話し方が9割』2019年9月刊行
こちらの本はたいそう人気のようで、約2年半で100万部を突破している。
この本にはコミュニケーションスキルがたくさん紹介されているのだが、特徴的なところは、スキルよりもメンタルを重視しているところだ。
「人は誰もが自分のことが一番大切であり、自分に一番興味がある生き物である」ということだ。
一番興味がある「相手自身」のことを主役にすれば、相手の感情は高まり、あなたのことを好きになってくれる。・・・・
中身を分解してみると、
メンタル→相手を大切にして主役にしようという思いがあること
スキル →相手を主役にする会話術(詳細は本の中に)
となるのだが、相手を大切にして主役にしようという思いを持てさえすれば、おのずとスキルが身につく、という意味合いは納得するところだ。
もちろん、そのような思いが自然に湧き上がらない段階においては、形から入ってスキルだけを身につけることも方法なのだろうとも思うのだが・・・。
ここで、なぜ相手を大切にして主役にしようというメンタルでいる必要があるのか?
いわゆるこのメンタルが必要である理由は何か?という疑問が浮かんだ。
その理由は、「人は誰もが自分のことが一番大切であり、自分に一番興味がある生き物である」から、ということになり、メンタルやスキルが、人のもつ特質(=状況)に対応するために必要になっている、という、言ってしまえば当たり前のことが浮き上がって見えた。
コミュニケーションは、その前提である人とはどういうものなのか、という状況把握に始まるのだ。
・誰もが自分のことを認めてほしいし、自分のことをわかってほしいと熱望している。
・誰もが人と人を比較して優越感を抱いたり、嫉妬したりする。
・人は敵を警戒するセンサーを持っていて、自分に不利な言葉や態度を繊細に感じるようになっている。
・情報が溢れる時代だから、人ぞれぞれの価値観の幅が広がっている。
などを人の特質=状況把握として上げてみることにしよう。
この状況に、コミュニケーションの方法である言葉というものが不完全であること、更には、人と人がコミュニケーションする時間が十分取れないから丁寧を尽くさないということなどを加えると、コミュニケーションというのはかなり難しいものであることを確認できることになる。
人はデリケートにできているから、言葉の選び方から始まって、言葉の発声のトーンでも感じ方が変わり、前後の状況や相手との関係性や相手の機嫌でも感じ方が違う。
更に、昨今の情報格差や価値観の違いから、人それぞれ違う感性を持っていて、自分との相性もあって、更に複雑である。
適切な言葉を選んでコミュニケーションできる確率はとんでもなく低いことがわかるわけだ。
結局、導き出された結論は、生涯でコミュニケーション学を修了することはない、ということだ。
私の希望は残念ながら、あっさりと叶えられないことになってしまったわけだが、それでも、ここからコミュニケーションにどう向き合って、年をとっていけばいいのかをなんとか導き出してみたいと思う。
コミュニケーションは非常に難しい、という認識から、大きく2つのことが言えるのではないだろうか。
①コミュニケーションは永遠に完全なものにならないから、それがうまくいかないことにくよくよしてもしようがない、という諦めが必要であるということ。
無理なことに対してできない自分を責める、あるいは、周りから責められる人生なんて避けるべきものだ。
少なくとも私はそう思う。
深川の上級者たちは、諦めが根底にあった上で不快感の応酬を愉しんでいるように思えてきた。
②コミュニケーションは努力して丁寧に行う必要があるということ。
これは①の逆のような意味合いだが、難しいから努力しなければならない。
それによって、人生の心地よさが上がるはずである。
コミュニケーションにもルールがなんとなくあるのでそれを学ぶという最低限のことで、うまくいく確率は少し上がる。
でもそれだけではとても上手くいかないから、相手を観察したり言葉を選んだりして、少しずつ確率を高めるということになる。
努力するけれど同時に諦めているという心持ち、姿勢。
これこそが、長生きするにおいてとても大切なポジションなのではないかと思うのだが、どうだろうか?
何とも都合が良すぎるから恥ずかしいのだが、諦めだけでも不足を感じて、努力で到達しないならば人生は無茶苦茶しんどいから、どうしてもこのような矛盾の中に正解があるのではないか?というところに私は行きついてしまう。
更に言うと私の場合、嫉妬、警戒によって相手を嫌だと感じたり、相手にイラっとしたりするようなことをなくすべきであると世の中が言っているように捉えて、それに倣うようにして大人は簡単には嫌になったり、イラっとはしない人になっているんだ、と認識をもつようになった。
だから、自分も相手も簡単には嫌になったり、イラっとはしない大人という前提でコミュニケーションをしていたように思う。
だが現実は、すぐに嫌になったり、イラっとされることでその前提を裏切られて、今度は自分がその人に対してイラっとしてしまったりした。
人の嫉妬、警戒などのデリケートさは治らないのだ。
むしろ、人の嫉妬、警戒などのデリケートさは悪いものではなくて、生き抜くために必要な機能だから治ってはならないものなのである。
そもそも治るという言葉もおかしい。笑。
私の場合は、このすぐに嫌になったり、イラっとする人の機能を認められないからコミュニケーションというものが更に複雑になってしまったのだ。
確かに、世の中には鍛錬によって嫌になったり、イラっとすることが少ない人もいるが、そのような人は少数であってお会いしたらその時はむしろラッキーと心得るべきで、これを前提とするべきではないということだ。
そして、嫌になったりイラっとするという人の機能を前向きに認めることは、相手に対しても自分に対しても寛容になる方向に向かうから、社会のコミュニケーション力全体を上げていくことにつながるものだと思う。
スルースキルを持っている人はわずか20%? ~SNS時代をどう生きるのか?~
こんどはこの状況把握の大切さを情報リテラシー(どのようにして有り余る情報に向き合っていけばいいのか)にあてはめてみようと思う。
昨今、特にSNS利用者の増加は目覚ましい。
人類はこれまでに、これだけのSNS普及下でのウィルス蔓延や戦争という出来事を経験したことがないのではないだろうかと思う。
情報は氾濫しているからもちろん混乱もするわけだが、一方でその情報戦なるものが何とも新鮮に感じられて新しい世界の幕開けを感じられてもいる。
情報リテラシーについてメンタルやスキル以前の状況を上げてみよう。
まずは、先ほどの人の特徴を再掲する。
・誰もが自分のことを認めてほしいし、自分のことをわかってほしいと熱望している。
・誰もが人と人を比較して優越感を抱いたり、嫉妬したりする。
・人は敵を警戒するセンサーを持っていて、自分に不利な言葉や態度を繊細に感じるようになっている。
・情報が溢れる時代だから、人ぞれぞれの価値観の幅が広がっている。
これに以下の状況を重ねてみる。
・SNS利用で人の発信が自由になった。
→褒めてもらえる機会と誹謗中傷される機会の両方が増えた。
・事実を知ることは難しい。
→ほとんどの人はニュースの一次情報=現場の情報に触れることがほとんどできない
・正義は人の数だけある、物事は見方によって異なる。
・人は情報で人を誘導するテクニックを磨いて自分の目標を目指している。
これらから、人に承認してもらいたい情報、人それぞれの正義の情報、誘導する情報、事実かどうかわからない情報が、溢れているのが今の社会である、と見えてくる。
そしてここでもこれらのことが悪いわけではなく、改善できるものでもない。
これらの情報はなくなることがないから、自分で情報を取捨選択しないとならないわけだ。
最近流行り?の言葉に「スルースキル」というものがあるが、このような状況からはこの言葉が登場するのは必然なのだろうと感じられる。
情報を無視するスキルなるものについて「できていない」とする人が約80%という、アンケート集計があった。
【100人に聞いてみた】スルースキルがある人の特徴とは?身につけるための方法も体験談からご紹介
このデータからすると人は情報過多時代への適応の途上にあると言えるのかもしれない。
スルーする方法をいくつかに分類してみる。
①情報を遮断する
ーそもそもTVを見ない、SNSをやらない など。
ー自分のすることに集中する。
②情報を忘れる
ー昇華すること=既にどうでもいいことであるとなっている。
③情報を保留する
ー保留、漂わせる。
まず思うのは、①「自分のすることに集中する」ことが自然に情報遮断になっている、というもので、これは自分の足で立つ素晴らしい生き方だなあと思う。
②「昇華する」ようになるというのは、その情報は自分では解決済であったり、知ってもその先に何の解決も伸展もない、あるいは、結果が右に転んでも左に転んでもどちらでもいい、と判断できるものだったりするのだろう。
これは経験からのもので、そういった判断ができるようになるのが、また人生の醍醐味なのだろうと思う。
それでも、この①②だけではこの情報過多の時代にはとてもやりきれないと思うわけで、最後に③「保留にする」について少し細かく書いてみることにする。
これは数年前に聞いたもので、当時は「漂わせる技術」と呼んでいた。
決着付けずに、漂わせてだけでおいておくということを言う。
例えば、ある人のある言動を見た時に、「強引な人だ」とか「慎重な人だ」とか「明るい人だ」とか「暗い人だ」とか、いろいろな印象が湧き上がるのが人というものだ。
このレッテル貼りは、危機管理のために人を素早く分別する機能である。
もちろん必要だから否定なんてするものではないのだが、その印象をその人の性格に決定付けてしまうことは、その人の全体を正しく表しているとは言えないかもしれない。
だから、例えば「強引な人だ」と思ったものの記憶は残すがそのまま保留にしておく、ということなのだ。
これらはあらためて書くことでもなく、人が無意識にやっていることなのだと思う。
次に、SNSなどから得た情報も前に上げたように背景にいろいろな意図がある情報なのだから、不要な情報も多いし、100%信じることが危険な情報も多い。
だから、情報に対していつでも正しいとも間違いとも決めずに、かといって不要ともせずに、保留にしておく、こちらも何となく頭の中に漂わせておくというものだ。
人それぞれの正義があるのだから、この人からの正義はこれ、また別の人からの正義はこれ、とだけ分類して漂わせておくというようなこともできる。
自分が得た情報から自分が正しいと思った情報をSNSに投稿したい衝動にかられた時期があったが、今にして思えば若かったなあ、と思う。
わずか数年前のことだが。汗。
人は瞬時に白黒つけるようにできているものの、現代は敵に一瞬にして襲われる時代でないから、それだけの早い判断が必要なわけではない。
それから、白か黒かと問いを出されて答えられないと賢くないと評価されてきたから、それが染み着いているものだが、これも受験勉強やクイズにだけ当てはまる幻想である。
下手に結論付けることをせずに大いに保留にしておけばいい。
確かに悪を放置しておくと社会がひどいことになる、という危機感をもって社会のために戦っている人にとっては、ずいぶん悠長に感じられてご批判をいただくことにもなろう。
それでも多くの情報に向かわないとならない現代において、健やかに生きるために必要な方法のひとつとして上げさせていただきたいと思うのだ。
こうしてみてくると、この情報リテラシーについても、人は情報発信することも意見の異なるものを批判することも止めろと言っても止まらないものだ、というような前提を含む現状把握が、メンタルやスキルをよりシャープにするように感じている。
最後に、今回のコミュニケーション・情報リテラシー以外にもついても同様に、まず先に人の特徴あるいはそれによって作り出される社会構造などの現状把握を原点とすることが大切なのだとわかった。
そして、現状把握においては、こうあるべきという理想を見るのではなく、現状に色をつけずにありのままを把握すること、そこに納得していること、これが重要なものなのであるとも感じるに至った。
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【著者プロフィール】
RYO SASAKI
現状把握がないと始まらない。
だから、私は人の言動に興味があるのかもしれません。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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