タナカシンゴ

自分のことを「コミュ障かも?」と思っても、気にし過ぎない方がいいと思う理由。

今回は、私が

自分のことを「コミュ障かも?」と思っても、気にし過ぎない方がいい。

と思う理由について述べる。

主な理由は以下の3点だ。

1.本来、コミュ障は、片側だけの障害として片付けられない

この間、独立研究者の山口周さんのツイートがTLに流れてきた。

この記事でも書いたとおりだが、私もこれには激しく同意する。

「コミュ障」は、意思を発する人だけの問題ではなく、

その周りにいる人も、その人の意図を汲み取れないという点で「コミュ障」と言える、ということだ。

したがって、話すのが下手でも、言葉だけじゃなく、表情とかを手掛かりにしながら知ろうとする人が近くにいれば、その人はコミュ障ではない

「赤ちゃん」はその典型だ。

赤ちゃんはしゃべることができないが、それでも周囲の人間が必死になって知ろうとすることで、コミュニケーションをしようとする。

だから赤ちゃんはコミュ障ではない。

本来、「コミュ障」は、片側だけの障害では片付けることはできないものだ。

ところが、現代には「わかりやすさ」と「短時間で伝える」ということを評価基準としてコミュニケーション能力を捉えるという強い社会通念があり、決められた時間内にわかりやすく伝えられない人はほぼ自動的に「コミュ障」と見なされてしまう。

でも、よくよく考えてみれば、

このような社会通念はどこかの誰にとって都合のいいように作られたものでしかない。

例えば、企業の採用時の人材要件に「コミュニケーション能力」を挙げてる会社は非常に多い。「知識労働」の占める割合が多い現代の特徴だ。

この能力が重要視されていることは、経団連が1997年から行っている「新卒採用に関するアンケート調査結果」からも明瞭である。

図のとおり、2018年の調査結果では、採用で重視される能力として、16年連続で「コミュニケーション能力」が1位となっている。

ところが、

こういった企業が求めるコミュニケーション能力というのは、思うに、殆どの場合が「当社の求めるコミュニケーションスタイルに従順に適応できる人物」のことであって、「真のコミュニケーション能力」とは別物だ。

コミュニケーションにおいては、「表現力」があるかどうかよりも、自分の言葉に耳を傾けてくれる人、自分に興味を持ってくれる人をどれだけ持っているかどうかの方がずっと重要。

ゆえに、コミュニケーション能力というのは、本来「表現力」だけの問題ではなく、「周囲の理解」もセットで測られるべき能力なのだと私は思う。

つまり、今もしも、自分のことを「コミュ障かも?」と思って気にしているそれは、コミュニケーション能力における不完全な社会通念や、企業都合によって作られてしまったものかもしれない、のだ。

だから、そんなに気にし過ぎない方がいい。

反覆するが、コミュニケーションにおいては、

「表現力」があるかどうかよりも、自分の言葉に耳を傾けてくれる人、自分に興味を持ってくれる人をどれだけ持っているかどうかの方がずっと重要だ。

2.コミュニケーション能力は変えやすい能力

「採用学」という、採用する企業側からみた採用ノウハウを検証した本のなかに、こんな話が出てくる。

組織や職場を『Aクラスの人材』でいっぱいにするにはどうしたらいいのか、という内容のビジネス書なのだが、その中で、人材の「能力」に注目した部分がなかなか面白く、かつ考えさせられる。

それぞれの企業における選抜基準を見直す際の、ガイドラインとしてお読みいただければと思う。

ブラッドフォードによれば、私たちが持っている能力は「極めて簡単に変わるもの」と、「非常に変わりにくいもの」の二つがある

(中略)

ここで注目したいのは、多くの日本企業が採用基準として設定している口頭でのコミュニケーションが「比較的簡単に変化」する能力としてあげられていることだ。

先に紹介した経団連の「新卒採用(2014年4月入社対象)に関するアンケート調査」によれば、日本企業の実に80%以上が、口頭でのコミュニケーション能力を、自社の選考の際に重視する基準としてあげている。

既に紹介した日本企業の人事データの分析からも、日本の面接が、いかにこれを重視して構成されているかということがわかる。

ところが心理学の世界では、これが相当程度可変的なものであり、意図的な努力によって向上するものであることが指摘されているのだ。

大学1年生の時には、人の目を見て話すことすらままならなかった学生が、卒業する頃には他人とのコミュニケーションにすっかり慣れて、立派にプレゼンテーションをこなしたりするなど、私たちの日常的な経験に照らし合わせても、この主張には納得がいく。

コミュニケーションの能力そのものの重要性を否定するわけではないけれど、これが果たして日本企業が採用時に時間とコストをかけて確認すべき能力であるのかという点について、疑問を持たないわけにはいかない。

この点については、場所を改め考えてみよう。

このように「比較的簡単に変化」する能力の対極にあるのが、「非常に変わりにくい」とされる能力だ。

IQに代表される知能、創造性、ものごとを概念的にとらえる概念的能力、また、その人がそもそも持っているエネルギーの高さや、部下を鼓舞し、部下に対して仕事へのエネルギーを充填する能力などは、非常に変わりにくいとされる。

たとえば論理的推論や空間把握といった、いわゆるIQと呼ばれる知能は、悲しいかな、かなりの程度、遺伝によって決定されることがわかっている。

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この知見は、産業・組織心理学の研究者であるブラッドフォード氏の「Topgrading」という著書に記されているものだという。

これは、後天的に改善しやすい「コミュニケーション能力」を、企業は採用する時にそんなに重視するべきなのか?という話に展開していくのだが、読んだ時、私にとって遥かに大きな発見だったのは、コミュニケーション能力が「比較的簡単に変化」する能力という部分だ。

下の表では、「変わりやすい能力」と「変わりにくい能力」が整理されており、これによるとコミュニケーション能力の他に、「顧客志向」や「リスクに対する志向性」「コーチング能力」までもが変わりやすい能力とされている。

他者と接する態度が、本人の努力次第や環境によって、変えられるまたは変わることが多い、というのは自分の人生を思い返してみてもたしかに納得感が高い。

大学デビューや社会人デビューを果たした「知り合い」は、卑近な例だ。

したがって、「コミュ障」は決して克服できないものではなく、むしろ「コミュニケーション能力というのは努力が実を結びやすい」というのは、そのとおりだと切に思う。

だから、今もしも自分のことを「コミュ障かも?」と思っても、気にし過ぎない方がいい。

コミュケーション能力は、いくらでも変わるし、変えられる。

IQとは関係のない能力なのだから。

3.コミュ障を気にし過ぎると、コミュニケーションが取れなくなる

スタンフォード大学心理学部教授のクロード・スティール氏は「ステレオタイプ脅威」という概念を提唱している。

ステレオタイプ脅威は、近年の社会科学でもっとも注目されている概念のひとつで、スティール氏曰く、「女性だから数学は苦手だろう」「黒人は白人より学力が低い」などの社会的なステレオタイプ(偏見)を意識させると、それによってテストの点数が下がってしまう現象という。

そして「ステレオタイプ脅威」は、テストに限らず「パフォーマンス全般」に言えると述べている。

「男性だから子どもをあやすのは苦手だろう」

「高齢者だから記憶が危ない」

「太った人は自制心にかける」

「慢性疾患者は生活がだらしない」

このように、世の中にはジェンダー/セクシュアリティ、障害、移民、民族、非行、犯罪者など様々なイメージが行き交っている。

これらのイメージはすべてが「ステレオタイプ脅威」になり得るのだ。

本書では、様々な実験によってその脅威が明らかにされている。

例えば、数学が得意な2つの女性グループに対して、一つのグループには「研究によると数学の能力と成績には性差があることが分かっている」と告げ、もう一方のグループには何にも告げずにテストを受けてもらう。

すると、一つ目のグループの方では、数学の学習に関連する脳の部分が働かずにテストの点数が低くなったという。

たったの一言」でパフォーマンスがこうも変わるだなんて、魔法にかけられたようななんとも驚くべき話である。

そしてさらに、

「ステレオタイプ(偏見)」をコンプレックスだと感じ、克服しようと無理に頑張ろうとする(過剰努力)と、余計な力みにつながり、うまく能力を発揮できないとスティール氏はいう。

この状況は、学校の授業中に先生から当てられた時のあの嫌な感じに近い。

誰もが「この問題の答えは?」と指名されて、「答えなきゃ」と焦ってオドオドし、答えを間違えた後で「落ち着いて考えれば答えられたのに(泣)」となった経験はあるのではないだろうか。

コンプレックスを努力して克服しようとするのは悪いことではない。

しかし、無理して頑張る(過剰努力)とむしろパフォーマンスが悪くなるというならば、塾考する余地は十分にある。

この「ステレオタイプ脅威」は、漏れなく「コミュ障」にも影響する。

つまり、自分のことを「コミュ障かも?」と気にし過ぎると、コミュニケーションが取れなくなり、それを無理して克服しようとすると余計にコミュニケーションが取れなくなる、という沼にハマってしまうのだ。

ゆえに、自分のことを「コミュ障かも?」と思っても、気にし過ぎない方がいい。

昔は私も「コミュ障」だった

ちなみに、かくいう私も実は昔はちゃんとした「コミュ障」だった。

詳しくは以前記事している。

人見知りじゃない奴は面白くない。

でも、些細なことからコミュニケーションが楽しく、好きになったわけで、その時から、自分のことを「コミュ障かも?」と思っても、気にし過ぎないように変わった。

今でも「コミュ障」という自覚はあるが、ほとんど気にしていない。

このような記事を書こうと思ったのも、こうした経験があるからに他ならない。

あの岡本太郎は「誤解の分量」が、ひとを強く豊かにすると述べている。

人と人との間にあるのは「誤解」だけであって、たまたま意見の一致を見たとしても、それは狂った時計同士でも同じ時を指す瞬間があるのと同じ。

そして、他人との理解や一致を求めれば求めるほど、実は本質から遠ざかっているという。

私には「みんなコミュ障でもいいじゃん!」「みんなコミュ障だよ!」と言っているようにしか思えないのだが、どうなんだろうか。

Photo by Nik Shuliahin on Unsplash

【著者プロフィール】

タナカ シンゴ

理工学部卒業後、東京のマーケティングファームに7年勤務。営業、リサーチ、コンサル、商品開発、集客、マネジメントの現場経験を積みジョブチェンジ。

現在は一人会社との複業で、中小オーナー企業や地方自治体をクライアントに商品開発と集客のプロジェクト運営などを行っています。

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