RYO SASAKI

「合理的」によって封印されてきた「情緒」を育む方法

タナカ シンゴ

最近、ある人からこんなことを言われた。

「佐々木さんは確かに人に対して興味があるんでしょうけど、それは個々人それぞれに興味があるというわけではないですよね?

興味があるのはひとりひとりではなくて、人間というものの汎用的なセオリー、あるいはしくみの方ですよね。

だから、人が他人から訊かれてイヤーなところまで絶妙に深入りせずに相手が話していい範囲のところを上手く引き出せると思うんですよね。」

これは、たぶんお褒め?の言葉だったのだろう。

でも私は、そうは言ってもらったものの、深入りして不快にしてしまったこれまでの数々の記憶を思い出して、何ともバツが悪い感じになった。

褒められると自分の中でその逆の自分の悪いところが浮き上がってきてしまう。

残念ながらこれはよくあることだ。

ともかくそれでも、そのバツの悪さと同時に「セオリー、しくみ」に興味がある、という見立てに、私は確かにそうかも・・・という直観が立った。

今回このことが、自分がなぜそうしてるのか?観察してみるキッカケになり、それがまた、「情緒」というものを考える入口になったのだ。

「情緒」という言葉については、「情緒不安定」という悪いイメージをよく知っているくらいで、それ以外これまではどこか縁遠いものであったのだが・・・。

情緒とは?

まず始めに、岡潔さんを紹介する。

岡潔さんは数学者でありながら、学問の中心を「情緒」に据えるべきである、として情緒の大切さを訴えた人だ。

岡さんが「情緒」が大切だ、という背景に、「美しい」の理想を追求する行為が数学にもあって、そのためには美しさを感じる心が育まれなければならない、というものがあったように記憶している。

だから「数学者でありながら・・・」と言ったが、むしろ「数学者であるから情緒の大切さを知っていた」と言った方がいいのかもしれない。

岡さんは「情緒」とは何か?について次のように説明している。

人の悲しみがわかるということ。

わかると言うのは、人の悲しみを自分のことのように感じることである。

人間は、人間性と野獣性の両方を持ち合わせている存在であり、情緒によって人間性が育まれるわけなのだが、現代の教育は、「稼ぐため」「個人の幸福だけを求めるため」のものになってしまっている、と岡さんは憂えた。

春宵十話 著:岡潔 より引用

(現代の教育は)

犬に躾けるように、

主人に嫌われないための行儀を教え、食べていくための芸を仕込んでいる。

これでは獣と変わらない。

現代教育は人間の野獣性を助長しているだけだと言う。

こちらの本が発行されたのは、約60年前、1963年のことで、私が生まれる前。

ということは、私が受けてきたのは岡さんが憂えた教育そのものだったということになるんだろうか・・・。

このような「情緒」の説明に触れると、これまで私は「情緒」とは無理にでも安定させなければならないもの、とだけ理解していたことが思い出される。

情緒的な話は苦手?

また別の人からある時に、「佐々木さんは、情緒的な話は好きじゃないでしょ!?」と問いかけられたことがある。

それを聞いた時私は、確かにお相手が深く悲しんで、あるいはその逆で大いに歓喜して、その心の内を話してくれた時、どこか静観しているようなことがこれまであった、と思い出す。

このことが、私が「情緒」が育まれないまま大人になった、ということを表しているんだろうか?

これが冒頭のこととつながって私の頭の中がグルグルと巡り始める。

まずはなぜ、私は人間というしくみに興味があるのか?について。

人間なんてものは本来、千差万別であるからかなり面倒くさいものであるはずだ。

それでも生きている以上、人と人が関係していくことは不可欠で、その厄介なものに関与せざるを得ない。

ならば、何とかいい関係でありたい。

いや、いい関係でなくとも少なくともトラブルは避けたい。

そのために、人間が通常はどういう風にできているのか、そのセオリーを知っておきたい。

そんなところが起点になっていると言っていいのかもしれない。

そして、次に会う人ともトラブルなくやりとりしたいから、そのために複数の人間のセオリーを学び経験値を高めていく。

共通点という上澄みみたいなものをすくって効率よくこなしていく。

これがまた理系的なアプローチとでも言ったらいいだろうか・・・。

次になぜ、深くまで踏み込まず、逆に深い情緒的な話になったら静観するのか?

先ほどの流れから言うと、そこまでの深い話は個別のものであって汎用的ではないから、他でトラブル解消のために使おうとすると効率が悪い。

だから、あまり情緒的な話を欲しない、ということになるだろう。

私は何と合理的で冷たい奴なのだろうか?

いやいや、そんなことはあるまい、少し弁解させてもらう。

前提に、深い情緒的な話は、所詮他人ではわかり得ない、と思っているということがある。

それは、私の効率性のためということではなくて、人は経験も考え方もそれぞれ異なるのだから、寄り添おうとしたところでそれは疑似的なことでしかなくてどうしても限界がある、という謙虚な気持ちからのものなのである。

「情緒的」を避ける弱さと計算高さ

それは本当に謙虚なのか?

疑似的でも寄り添えばいいではないか?

それがまさに岡さんの情緒、「人の悲しみを自分のことのように感じること」なのではないのか?

こういった疑問に対しても意見を述べておきたい。

「人の悲しみを自分のことのように感じること」は大変エネルギーのいることで、受け取った悲しみに影響されてどこか自分まで真っ暗になってしまって、再び(気分を)上げるのに大変な自分がいるため、深入りを避けているのだ。

いわゆる他人の情緒を「もらってしまう」というようなことだ。

私は、弱い自分の身の程を知っていて、背伸びをせずにもらわないように注意しているわけだ。

ここまでのことを併せて、情緒的な話を背けている自分がいると説明ができる。

どうだ!見事な主張だろう。

やはりチャンと合理的な理由がある、ではないか?

・・・・・

ここで気づいたこと。

この見事に説明した内容をよーく眺めてみると、「効率的」やら「エネルギーがいる」やら「合理的」やらの言葉が散りばめられている。

そう、ここで損得が十分に計算されている、ということなのだ。

この損得勘定が、岡さんが憂えていた教育を施された結果なのではないだろうか?

それこそが食うために仕込まれた芸であって、その芸を磨くために私の「情緒」の育みはやはり抑制されてきたと言えるんではないか?

ここまでのところで、自分の芸なるものに突き当たって私は愕然とする。汗笑。

思うに、情緒的なものとは多くの場合、食う(仕事をする)ためには無駄なものであって、上司が求める行儀としてはNGである。

情緒はコスパもタイパも悪い。

だから排除されてしかるべし。

「四の五の文句言わずに黙ってやりなさいよ!」

ってな具合で、無感動を装うことで日々を回してきたのだ。

人間という者は、自分が感じるはずだった「情緒」を感じる前に外に売って食ぶちを得て生きてるような存在なのかもしれない。

他人の「情緒」はわからないけど・・

やはり若い頃に学んだものは、体にしっかりと刷り込まれて残っているものだ。

そんな私が今さら、「情緒」とどう向き合ってどう育めばいいんだろうか?

もちろん、これまでと変わらずにノントラブルで効率良くやっていくことでも何の問題もないはずなのだが・・・。

それでもだ。

自分の中の感情に素直に寄り添うことと同様に、相手の感情に寄り添うこと、これは単なるトラブル解消にとどまらず、人生の喜びのひとつなのではないだろうか?

この「情緒」というものを育むことが持って生まれた生を遺憾なく発揮して、生を味わうことなんではないか?

だとするとその「情緒」を抑制していてはもったいない。

そんな感覚が自分に生まれてきているのも確かなことだ。

ならば遅きに失しているかもしれないが、それでも「情緒」を育むことにトライしたい。

それには、まず自分の感情を観察し続けること。

そして、出会った人の感じることをできるだけ想像することだ。

そのエネルギーのいることに、その非効率なことに、単なるやっつけとしてではなくて丁寧に向き合うことなんだろう。

そもそも「情緒」を感じて生を味わうことが生と言えるのならば、それのどこが非効率なのだろうか?

一体何の目的に対して非効率だと私は言っているのだろうか?笑。

さて、最近、若者とこんなやりとりがあった。

私が、

「自分は長年のサラリーマンという敷かれたレールの上を窮屈にも我慢してやってきて、そのダメージがあって、そして今になってやっとそのレールに気づいて、そこから外れる自由を追いかけるようになった。」

と伝えると若者は、

「私なんかはそもそも最初からレールの上を上手く歩けないんで、レールの上をずーっと歩けてこれたってこと、逆に羨ましいですよ。」

と正反対のものが返ってきた。

これは年上の私に対して気を使った言葉だったのかもしれないのだが、今の私には誉め言葉にまったく聞こえない。

果たして私と若者、どっちが幸せなのか?

並べてみるとなぜだか無性に笑えてくる。

生きてきた環境も長さも異なる者どうし。

とても簡単にお互いを理解できるものではない。

若者の気持ちを想像しようとしてみる。

私の若い頃に似たようなことがあったかもしれないが、私の場合古過ぎて忘れてしまっている。

ましてや、今の私の興味の真逆だから、思い出したくもない。

まったく、私という者は先輩甲斐のかけらもない。汗。

このやりとりのように、とにかく私にとって、相手の気持ちを自分のことのようにわかる(情緒)、というのは大変難しいことなのだ。

・・・

それでも、、、それでも、、、言葉を尽くして、できるだけ相手の気持ちに近づく、いや、近づけないにしても、近づこうとする。

自分に刻印された「合理的」を封印して・・・。

これしかないのだ。

UnsplashHippo FromEarthが撮影した写真

【著者プロフィールと一言】

RYO SASAKI

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

今回もまた遅れてきた「疑う」シリーズ、「自分の情緒を疑う」になってしまったようです。

「合理的」というのは、何かを得るものですが、同時に別の何かを失うものでもあるなあ、などと感じました。

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