RYO SASAKI

不快感を愉しもう!

タナカ シンゴ

痛い、苦しい、暑い、怖い・・・といった不快感。

一般的には誰しもが不快を避けて、快を求めて生きている。

快を求めているものの、環境は自分都合の快適であり続けることはないから、「不快」はどうしても消え失せることがない。

また、人生は、何らかの負荷をかけないと生きていけないものではあるから、負荷がかかった時に感じる様々な「不快」はどうしても消え失せることがない。

この消えることのない不快感に対して適切な向き合い方はないものだろうか?

と、ふと思ったことがキッカケで、それを人間が持っている「ホメオスタシス」や「廃用性の萎縮」を理解することを通して考えてみた。

便利を追い求める時代は終わる?

便利を追求してきたのがここ数十年の現代生活と言ってもよいかもしれない。

便利、手間を省くために、あるいは、楽を求めてそのために必要な物やサービスを買い求める。

この便利の追求がまさに快を求めることのわかりやすいひとつに当たる。

どれだけ便利を求めたら気が済むのか?

その追求の先に何があるのか?

最近はこのことの反転とも言えることが起きている。

若い人などにも不便を求める動きが出てきていると言われる。

キャンプブームは、不便なところに行ってワザワザ火を起こし、手間をかけてキャンプ飯を作る。

なぜ、不便なことをやりたくなるのだろうか?

キャンプの場合、その不便を経験しても自然の中にいることを求める、という理由もあるかもしれない。

だが、自分が手間をかけることで、自分が生きている、という実感が得られるから、と理由を説明する人もいる。

便利の追求だけから変化している面も見受けられる。

ホメオスタシス

まずは、最近ブームになるようなものも含めた3つのワードを題材にして「ホメオスタシス(生体恒常性)」をみてみたい。

サウナ

●ジェットコースター

●断食

ホメオスタシスとは、

身体の外から受ける環境や内部の変化にかかわらず、身体の状態(体温・血糖・免疫等々)を一定に保つこと

を言う。

体温が上がれば、自然に汗を出して身体を冷やそうとするように、我々の身体は通常の状態に戻そうとするように機能している。

それを元に戻せない場合、命に係わることにもなるから、当たり前のようであるが非常に大切な機能と言える。

いざという時のために生きながらえるように人間の身体にホメオスタシスが備わっている。

このことを逆手にとって?うまく使って、快感をえよう、ストレス発散させよう、あるいは健康に導こうというのが、3つのワードに当てはまると言える。

サウナについては、そのままでは危険な高温状態から、今度は水風呂の低温状態に一気に環境が変わることで、身体をビックリした状態に持っていく。

身体がビックリした状態はホメオスタシスが機能する最高のステージと言える。

ジェットコースターも同様に重力によって身体の危険な状態を作り出す。

「火事場のバカちから」などと言うが、危機にあった時に通常にはない力が出る。

これも生きながらえるための行動を起こす必要があり、その行動を起こせるように快感物質アドレナリンが脳から出て、危機回避を後押しすることになる。

異常事態に立ち向かうために、快感物質が出たり、または、異常状態が通常に戻ることで緊張がなくなり快感が生じたりする。

断食は上記2つとは少し異なるのだが、食べ過ぎの現代人の胃腸を休めると同時に、空腹でいることで本来人間が持っている様々な感覚を正常化させることで、健康に導くものである。

人は空腹でいないと本来の生きるための機能が十分に働かないようにできているのだろう。

サウナ・ジェットコースター・断食は、なぜ人気なのだろうか?

暑い思い、怖い思い、ひもじい思いなどの不快な思いを求めるのか?

それは、意識のことだけで言えば、その先に得られる快感を知っているからなのだが、無意識の世界では、不快感によってホメオスタシスが機能し始める。

そして、荒療治とも言うのか、異常なほどの不快感の末に結果的に正常に導かれる。

不快感は正常に戻す機能のトレーニングになっている、とも捉えることができる。

廃用性の萎縮

次に「廃用性の萎縮」からみてみる。

「廃用性の萎縮」とは、人間の身体で使われなくなった機能は、廃れていく、というもの。

使われなくなった機能をエネルギーを使って残しておくような非合理的なことを人間の身体はしない。

・宇宙飛行士が重力がないフライトによって地球に戻った時に歩く機能を失う。

・重い荷物を持つことを自動車へ、あるいはカートに任せることができれば、重い荷物を持つという能力はなくなる。

・パソコンばかり使うようになれば、漢字を書けなくなる。

・肩より上の場所に手を伸ばすことがなくなれば、四十肩五十肩になり、手は上がらなくなる。

・夏場、冷房が常時オンの部屋にいるならば、暑さに対して汗をかくなどの機能は弱まる。

使わなければ、さまざまな機能が弱まる。

涼しいところばかりで過ごせば、汗をかいて身体を冷やそうとする=恒常性回復機能も弱まるのだ。

これは見方を変えれば、暑いという不快を周りの環境によって全て避ける、という環境に生きることで、自ら持っている機能を失っていくことを意味する。

何が幸せなのかは人ぞれぞれなのだが、様々な不快感を避けた便利で幸せな生活は、人間の持っている機能を弱める生活である、と言うことができる。

人間が常に快適な状況に置かれているならば、自分が何かしなくては生きていけない、という状況ではなくなる。

ただ受動的に環境に身をまかせるだけでよくて、ホメオスタシス(恒常性回復機能)すら必要がなくなる。

恒常性も変化する

恒常性とは自分にとっての最適体温であり、最適脈拍数であり、といったものなのだが、一生涯固定なわけでもない。

長い間の生活環境、生活習慣によって、少しずつ変化していくものでもある。

恒常性だけでなく、廃用性の萎縮によって、持っている機能、能力も弱まったりとこちらも変化している。

体温が36℃を下回る子供が増えている、というような話も聞く。

キレイな無菌状態で過ごす時間が多いとアレルギーになったりする、というような話も聞く。

人間の身体は瞬間瞬間に環境適用を行っている。

たぶん休みなく、絶え間なく、無意識に続けている。

その積み重ねによって、あらたな恒常性が現れる。

この環境適用の厄介なところは、例えば10年後に必要な機能を残しておかないことだ。

今の環境に適用していき続けるということ。

10年後に必要な機能でも今必要がないとすると、機能は不要となる。

環境変化が早くて大きいと適用ができづらいのが、人間も含めた生物なのだろう。

あなたの恒常性とはどんな状態に適用しているだろうか?

常時、26℃を保った部屋で24時間暮らすこともできる。

あるいは、35℃の灼熱下で川遊びをする生活も選択できる。

常にTVやネットから情報を得る生活もできるし、遮断する生活もできる。

気温、春夏秋冬という季節などの大きなものは住んでいる場所に影響を受ける。

その一方で、ある程度自分の恒常性を作る環境、生活習慣は自分で選ぶことができる。

自分の生活習慣が自分の恒常性を作り上げる。

恒常性とは、体温が36.5℃という測定可能な基準でもあるが、そこに戻ろうとする力も含んでいる。

戻ろうとする力が弱まると恒常的な体温が35.5℃までに変化したりもする。

そんな風に感じるのだ。

そして、自分の恒常性を作り上げるに当たってのキーワードは「不快」にある、ことが見えてくる。

どんな不快を経験するかが、自分の恒常性の輪郭を作る。

山で感じたこと

これはこの6月に10年ぶりに山に登った時に感じたことをブログに書いた内容。

日々是湧日 「10年ぶりの良き日」より

最高のシーズン。

今は梅雨入り前。

暑くもなく寒くもない。

山の尾根を歩く。

散策が最高。

以前トレイルランニングをしていた時はこの梅雨までの時期は貴重だった。

わずか数週間のうちのなけなしの数日。

毎週末の天気をチェック、どの山に出かけようかと躍起になってリサーチしていた。

10年以上ぶりだろうか・・・山に向かった。

運動不足の体は重く、少しののぼりで心拍数が上がり、立ち止まる。

昔のようにできないことがわかる。

そして同時に今できる範囲がわかってくる。

できないことを感じることなしに、できることは感じられない。

風が吹くときの気持ちよさ。

風がやむときの不快感。

汗が出てくる気持ちよさと汗が体に残る不快感。

筋肉に溜まる疲労の気持ちよさと筋肉に残る疲労の不快感。

関節に起きる炎症の気持ちよさと関節に残る炎症の不快感。

快感と後に不快感がすぐに訪れ、波を打つように移り変わっていく。

快感は不快感なしでは訪れない。

散策の後はお風呂に立ち寄る。

汗にまみれた服を脱ぐ時の気持ち悪さ。

脱いだ服を袋にしまい込んでしまう気持ちよさ。

汗を流した気持ちよさ。

体が温まる気持ちよさ。

汗がにじんでくる不快感。

水風呂の気持ちよさ。

疲労や炎症に効いているような気持ちよさ。

そして冷たさの不快感。

外気浴の日光の気持ちよさと風の気持ちよさ。

日光の強さによる不快感と風が止まった時の不快感。

喉が渇く不快感と喉が潤う気持ちよさ。

ここでも快感と不快感が交互に訪れ、波を打つように移り変わっていく。

快感は不快感なしでは訪れない。

この快感と不快感の波の変化を感じて、トータルで良い一日だったと総括する。

このようにして、また山に来れるとは思っていなかった。

否、山に来ることはどこか期待はしていないわけではなかった。

「行こう」と思える気持ちになったことは大きな変化。

この変化から良い一日だったと総括した。

人は人生に山をつくる。

その山を登ろうとする。

高い目標を掲げ進む。

うまくいかない時もあるから降りていることもある。

感情も上下する。

喜びも訪れれば悲しみも訪れる。

人生は上下する。

上があるから下がある。

下があるから上がある。

不快感があるから快感がある。

快感があるから不快感がある。

今日は今年初めて部屋でパソコンに向かって座っているだけで、もみあげから汗がにじんできた。

そんな時期になった。

この先の天気予報は傘マークが続く。

山で快適な時間は短い。

でも、夏は不快感が勢力を占めるから快感もまた大きい。

自分の感情をずーっと観察してみると、不快感の後に快感が訪れ、そうかと思えば快感の後に不快感が決まって訪れる、まるで波のようなものだ。

身体が、快感と不快感に常に敏感で、休みなく感じ続けている。

そしてまた、快感は不快感があるから相対的に感じられる、そんな風にも感じる。

不快と向き合う

ここまでのことだけから結論づけるのはどうかとも思うが、一旦今回の結論を書いてみようと思う。

まずは、「不快」というもののまとめから。

不快は、ホメオスタシス(恒常性回復機能)を鍛錬し維持するための必要条件である。

→健康状態にするためのホメオスタシスは異常な状態、不快な状態になった時に初めて発動する。

異常な状態、不快な状態にならなければ発動することはない。

不快感は、快感を感じるための必要条件である。

→快感でも不快感でもそれが当たり前になると快感とも不快感とも感じなくなるように身体はできている。

快感は不快感があったから感じられるものであり、また、快感は不快から、解放された時の相対的な感覚である、とも言えるのではないか?

不快というものは、ある程度避けることはできるだろうが、全てを避けることはできない。

だから、不快を避けるべきではない、とだけ言うつもりはないのだが、不快が存在する意味があり、不快は人生に必要なものだと感じる。

それは恒常性(自分の正常)に戻るためであり、快感を感じるためである。

俯瞰してみると、人生そのものが不快に適用していく(不快を避ける、不快を耐久する)ことなのではないかと思う。

どんな環境に耐えられるような人間であるのか?

何ができる人間として生きたいのか?

ある程度選択ができる。

それはどんな不快を受け入れるか?で決まってくる。

そして不快の後には、それを越えた時には、必ず快感がやってくる。

不快との向き合い方は、どの不快を受け入れるかを前向きに選択するということ。

その不快は、自分の10年後に、あるいは自分の末裔にどんな恒常性を残すか?という選択でもある。

例えば、10年後、20年後、自分で歩いて買い物に行きたいのならば、今から歩いて買い物に行くことだ。

夏の炎天下に水遊びしたいならば、定期的に炎天下に身を置くこと。

冷房の効いた部屋ではなく冷房の弱い部屋で仕事をすること。

多少の不快に身を置くことだ。

非常に簡単なことだ。

汗にまみれたシャツは不快だが、そのシャツを脱いでの風呂上がりのドリンクはすごく美味しい。

歩き(スポーツでも)疲れるという不快を味わったならば、睡眠が深くなるだろう。

人は、スポーツやサウナやジェットコースターや断食などの不快を求めに行く。

これは快感を得るためだけでなく、無意識によって自分の恒常性に戻るためであり、バランスを取るために行っているとも表現できる。

自分の恒常性を、自分の身体が、自分の無意識が求めている。

あるいは、自分の無意識が自分で何とかする、という自分らしさを求めているのかもしれない。

自分らしくあるために、不快感が必要とも言える。

さて、ではどこまで不快を経験すればいいのか?

便利を追いかけてはいけないのか?

この不快の程度、便利の追求度合は難しい。

はっきりとはわからない。

言えることは、やり過ぎても壊れるし、やらな過ぎても弱まる、ということしかない。

そして、不快にもさまざまな種類がある。

自分が選択した不快を経験するために、それ以外の不快を避ける必要もあるかもしれない。

さて、あなたは意識的にどんな不快を選択しているだろうか?

あるいは、直感や無意識はどんな不快を選択しているだろうか?

最後に、便利が与えられると自分ができることが俄然減ってくる。

自分ができることを目いっぱいやって生きる、これが生きる意味合いだとすると、できるはずの機能が減ることはもったいない、とも言える。

不快を受け入れて、自分が意識的にできることをやる。

不快を受け入れて、自分の無意識ができること(恒常性回復機能)をやってもらう。

苦しいけれど続けている仕事。

顔を歪めてまでやっているダイエットのための運動。

苦しんで生み出す作品。

夢中になって何時間もやってしまう趣味。

・・・

これらによって感じた不快、苦痛は自分という最強の種が構築されていく糧となる。

感じる不快が自分を作る。

人生は不快を糧にして、自分を強化しながら進む、ゲームだ。

不快を感じている自分を、運動した翌日の筋肉痛に充実感を感じる自分のように、誇らしく感じながら日々生きてみよう!

Photo by Evgeny Klimenchenko on Unsplash

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

不快感は四六時中、われわれの身に訪れているものだから、それに対する捉え方が変われば人生は大きく変わるのではないか?

不快の克服を愉しむのも人間、不快自体を愉しむのもまた人間。

このアプローチはいかがでしょうか?

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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