私の判断はいつも怪しくて、ダブルスタンダードがスタンダードなのだ。
少し前に、人がつくウソを見抜ける能力者が登場するドラマがあった。
人に他人のウソを見抜ける能力があるならば、犯人探しなどは楽なモノになるのだろう。
ウソにもいろいろな種類があることは知られていて、自分が得しようと相手を騙すウソがあれば、相手を気遣った優しいウソもある。
ウソがわかる能力者は、優しいウソまでわかってしまって、その切ないところもあるのだろう。
そんなことを思うと、能力はあればあるほどいいものだ、とだけ思い込んできたものの、一長一短なのではないか?などと思ったりもする。
さて、このウソ(あるいはホント)についてひとつの疑問が浮かんでくる。
私は自分のウソ、ホントをどうやって分別しているのだろうか?
明らかなウソ、ホントもあるだろうけれど、自身ですらウソ、ホントをチャンと分けられていないものもあるのではないか?と疑い始める。
今回は、ウソ、ホントの分別から始めて最後に、自分の判断がまあまあ曖昧で怪しいものなのだ、と感じるところに着地するに至った。
好きと嫌いの分別方法
「(不正あるいは犯罪を)やってないというあなたの主張はウソではないですか?」
などと追求される場面をよく目にする。
これに対して、
「記憶にございません!」
という言葉で逃げるのがポピュラーな手段ではあるのだが・・・。
そもそも、自分がやったのか、やっていないか、についてはよっぽど錯乱していない限り、よっぽど古くない限り、だいたいは記憶しているものだろうから、これに関しては自分でウソを言っているのかホントを言っているか、分別しやすい類のように思う。
この分別しやすい類のモノに関して、世の中では押し問答が繰り返され、かなりの時間が費やされるのだから、何とも面白い。
私のように幸運にも「記憶にございません」で逃げた経験がない者からすると、とりあえず興味深いとしか言いようがない。誉?笑。
では、好き嫌いについてのウソ、ホントはどうなのか?
まず自分は、好き嫌いをどんな風に決めているか思い出してみる。
(ここからは好き、嫌いの言葉を使うが、これを個人的に思う、良い、悪いに置き換えても成立するように思う。)
自分が誰かを嫌う時、そのだいたいが警戒心が働くことから始まる。
これは確かなように感じる。
人間も動物として危険なモノを瞬時に見分けるようにして生きながらえてきた。
そして、その一瞬で警戒してそれを避けるようになる。
これが嫌いの始まり。
もちろん、一旦は警戒したものの、その後、相手の人となりを知るなどして、警戒が解けて好きになったりする場合もよくあることではあるのだが。
逆の場合もある。
好きだった相手にある時、酷いことをされてしまって嫌いになる。
あるいは、酷いことをされてもいないのに突然冷めてしまったり。
これを最近の言葉で「蛙化現象」というらしい。
特に恋愛中は相手の嫌いなところが見えなくなるというから、ずいぶん都合が良くできているものだと思うのだが、見えなくなることの反動が”蛙化”なのかもしれない。
好きだったところが消えてはいないはずなのに、嫌いなところに全て覆われて、相手を”嫌い”に分別してしまう。
恋愛は短期戦だから、長期戦の人としての”好き”嫌い”を考えてみよう。
そもそも好き嫌いの分別をしようとした時に、思うのは、あの人の好きな(良い)ところはこういう所で、嫌いな(悪い)ところはこういう所で・・・、となるだろう。
好きなところもあれば、嫌いなところもある。
自分に完璧に都合のいい人なんてのはいないから。
そう、少なくとも私は好きな所と嫌いな所を並べた上で、総合的に好きか嫌いかを分別しているようなのだ。
(もちろん並べた結果、好きでも嫌いでもない、となる場合もある)
並べるとは言っても、好きな所と嫌いな所の箇所数によって分別するわけではない。
ひとつの好きな所が私にとって大きければ、いくら嫌いな所があっても”好き”に分別されたりもする。
嫌いなところは大目に見るわけだ。
また、好き嫌いを分別するのに、相手のすべてを知ることはできないから、後から嫌いなことを知ることになり、それならば幻滅だ、となって好きから嫌いに転換することもある。
人はその時点で知りうる情報からしか、分別ができないから当たり前と言えば当たり前のことだ。
勘がいい人は、知りうる情報から知らない情報を類推してしまう、なんてこともしているんだろうが私には無理で・・・。
さて、こんな風に見てみると、
「◯◯が好きですか?」
と問われた時、
「はい、好きです(あるいはイヤ、嫌いです)。」
と答えたとしよう。
これが、ホントのことを言っているのか?ウソのこと言っているのか?
私の場合、ハッキリと好き嫌いが分別できているものが少なく、分別できていない場合には、好きです、と答えたとしてもホントだし、嫌いです、と答えたとしてもホントということがありうる。
むしろ、だいたいのものが好きな部分もあるし、嫌いな部分もある、というのが正確な表現なのかもしれない。
そんな状態でありながら、だいたいが相手に配慮して「好きです」と答えるのだろう。
そんな自分の二枚舌感が否めない。
そうしてみると好き嫌いについては、自分のウソ、ホントが、また何とも曖昧で不安定なもののように感じられてくるのだ。
ダブルスタンダードが当たり前
好き嫌いで面白いのは、同じことをやっても好きに分別されたり、逆に嫌いに分別されたりする、人によって異なる、ということ。
私の好き嫌いの分別にもあったように、嫌いなことをされても、他の好きなところが大きければ、嫌いには分別されない。
更にこれをもう少し拡大解釈して、自分がお世話になっている人ならば、多少嫌いなところが目立っても”嫌い”には分別しない、ということもある。
「お世話になっている」を「尊敬している」とか、「幸せをもらっている(例えば顔がタイプでとかで)」と言い換えても同様だ。
冒頭に、好き嫌いを(個人的な)良い、悪いに置き換えても同様だと言ったのは、私の言う、良い、悪いは、そもそもそこに好き、嫌いの感情が含まれるものだからだ。
少なくとも私の場合は。
そんなことでで、多少悪いところがあってもお世話になっている人ならば、”良い”に分別してしまう。
つまり、良い悪いの判断が人とのそれまでの関わりによって変わってしまうわけだ。
義理と人情によって良し悪しが変わると言ってもいいのだろう。
お世話になった人が、悪い人であるわけがない→信じられない、信じたくない。
お世話になった人を悪くは言いたくない。
そんな感情が当たり前に働いて・・・。
つまり、人に義理と人情がある限り、人によって良し悪しが変わる。
これが高じて、例えば、同じことをしても身内だったら”良い”に分別できるが、身内でないだけで”悪い”に分別することになったりする。
これが、いわゆるダブルスタンダードという悪しき呼ばれのものだ。
義理人情とは、日本の社会と文化に根ざした習俗であって、それがダブルスタンダードを後押ししている。
ダブルスタンダードを避けるには、人間らしい義理人情を逆に抑制する習慣が必要になるということのようだ。
義理人情が、良し悪しの判断について一本筋を通すことを妨害してくるのだから、筋を通せる人なんてよっぽどでないと現れないものだ、と認識した方が良さそうに思う。
いっその事、義理人情をなくしてしまったらいいのではないか?
そう言ってみたものの、そうなると多分気が詰まるような殺伐した社会になり、たぶん私は好きではないだろう。
義理人情は人間らしさなのだから・・・。
ということで、義理人情は必要だが厄介でもある。
とするならば、ここについてもまさに、義理人情と不義理不人情のダブルスタンダードが必要だ、ということに着地する。
ダブルスタンダードが人間らしさであって、当たり前にあるもの、付き合っていく必要がある。
だから、
「(人の)ダブルスタンダードを見つけた!」
などとあたかも不正を見つけたかのように、ダブルスタンダードに一喜一憂するべきものではない。
ダブルスタンダードが人としてスタンダードなのだ。笑。
その人の背景からどこにどんな義理人情が働いているのかを探る癖をつける。
そして、その義理人情とダブルスタンダードを理解して放置する。
また、必要な場面にダブルスタンダードを是正していく。
そんなスタンスがよいのではないか?
そんな風に思うのだ。
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さて、今回はウソかホントか、から始まって、自分のダブルスタンダードまでたどり着いたわけなのだが、なぜ、こんなことようなことを自分は四の五と書いてきたのだろうか?
昨今、社会がとりわけ正しくあること求められるようになっている感じがして、それはそれで良いのだが、それが行き過ぎると人間性が失われるのではないか?
そんなことの懸念が私の中に沸々していたからなのだ!
・・・・・
いや、ウソをつきました。
ホントはそんなたいそうなものではなくて、自分のダブルスタンダードをそのままやらせてくれー!って、自分の自由を守るための言い訳を作っただけ・・・。
相変わらず自由を目指す私という者はワガママなものだ。汗。笑。
UnsplashのCall Me Fredが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
最後のウソとホント、これもどっちなのかわからなくなった、というのが正直あります。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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