私が東京から移住したい理由。
東京在住が人生で最も長くなってから久しい。
東京にはその便利さを含め、魅力がたくさんあるのだが、その反面、地価の高さ、異常な通勤混雑、異常な通勤時間などの、大変な面があることも周知のことではある。
東京から移住したいという私の気持ちは、何も今に始まったことではない。
時々、地方に旅に出ては、自然の素晴らしさを感じてきた。
今回、紅葉の京都を約40年ぶりに訪れたことが、自分の中に蓄積されていたいろいろな思いとつながって、移住したいという気持ちが今、高ぶっている。
そもそも、隣の芝生は青く見えるものだ。
私が東京に住んでいながら、東京の繁華街に最近出ていなかったから、そこに対する新鮮さも加わっている。
さらに紅葉の鮮やかさが評価を上乗せしていて、これらが過剰に組み合わさってしまっている。
相手のどの部分を見ても好きだと感じる、といった初期段階の恋愛のように、バランスが壊れた状態のようである。
そんなだから、かなり偏った評価になることは必至なのだが、あえてこの高ぶって偏った状態で東京と京都を比較してみたい。
ここからの内容は、私のいくつかの体験から直観的に感じたことであって、そこには妄想も含まれるのだが、その点をご容赦いただきたい。
コンクリートから脱出して土の上を歩きたい
私は、ここ数年頻繁に近所をウォーキングしているのだが、今年10年ぶりに山歩きが実現した。
山は高低差がキツイから避けようとしそうなものなのだが、なぜだかリピートするようになった。
よくわからないが、木々の多い公園だとしてもどうもアスファルトの上を歩くことでは物足りない。
うまく言えないが、アスファルトの上では快感がない。
頭では理由わからない、この感覚、これがフィトンチッドによる癒しなのかもしれない。
自宅から一番近い登山道(未舗装道)を探してみると、都内だと高尾山、神奈川の厚木、千葉の房総、埼玉の飯能、茨城の筑波山付近などが挙がる。
しかし、これらはどこも自宅から70㎞は超えてしまう。
そこと行き来するには行きも帰りも渋滞を数十キロ越えていかないとならない。
片道2時間以上かかってしまうこともある。
それを避けるには朝4時起きが必要になる。
たかだか土の上を歩くということが大イベントになる。
毎週、コンクリート製の東京から脱出するために多大なエネルギーを要する。
(もちろん東京でも場所によるが。)
この状態が普通になってしまっている自分でホントにいいのだろうか?
これを京都にあてはめて見てみると、京都駅から10㎞ほど移動するかしないか、車でも電車でもわずか30分強で、土の道に到着できる。
四方山に囲まれているから、どの方角でも土の道は選び放題である。
今回は、京都で叡山電車に乗って鞍馬駅まで、鞍馬寺から貴船神社の山を歩くことから始めてみた。
叡山電車で隣の大先輩と一言だけ言葉を交わした。
「どちらまでですか?」
「どちらも何も目的ないですわ。行き当たりバッタリで。宮崎から来たんですわ。(紅葉を見て)キレイですなあ。」
「そうですねえ。」
京都に限らないが、この距離感が東京以外の地方のおおよそ当たり前である。
人生の時間が短くなってくると、この脱出時間が余計に貴重だと感じるようになる。
余裕、遊びなどの豊かさを感じたい
京都のカプセルホテルのフロントで感じたこと。
このカプセルホテルは、単価が安くて客数を増やして稼ぐタイプのビジネスに分類されるのだろう。
このタイプのサービスを利用させてもらった時に必ず感じるのは、自分が物として扱われるような感覚だ。
例えば、ホテルの説明がマニュアルを淡々と読み上げるようなことになり、こちらの理解に合わせていくような間がない。
その伝え方もノルマを嫌々こなすように生気がなく、伝えようという意欲が失われている。
最後の「何か不明点はありますか?」という言葉が、「わかったでしょ?」に聴こえてくる。
質問をした時の回答の反応も悪い。
その質問の意味を一回で理解してもらえない。
かみ合わずに再確認するやりとりが発生してしまう。
質問が事前想定されていない。
同じ質問をされた経験があるはずなのになぜ?と思ってしまう。
京都のカプセルホテルのフロントは、その予想を裏切り、意外にも普通の人間扱いをしてくれた。
質問への回答も一発で通じて、普通のコミュニケーションができた。
この”普通”を感じて、その”普通”に驚くような感覚は、東京から旅に出た時によく出会う感覚だ。
逆に見ると普通じゃないのが東京なのだろう。
この違いはどこからくるのか?
ひとつに、お客さんの数によると思う。
常に待ち行列が発生する場合に、人間同士の会話という悠長なものが許されない。
「はい、次、はい、次・・・」という具合に事務的な最低限の対応になる。
その店員さんが悪いわけではない。
人の多い都市においては、この物扱いのような対応がセットになっていることを覚悟しないといけない、ということだ。
もうひとつに、合理性の追求、効率性の追求の程度によるものだと思う。
これらは、あくなき利益の追求という目的に直結する。
東京という場所は、言わずもがな地代が高い。
だからそこに住むために従業員給与水準の高さも必要になる。
店舗を運営するコストが高くつく。
その一方で、例えばカプセルホテルを利用するのに支払える金額の相場は、東京でも他の都市でもあまり変わらないし、東京では他店との競争も激しいから、簡単に単価は上げられない。
そんな難しい条件において、リーズナブルな商品、サービスを提供する商売の場合には、特に、数を稼がないと利益が出づらくなる。
よって、従業員のシフト人数の制限をはじめとして、あらゆる合理化が進む。
お客にお愛想をふりまく時間が存在するのなら、そこに別の業務が埋めこまれる。
お客からよく出る質問は張り紙にして、質問をされないように改善されていく。
お客の多い東京のピークに合わせて、従業員を増員するなどと言った非合理なことは残念ながら、選択されない。
こうして、従業員の時間の中に、多くの業務が刻み込まれ、息をつく暇がないほどになり、当然ながらお客との会話など不可能という状態にまで追い込まれる。
それがある従業員にとってどんなに過酷なものでも、人の多い東京は替えの従業員がたくさん控えているから、経営者の合理化はどこまでも進む。
超過労働をさせるブラック企業があるが、労働時間の問題だけでなく、同じ時間の中に刻み込まれた業務の中身にも、ブラック性が存在する。
店舗は、このような努力をして東京の高い地代を何とかカバーして利益を出せるようになる。
一方、お客の方はその環境に働いている従業員の一挙手一投足を見て、何かを感じとってしまう。
どんなものを感じとってもリーズナブルに宿泊できれば、それでいいのかもしれない。
ただ、京都のカプセルホテルのフロントの対応で、何かの”普通”という感覚、快適さを私は感じた。
東京以外の都市では、これらの人の多さ、競争度合、利益追求度合より、この余裕、あるいは、遊びの部分が勝っていて、心が喜ぶのだ。
この余裕度は、路上駐車した時に駐禁を取られるまでの時間に比例すると思う。
東京では、テイクアウトのために路上駐車した時に、料理ができるまで待つドキドキ感が半端ない。
このようないろいろな世知辛さによって精神が削られるのが東京である。笑。
ここから派生して、今回京都をご案内いただいたご夫婦の話。
(東京の環境が、利益追求の度合を進ませる、という私への同意に続いて・・・)
「でも、東京も京都も利益追求しないといけないのは同様であって、それは利益追求のあり方の違いにあるんではないかと思うんです。
どの期間で利益を出そうとするか?というスパンの問題です。
今の瞬間、利益を出そうとするか、5年、10年で利益を出そうとするのか?の違いですね。」
確かにそうだ。
短期の利益のために、目いっぱいのオペレーションを設定し、それを人をとっかえひっかえして、自転車操業でずーっと続けていく企業が多いのかもしれない。
目いっぱいのオペレーションを前提としなあと、利益が出ないビジネスモデルも存在しているかもしれない。
「企業で言うと、四半期決算というようなものが、社会全体を短期的な目線にしてますね。
株主も長期的な目線から、とにかく目先の利益が欲しい、という短期的なものになっているから、企業も四半期での利益を気にするようにならざるを得ない。
ソニーなどの大手優良企業も井深さんの時代には、長いスパンで自由に考え、新たな発想を生み出してきたのですが、今は変わって苦しんでいるようですね。今も新しい発想を・・・という掛け声はいいのですが、四半期決算というしくみの中ではやはり無理があります。
世の中は、四半期決算というしくみにやられている、ということなんだと思います。」
日本は創業100年以上の企業が約33,000社、創業200年以上の企業が約1,300社あって世界1位だという。
日本という国は、もともと長期目線を持っていたのだが、この西洋から入ってきた”四半期決算ワールド”に浸食されて、大手企業ではCEOが四半期の評価におののき、豊かさも発想力も失ってきている、という見方は妙に納得するものだった。
1980年代に見ていたアメリカのドラマが思い出される。
ホットドック販売店の店員が、ホットドックを作ることに全く面白みを持たずに、嫌々に、緩慢に仕事をこなすシーンだ。
なぜもっとはつらつと動かないのか?
この仕事をする人生は苦しいのだろうか?
それでいて、店員はよーく太っている。
その頃、自分の周りに見る日本の店員にはそんな様子は見られなかった。
はつらつと勤勉に働いていた。
これはホットドック店の店員に限らず、いろいろなお店のシーンで感じられたものだ。
アメリカはなぜそうなのか?
日本はそうならないから素晴らしいなあ。
それから時が流れて、日本の店員にもそういう様子が見受けられるようになった。
このコラムの内容は、まさにこの”四半期決算ワールド”が浸食した社会の一場面を表したものだったのだ、と今につながった。
短期的な合理性の追求が、従業員の余裕と遊びをなくし、お客である私にとっては豊かさが感じられなくなっている。
勝手なことを言わせてもらうが、私は余裕と遊びのある場所に住みたい。
会話を愉しみたい
ここからは、京都訪問で出会った印象深い何人かを紹介したい。
(サウナの熱波師さん)
サウナ室では15名ほどが熱波師から熱波を浴びていた。
※熱波師・・・サウナ室のストーンにアロマ水などをかけることで蒸気を起こし、大型タオルで高温の蒸気をあおぐサービスを行う人。
ここでも意外に感じたことがあった。
熱波による熱さで、ひとり、また、ひとりとサウナ室を退出していくのだが、その熱波師はひとりが出ていく度に「おおきに!」と声をかけていた。
おおよそ、15回声をかけたことになる。
この灼熱下での重労働中の、ひと手間がすごく新鮮だった。
先ほどと同様に物扱いされていないとも感じた。
熱波師に後で話しかけると、彼は、熱波師としては日本最高齢の73歳だった。
今でも1日3回熱波を提供している。
他にもいろいろなサウナ話をしてくれた。
(お蕎麦屋さんの店員さん)
錦市場の中の蕎麦屋さんで蕎麦を食べていて意外に感じたことは、先ほど振った七味が効いている、ということだった。
何とも言えない旨味、そこはかとない辛みが非常に美味しい。
東京で感じたことはない味であって、私の人生で七味をこれほど美味いと思ったのも初めてだった。
見かけは普通の缶に入った東京のものと何ら変わらないものだったのだが。
店員さんに訊いてみると、これもまた意外で、七味についていろいろ話してくれた。
「これは、七味家本舗さんのものらしいんで、私も買って食べてみたんだけど、どうも違う。おかみが何か他のものと混ぜているんではないかと思うんですよ。わからんけど。」
かなり詳しく話してもらったのだが、まとめるとこのような内容だった。
繁華街のど真ん中のお店とはいえ、天ぷらそばが880円というリーズナブルで飾り気のないお店において、主役になりようがない七味にこれほどのこだわりをもっている、ということに驚きがあった。
京都には七味の有名専門店が、この七味屋本舗さん(東京の百貨店でも取扱いがある)や原了郭さんなどいくつかあることがわかった。
「七味というものの発祥は江戸時代の両国になるらしいのですが、七味は京都の出汁文化と融合して発展してきたのでしょうね。」
と、ご夫婦が後日情報を送ってくれた。
一方の東京の濃い出汁では、七味は二の次でもいいということになった可能性があるように感じる。
東京の地代に耐えなければならない東京の蕎麦屋さんは七味なんかにお金をかけられない、という事情もあるのではないだろうか。
こちらも合理性の追求の結果である。
(祇園四条駅の案内所の方)
「この祇園四条駅のあたりで京都駅行きのバス停はありますか?」
と私が案内所の方に訊いた時に返ってきた言葉がこちら。
「この四条駅にはありませんねん。橋を渡って少し歩いた先の高島屋のところになります。」
この言葉にも意外さが感じられた。
合理的に言えば、「橋を渡って少し歩いた先の高島屋のところになります。」でよいわけで、「この四条駅にはありません。」は要らない。
合理的な東京であれば無駄な言葉だと判断されそうなものなのだが、「バス停が四条駅に当たり前にあるだろう、あるいは、あって欲しい」と思っている私に配慮して、一旦慰めてくれている言葉のように感じた。
その手間、東京における無駄?によって、そこはかと温かく丁寧に扱われた感覚が残った。
私は「おおきに!」「七味」「ありませんねん」に豊かさを感じたのだが、それと同時に、このお三方を見て京都の人に感じたことがある。
京都の方は、いつでもどこにいてもお客さんと何某かの会話することが当たり前で、会話しようというスタンスにある、ということだ。
常に会話する臨戦態勢にあり、前のめり状態にある。
これは、観光都市としては当たり前の接客スタンス、おもてなしが多くの京都の人に自然に備わっている、ということなのだと感じた。
こんな京都ならば、ひとり旅でも一切の孤独と不安を感じることがなく愉しめる。
そして、京都の歴史に紐づいた京都人のプライドから、京都人たるものはこうあるべきというコンセンサスがあり、アイデンティティーが構築されているのでは?とも思った。
また、京都の街は、とにかく見ごたえがある。
景観を壊さないように条例が制定されていると聞くのだが、そこにも京都人のアイデンティティーが備わっていると感じる。
商店街にある古風な街灯をそこに付けよう、とする判断はどのようにされるものだろうか?
そのアイデンティティーゆえに合意形成が比較的簡単なのではないだろうか?
京都はこうあるべきだろう、というものが京都の方の根底に流れている。
これが沁みついた方々との会話は愉しいもので、人生が豊かになると感じる。
これに対して、東京というところは、合理性によって必要最低限の言葉しか交わさない。
会話することが前提という文化ではないように思う。
しゃべり過ぎると相手に悪い、とも思う。
不要な会話で相手の時間を奪ってしまうと、その間に、車が駐禁を切られてしまう、というような。笑
何かに急きたてられている感覚。
そして、京都人のような東京人共通のアイデンティティーがあるだろうか。
東京は広すぎるし、7割が地方出身者だとも聞く。
東京人に東京人がこうあるべき、というアイデンティティーがあるとすればそれは何なのだろうか?
厳しい環境の中、合理的に効率的にスマートに競争に負けないように生きる、ということだろうか?
東京の人は、誰かから言われているわけではないのだが、見えない東京人というものへの追随を常に迫られている気がする。
最後に
以上が今回の京都訪問に感じた、東京から移住したい理由だ。
自然、余裕、遊び、会話のもつ「豊かさ」。
これに魅力を感じて、これを求めているようだ。
今回は、東京の良さを棚上げにして書いている。
東京にも様々な地域があるし、たくさんのコミュニティーがある。
東京にも自然、余裕、遊び、会話による豊かさももちろんあるだろう。
京都でも移住者もいるし、このようなアイデンティティーが一律であることを確認のしようもない。
だから、ここで書いたような特徴は当てはまらないことも多いと思う。
しかし、大きな括りでながめた場合に、東京の地代の高さ、京都の観光要素などの環境がそこに住む人に与える部分は計り知れない。
人間は環境に適応して生きるものである。
東京の醸し出す雰囲気や京都の醸し出す雰囲気は、その環境により自然に出来上がっている。
東京に住むということは、その厳しい環境に適応する必要があるということだ。
東京の人が利益追求する性格なのではなく、環境によって利益追求を加速させられてしまう。
その負荷によって、頭の回転が速くなり、知恵を産みだす、といういい面もある。
一方で、それによって不快を感じて精神をすり減らす要素にもなる。
今回は、京都のその環境によって作られたにじみ出るような豊かさを感じ、その理由を考えてみて自分なりに納得した。
どのタイミングで東京から移住するのか?この高ぶりを一旦覚ましてから、また感じてみたいと思う。
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【著者プロフィール】
RYO SASAKI
記事には書き切れませんでしたが、もっとたくさんの京都の方と話すことができました。大変感じるところが多い、愉しい京都訪問でした。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
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