クリシュナムルティにやっと共感できた。私は探求する人に魅了される。

ワイン専門の角打ちで立ち飲みをしていた時、ワインを買いに来ただけの男性が、こちら側の「美味しいね」という言葉に釣られるようにして、私の隣で一杯やることになった。
その男性と話しをしていて、私は男性のこの一言に興味を引いた。
「ワインというのは、生産されたある地域を格付けしてたりするんですが、地域の中もバラつきがあるものだろうから、それよりもドイツなんかで採用されている糖度による分類の方がよっぽど理にかなっていると思うんですよね。」
この人はワインに詳しい人ではないんだろう・・・
理系ぽいな・・・
自分なりに疑う人なんだな・・・
私の頭にいろいろな思いが浮かんでくる。
「全然詳しいわけではないんですけど・・・・」
と、その男性はその後に謙虚に加え、予想は当たったように思えた。
私が詳しい人ではないと思ったのは、ワインに詳しい人はワイン学なるものの修得単位にはないこと、あるいは修得事項にアンチなことは敢えて言わないと思ったからだ。
私は、この男性の言った内容が、同じく詳しくない私がよく言うような類のことであって、ワインの修得事項の外のものだと勝手に判断したわけだ。笑。
さて、只今私は「人との出会いに意味付けする」強化月間中(笑)。その背景は前回ブログ参照。
後日、この男性との出会いに意味付けをしようとして、なぜこの男性の話に興味が湧いたのか?自分の内面を見つめてみることにした。
すると、自分が好きなワインのことを講座に入って学ぶことを頑なに拒んでいる(いろいろな人から、おすすめいただくのだが)のはなぜなのか?
その理由が鮮明になったり、それが「自分が理解する」ということはどういう意味合いなのか?というところにまで及び、そのためには「探求」というものが不可欠であるという、自分なりの一旦の納得が得られるまでに至った。
クリシュナムルティに共感する
その数日前、たまたまクリシュナムルティの動画のサムネが私の目に止まっていた。
クリシュナムルティは、インドの宗教的哲人と言われるらしい。
ずいぶん前に一冊だけ本を読んだことがあったことを思い出した。
「(物事を)あるがままに見よ!」
という言葉が有名だが、それがどういう意味のことなのか当時は全くわかっていなかった。
この言葉に限らず、当時はすべてにおいて頭でわかっただけ。
それは穴埋めテストに答えられる程度の理解とでも言おうか・・・。
ところが今読み返してみると、いろんなセンテンスがそこここで光って、何なら目次だけで言っている意味合いがわかったような気にすらなっていることに気づく。
真理は道なき地にあります。
権威は最も破壊的なものです。なぜなら、権威の下では、あなたは単に繰り返し、模倣し、従うだけになるからです。そこには創造性も、自由も、真の理解もありません。
条件づけられた心は自由ではありません。それは過去の経験、知識、伝統の囚人です。そのような心は、現実をあるがままに見ることができません。それは常に過去の投影を通して現在を見ているのです。
私の言うことを信じないでください。自分自身で探求してください。
どれもが、今の私が納得する言葉だ。
当時は納得が全くなかったから、クリシュナムルティってこんな人だったのかぁ、と今頃になって新鮮だ。汗。
これら、光る言葉の「真理は道なき地にある」という言葉が、まず初めに私が最初に起こしたであろう最大の勘違いを目覚めさせてくれるものだ。
学校が小→中→高とカリキュラムに沿って学んでいくようにできているものだから、何でもこのようにして修得していくものなのだ。
必要な学問というものは知識をある段階に沿って獲得するものだという常識が出来上がってしまったのだ。
でも少なくとも真理という奴は、それがピンとこなければ人生そのものと置き換えてもいいように思うが、自分が探求して自分の内面に見出すもので、その探求の道は人それぞれのもの。
正解のカリキュラムがあるわけではないのだ。
ある専門家になるには、あるいは資格を取るにはカリキュラムがあるかもしれないが、人はその専門家、資格だけでは満足しないようにできている、と言い換えた方がいいかもしれない。
次に、その人なりの探求に対して権威が足枷になり、社会、文化、教育によって条件づけられた思考パターンも足枷になるということ。
だからクリシュナムルティは、教団を作ることをしなかった。
既成の教義、既成の組織、既成の文化、これらすべてに乗っかることは一方で非常に人を楽にしてくれるものではあるのだが・・・。
やはり、楽なものには裏がある。
なんとも巧くできているものだ。
楽への依存は、本来の自由と創造を奪うことになってしまう。
理解するのではなく共感する
今回、クリシュナムルティの言葉のあちこちが、やたらと光ったわけなのだが・・・。
そもそも光るっていうのは何か?
それはある種の「共感」であることに気づく。
とすると「光る」というのと、例えばテストに出るからマーカーする=「光らせる」のでは、全く別のものであることがまたわかる。
既に自分の内面にあったものに、クリシュナムルティが同じようなことを言っている!と感じている、ということ。
※上手い言葉だなあ!と感心することとセットではあるのだが。
やはり、理解というものは自分の内面にあり、外のものと共感することで内面に理解があったことに気づき、内面の理解が外の言葉と結びついて確信に至る、というものなのだろう。
だから、そもそも内面にないものに本当の理解はないないのだ。
では、外と共感する内面はどうやってできるのか?
それは自分の日常で引っかかること、感情が動くことを題材として、その意味を日々探求するしかない。
探求することで、内面に種が発芽していって、それと偉人の名言が共感によって結ばれ、理解という鮮やかな花が見える、とでも言ったらいいか・・・。
内面の探求なくして理解はない、そんな風に感じる。
探求する人に魅了される
今回はなんとも都合よく、クリシュナムルティの言葉が冒頭の男性に反応した自分とつながって、自分の言葉にできた(=自分なりの理解ができた)ように思う。
「ワインというのは、生産されたある地域を格付けしてたりするんですが、地域の中もバラつきがあるものだろうから、それよりもドイツなんかで採用されている糖度による分類の方がよっぽど理にかなっていると思うんですよね。」
という男性の言葉に、私は既成の教義を疑い、既成の教義に依存しない自由の探求を見たのだ。(←ずいぶん大げさでこんな言葉が出る自分に自分が引き気味ではあるが。汗)
詳しい人は、既成の教義の記憶に注力するから、それ以外のことに気が回らなくなるものだ、あくまでも一般的には。
私はこの男性の自由の探求に詳しくないであろうということを見てとった。
そして、自分がワインの講座を受けない理由もここにあったことがわかった。
自由な探求に対して不自由になりそうだから。←ずいぶんかっこいい。笑。
でも本当の探求とは、教義を修得した上でその教義を疑って、教義を手放すことでより深まるものなのだろう。
それが頭ではわかっていてもワイン講座を受けない。
本当はただの物臭、講座という決まった時間に縛られるのが面倒くさいだけなのに、探求が不自由になるから、というもっともらしいものを持ってきて盾にしているのかもしれない。
私はところどころずるい。
あるいは、講座を学ぶとその教義に従順になる自分がいて、そんな昔の自分の像にトラウマがあるから、心のどこかが嫌がって敬遠のかもしれない。
私はあちこちが弱い。
まあ、それはともかくとして、世の中には自分で探求したり、既成のものを疑ったりしたことを忌憚なく話してれる人がいて、一方では既成の知識だけを話す博識な人がいる。
最近の私は、出会った人と会話する時に知らず知らずのうちにこのタイプを早いうちに見極めているようで・・・。
そして、自身の探求を話してくれる人に対しては、その中身をより深く聞き出そうとしている。
社会、教義、文化、組織への依存度が低く、自分で探求している人に私は何とも惹かれるのだ。
既成の知識を話すだけの人は、自分にとってはどこか退屈で、時に私のトンチンカンな素人質問によって、その人がシンドくなっているように感じることがある。
もしかしたら、このシンドさはそこにクリシュナムルティのいう経験、知識、伝統という牢獄が見えるからなのかもしれない。
とにかく、私はこれからも探求する人に魅了されていきたいものだと思う。
忘れていたが、冒頭の探求する男性と私は2軒目にハシゴしていた。
こんな風に言葉になる前に、既に本能は発動していたようだ。
UnsplashのThe Cleveland Museum of Artが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
社会、教義、文化、組織、それらは豊かな生活をもたらしてくれる必要不可欠なものです。
その必要不可欠なものが自由への足枷になるという何とも皮肉な構造。
そんな難しくて面白い世の中は、飽きることがないですね。
80年くらいではとても味わい尽くせないように思います。笑。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
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