RYO SASAKI

世の中に折りたたまれているものを感じて愛でる。そうして私は変態していきたい。

タナカ シンゴ

一般的に赤ワインは肉料理に合うと言われるが、それに物申すというお店に出会った。

ナチュラルワイン 森と土 さん

こちらのお店は、赤ワインは強いからどんな食べ物の味も消してしまって、食べ物と一緒にするにはふさわしくないという。

お店で、餃子と2種類の白ワインを飲み合わせてみると、白ワインですら一方が餃子の味を消してしまって、一方は餃子の味を消さない、ということが確かに確認できて納得するに至る。

これはたぶんソムリエ協会の教えるマリアージュとは異なる考え方であって、素人の私がこれについてどうのこうの言える話ではないのだが、感覚の細かさの違いなのではないかとかろうじて理屈をつけてみたりしてみる。

そういえば、一般的に「〇〇をワインで流し込む」というが本当にそうしているのだろうか?

私の場合、食べ物を飲み込んでからワインを口に含むことが多いように思う。

この場合に、食べ物の味をワインが消してしまうということはない。

口の中に残った美味しさの残像をワインが消してしまうかもしれないが、それはそれでリセットされて気持ちいいから美味しいの中に含まれるのかもしれない。

しかしもし、表現通りに食べ物をワインで流し込んでいるならば、赤ワインによって肉の味が消されて100%は肉が味合わえずに終わっていると言えるのだろう。

そもそもそんな事以前に食べ物を噛んで味わっているのか?

ただ満腹にするために飲み込んでいるだけなのではないのか?

そんなことすら考え出してしまった。

ちなみに、福井の黒龍は食べ物の味を消さない日本酒として造られたらしく、私の舌でも確かにそれが感じられた。

この不思議で新鮮な感覚を味わいながら、「店長、変態ですね!(もちろんいろいろ会話したつながりでコッソリといれた言葉)」と伝えると、まんざらでもないようで苦笑いしてくれた。

そう、これからは変態の時代なのだ、と私はこの言葉を非常にいい意味で前向きに捉えている。

誰もしないような誰にも見えない隠れた細部を感じて愛でて生きる、という個性の時代だ。

そんな風に思っている私なのにもかかわらず、私はこのような感覚の細かさに気が付けなくて、それでも言われると感じられたりもするようだ。

五感を持っている人間が、感じているのに気づかないのはなぜなのだろうか?

私は変態になれるのだろうか?そこが無性に気になり始めてしまった。

鈍感な私

以前、鈍感力について記事を書いたことがあった。

その時は誹謗中傷などが表面化しやすい社会を渡っていくには、無視したり鈍感になったりする必要がある、という内容だったと思う。

これに対してある人からは、人はそもそもかなり鈍感にできていると思う、という反応をもらった。

人の変化にも世の中の変化にも気が付かないまま自分のことで精一杯で生きているというのだ。

私なんかは髪を切った女性にすら気が付かなかったりもする。

確かにそうなのかもしれないと思った。

人は、多くのことに気づかないのにもかかわらず、周りの一言が気になって忘れられずに相手を恨み、自分を傷つき続ける、ということがあったりするものだ。

そもそも鈍感な私なんかが、この一点に対しての敏感さで苦しんだことを取り上げてきて、更に鈍感になろう!などとすることは、都合が良すぎて不届き千万のようにすら思える。笑

ところで、私はいい年になるまで、写真家という職業の意義がわからなかった。

正当化のために主張するとすれば、写真より目で見た方が鮮明だし、動画の方が臨場感があるだろう、というくらいのものだったのだが・・・。

歳を重ねてからやっとわかったことは「切り取る」ということの意義だった。

写真には、流れる時間を切り取って静止させて味わうという意義があるのだ。

ある瞬間に気がついてそれを静止させなければすべてのものは流れ去っていくから、何の印象も残らず何も感じることができない。

絵画も俳句や短歌も、場合によっては歌や踊り、日記に至るまで瞬間のある対象を切り取る行為なのだと思った。

切り取って愛でる、あるいは考えるのが生きる豊かさであり生きる幸せであるといえる。

私は、それに気づかずに切り取らずにずーっと流れて生きてきたようだ。

これが鈍感と言われるゆえんであり、子供の頃から注意散漫と言われてきた私の真骨頂とも言えるのだろう。

なぜ切り取ってこなかったんだろうか?

集中と切り取り

切り取ってこなかったのは、単純に別のことに夢中になっていたということなのだろうと思う。

頭の中は、今日の仕事の段取りのこと、今年の収益予想のこと、昼食に食べるもののこと、夏休みの予定のこと、移動中は目的地についてからのこと・・・。

私の頭の中では、常に目的があってその目的に向かって思考している。

この時の私は、目的に対して集中しているのだとも言える。

目的に向かって時間を使わないともったいないとして、それに関係がないことには興味がない。

だから私は目的に向かっている時は、よっぽどのハプニングが起きない限り、周りに見えることを切り取ることはしてこなかった。

考え事しながら、あるいは何かの打ち合わせをしながら食べる食事は、ゆっくりと時間をかけて胃に入っていくから、健康にはいいかもしれないが、味に気が回らないものだ。

この食事中の打ち合わせのように私の場合は、限られた目的に集中していたから、他の事に対して散漫になっていた、そんな風に思う。

一般的には狭いところだけで生きるのか、広いところを見て生きるのか、の違いと言えるだけのものなのかもしれない。

一度にひとつのことしか考えることはできないから、自分が特定なことに集中すれば、周りの他のことはおろそかになるのは必然で、両取りは難しい。

さて、切り取って愛でることは幸せなことと言ったが、一方では目的に向かって一つに集中していることも幸せである(特に好きなことに集中している時には・・・)し、それによって目的が達成されることも幸せだろう。

だから、切り取れなかった自分のここまでが何か悪かったということではなくて、人生にはいろいろな幸せの形があって、これがいいということがあるわけではなく、有限な時間をどこに使うのか?で個性が出てくるのだと自分を納得させてみるのだ。

さて、これで納得してしまっていいのか?

目的に向かって集中する幸せと、広く感じて切り取って愛でる幸せを両取りすることはできないだろうか?

そう思った時に、目的について考えることを止める、ということを思いついた。

そして、うつの人に多いと言われる、思考の反復、いわゆる反芻思考というものを止めるということ。

一つのことに集中していると言っても、ぐるぐると同じところにいてはもったいないわけだ。

同じテーマでも少しずつ前進する、あるいは一定のところで切り上げることが必要だとか思った。

私には、何かの目的を達成しようとした時に、AをすればBが成り立たないのにもかかわらず、どちらも捨てることが出来ずに反芻思考をしていた記憶がある。

ある部分を捨てる決断をして前に進み、目的に向かう時間をカットして浮いた時間をまた別の関係のない切り取って愛でる時間に当てることはできるのだろうと思えてくるのだ。

これは目的のために有効な時間を更に増やすというのではなくて、目的のために費やす時間を制限する、というある意味、理屈が通らないような方法だ。

目的のためにすべてを注いでいる人々からみると、非常に甘い考えと言われることなのかもしれない。

それでもバランスの悪いと思えている私にとってはこのことがよりベターな生き方なのだと今になって思えてくるのだ。

限られたスペースだけを使って目的を目指し、それ以外は他のことも味わおうという都合のいい目論見だ。

100%を明確な目的の達成のために注がないようにして生きる。

特定の目的に向かう幸せと目的がはっきりしてはいないが、ただ発見して感じる幸せの両方を味わう、それで納得するというところに人生はあると思えるようになったのだ。

頭で設計する目的の実現とそれではない偶然による出会いによるもの、とでも言ったらいいだろうか。

このように思えるのは、私の人生の目的が明確に表せるようないくつかのものだけではなくて、明確に言い表せないが求めている何かがどこかに別にあって、それによって動かされるものがあるからなのかもしれない。

四の五の言っていて、とてもうまく伝えられているとは思えない。

申し訳ない。

社会が豊かになっていくとしたら変態できる

世の中というものは、私なんかが全く気づかないものが折りたたまれて充満しているものなのだ。

そんな風に見えてくる。

折りたたまれているという言葉は、見えているものが言葉や絵や音楽などに表現された時に気づいて理解されるというような意味合いで使っている。

例えば、今回のワインと一緒に食べる物の味が消されるといったような繊細な味覚のことが折りたたまれている。

流れる現実の中に、写真にふさわしい美しい景色が折りたたまれていて、人の一瞬の感情、笑顔、髪型などもまた折りたたまれている。

急に次元は変わるのだが、宇宙の約95パーセントは未知なるもので占められている、とも言われる。(ダークマター

世の中は見えない物だらけである。

たとえ見えたとしても表現されないから気が付かないものだらけである。

そうだからこそ「忙しい」に心を亡くさずに余裕をもって、本来の感覚を発動させる。

そうすることでやっと切り取って表現によって愛でることができるのだ。

このようにして切り取って堪能できる世界が果てしなく広がっている。

自分の目的を求める合間に、しっかりと世界を堪能するスペースを持ちたいものだ。

私は、これからも誰しもが安全安心に生きられる社会を期待している。

そうなるならば、私が望む折りたたまれたものを感じる時間を持つということがもっと自由にできるようになると思う。

折りたたまれているものは、多くの人にとってはどうでもいいようなことかもしれないし、細かくてニッチなものであるかもしれないのだが、自分にとっては新鮮な発見ができるだろうと思う。

それは、自分が好きなことをして生きていける社会の実現につながっていくだろう。

私は、自分の気になることに計算なく進んでいき、人には見向きもされないニッチなことを発見する何者かに、変態(メタモルフォーゼ)したい、そしてワイン店長に追随したい、今そういう野望を抱えている。

Photo by Matthieu Joannon on Unsplash

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

先日お会いした先輩は、登山が好きでよく縦走をしている人なのですが、彼はお母さんから、「あんたは、父親のように真面目に働かないから、父親と違って長生きするだろうね。」と常々言われていると笑いながら言ってました。

人生とは何なのか?ハッとする言葉でした。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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