「人の作っているもの」に興味があり、「AIが作っているもの」にも興味があるという話。
以前どこかの記事でも書いたことがあることなのだが、私はスタジオジブリのプロデューサーの鈴木敏夫さんの発信や、鈴木さんのお弟子さんにあたる石井朋彦さんの発信を昔からちょこちょこチェックしている。
最近目を通した以下の記事もその一環だ。
スタジオジブリ鈴木敏夫が語る“3人の監督”の「決定的な違い」《宮﨑駿は「映画を観ない」》《押井守は「正直者」》《高畑勲は「やってはいけない」をやる》
この記事では、鈴木さん視点で3名の映画監督についての印象が語られているのだが「宮﨑駿監督が普通の本を読まずに児童書ばかり読んでいる」という話など、個人的には引き込まれる話がとても多かった。
再読したい記事としてしっかりストックしておいたくらいだ。
そして鈴木さんの発言を具に見ていく中で最も私の印象に残った箇所は以下のものだった。
―正直なところ鈴木さんは、押井さんのことをどう思っておられるのでしょうか。
僕ねえ、ある意味、人間に興味ないんですよね。その人の作ったものが好きなんですよ。なんでこの人は、こういうものを作ったんだろうと考えるのがわりと好きなんですよ。
悪いことした人と、探偵や刑事の関係というのか、人のやった犯罪を暴くというのか、調べるのが好きなんでしょうね。僕は押井さんにしても、完全犯罪できない人だなという目で見るんですよ。
―本当に人間に興味がないんですか……?
直接的には興味ないですよ。だって人間そのものと話しても仕方ないもん。作ったものの中に本物があるんです。
だから、作ったものを見ていくと、宮﨑さんはアメリカ好きじゃんと気づく。それは本人と話してるとわからないんですよ。作ったものの中に思わず出ちゃう。作ったものは嘘をつけないんです。多分、犯人捜しが好きなんでしょうね。
作っているものの中に本物がある。
直接的には人に興味がない。
この考え方・姿勢に今の私は妙に引き込まれた。
そして「自分は今までは「人に興味がある」と周囲に言ってきたけど、実は興味があったのは「人の作っているもの」なのかもしれない」という新たな気づきを得るに至った。
というわけで、今回得た気づきから考えたことをここで残しておきたい。
*
私が人から「何に興味があるんですか?」と質問された時の回答の一つとして「人に興味があります」と伝えるようになったのは、昔「田中さんは人に興味があるんですね」と人から言われたのがキッカケである。
昔といっても大昔ではなく、世界に感染症が広がる少し前くらいのことだったと思う。
言われるまではその自覚は全くなかったのだが、その人が比較的影響力のある人物だったというのもあってか、単純に「そうなのか」と思うようになったのだ。
「他人とコミュニケーションを取るのはわりかし好き」という自覚はあったため納得がいったのもある。
この時を境に「何に興味があるんですか?」と人から聞かれたら「人に興味がある」と言うようになった。
そして、この点に関して今日まで特段違和感を持つようなことはなかった。
しかしである。
冒頭の鈴木敏夫さんのインタビュー記事を読み 「自分は今までは人に興味があると周囲に言ってきたが、実は興味があったのは人の作っているものなのかもしれない」という気づきが新たに生まれてきたのだ。
ちゃんと考えてみると私は人の何に興味があるのだろう?
この機会に「人の何に興味があるのか」について自分の考えを掘り下げてみた。
すると大きく以下の2つが顕在化してきた。
その人が考えていること。
その人が取り組んでいること。
考えているからといって取り組んでいるとは限らないということから、興味の対象は二つに別れ、より興味があるのは実際に取り組んでいることの方にある。
というのは、取り組んでいることこそがその人にとって最重要事項なことで、当然ながら考えている時間も多いと思うからだ。
具体的には、町づくりを行っている人であればどのような町づくりに取り組んでいるのか、グラフィックデザイナーの方であればどんな作品づくりに取り組んでいるのか、プログラマーの方であればどんなアプリケーション作成に取り組んでいるのか、という話。
そして、このように自分の考えを掘り下げていった時、それって「人に興味があるというよりも、鈴木さんの言う、人の作っているものに興味があるってことなんじゃないか?」という考えが生まれてきたのだ。
また、作っているものにその人の本物が現れるという話についても、感覚的であるがゆえに今はまだ詳細に言語化するのは難しいのだが、妙にしっくりくるのも感じた。
そんなわけで、冒頭の記事に触れたことを端にして私は「人に興味がある」というところから「人の作っているものに興味がある」に自分の考えを改めてみようと今思っている。
当然「人の作っているものに本物がでる」については、まだ確信とまではいかず仮説の領域は出ない。
ゆえにこの仮説を持ちながら今後の人生を通して検証をしていく次第だ。
*
ここから生成AIにも考えはリンクする。
あらためて言うまでもないが、生成AIが台頭しAIの作ったものが大量に発生する世の中となった。
ここまでの劇的な社会の変化に出くわすとは20代の頃は思いもしなかった。
そして、このような社会になってくると「AIの作っているものに興味がある」と言う人が出てきてもなんらおかしい話ではない。
かくいう私においてはどうか?
その便利さゆえ、日常的にAIを使うようになってもう久しいが、それでも「AIの作っているものに興味がある」とは強くは思わない。
一体なぜなのか?
それは思うに、AIが作った作品には「作品と作家を結びつけるナラティブがない」からかと。
「ナラティブがない」、まあ「物語がない」という意味であり
「演出がない」「意図がない」「方向性がない」
「メッセージがない」ということです。
以下の記事はめちゃくちゃ面白かったので未読だったら是非目を通してみて欲しい。
ここまで思考を掘り下げてきて分かったことは、人の作っているものにはAIにはない「ナラティブ」の存在があり、そこに対して自分は興味があるのだろうということ。
そして、そのナラティブにこそ「その人の本物がでる」ということなのかもしれない?という考えに至っている。
先ほど、AIの作っているものに興味があるとは強くは思わないと述べたばかりだ。
これは逆に言えば少しは興味があるということで、どういうことかと言えば、AIの作っているものを知り理解していくことで、反対に「人の作っているものの中にあるナラティブについての理解が深まっていきそう」に思うからである。
他者を知ることで自分を知っていくように。
30万枚もつくれば私にも何か確信が見えてくるものがあるのかもしれない。
ということで、今回の記事のタイトルでも一枚AIに作らせてみた。
こういう絵がいとも簡単に作れてしまうのは本当に驚くばかりだ。
今回書いておきたかったことはこんなところである。
【著者プロフィールと一言】
著者:田中 新吾
プロジェクトデザイナー|プロジェクト推進支援のハグルマニ代表(https://hagurumani.jp)|タスクシュート(タスクと時間を同時に管理するメソッド)の認定トレーナー|WebメディアRANGERの管理人(https://ranger.blog)|座右の銘は積極的歯車。|ProjectSAU(@projectsau)オーナー。
●X(旧Twitter)田中新吾
●note 田中新吾
生成AIがここまで台頭しなければ、ナラティブの必要性に気づくこともなかったのではないかと今思ったりします。
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