RYO SASAKI

「愛する」ということは技術として修得するものである。

タナカ シンゴ

以前の記事で、空想小説の宇宙の基本法を紹介した。

宇宙の基本法は「愛」。

科学が愛を越えると滅亡する。

『アミ小さな宇宙人』より

愛をトップに据える宇宙人に、なるほどと感心した私だったのだが・・・。

何度も出てくる「愛」というもの、これはどんなものなのだろうか?

ふと、そんな疑問が湧いてきた。

自分はわかっているのだろうか?

私は長く生きているものの、これまで「愛」というものを意識して考えたことはなかった。

ただ「愛」はそこここに存在していて当たり前のものであり、人生に不可欠なもののように漠然と思っていた・・・ような。

歌謡曲に占めるラブソングの割合は40%。

画像

人はもともと「愛」を持って生まれてくるのだろうか?

それとも「愛」は後から学ぶものなのだろうか?

学ぶものだとしたら、私はどこかの学科で学んだ覚えはない。笑。

私が「愛」という言葉を聞いた時の感覚は、

・恥ずかしい

・怪しい(どこか偽善っぽい)

・大層だ

というところだろうか。

この感覚は、子供の頃から何も変わっていない気がする。

学んでないのだから変わらなくて当然かあ・・・。

こんな風に感じるもんだから、「愛」について考えることをどこか避けてきたようにも思う。

「愛」を四の五のと語るのはタブーなのではないのかとすら思う。

なぜ、ずーっとこんな風に感じるのだろうか?

とにかくこんなんだから、私は「愛」について疎いとしかいいようがない。汗。笑。

そんな時に目についた本がこちら。

あまりにもストレートなタイトルに気おくれしてしまう。

それでも多くの人が求め、そして、宇宙人も基本にしている?というこの「愛」というものについて、人生で1回は考えておかないと後悔するように感じてきてしまって、恐る恐る読み始めたのだった。

今回私は、「愛」について初めて学ぶことになるから、そこから感じる者はなんとも初歩的なものになるのかもしれない。

そして、ほんの触りの部分だけで終わってしまうようにも思うのだが、それでも恥ずかしながら感じたことを書いてみたい。

意外な視点

本には、私が「愛」についてなんとなく思っていたものからすると逆、パラドックス的な視点がいくつも見つけられた。

そこから3つほどをピックアップしてみる。

①愛は技術である

②自己愛と利己主義は逆のもの

③愛と資本主義は矛盾する

①愛は技術である

愛することは、モノづくりの職人のように修練しないとできるようにならない、ということのようだ。

こう言われることで、愛することは人が持って生まれたもので、抑制しなければ自然に出現するものだ、と私が思っていたことに気づく。

恋愛がよく冷めるように一時的な感情が愛であるはずがない、とも著者は言う。

思考が入るから本来の愛がブロックされると思っていて、それはそれで一理あるとは思う私に対して、その逆側から、自然に湧き出る感情も違うと釘を刺されたようだ。

確かに持って生まれたものを過大評価してしまっていたかもしれない。

ちなみに、愛とは本来周りと一体化することで孤独を埋めたいという思いから発生するもののようだ。

確かにこちらもわかるような気がする。

ところがその愛を求めるままに突き進むとサディステックな状態になって、相手を支配して一体化するところまでいってしまう。

あるいはその逆のマゾヒティックな状態になって、自己犠牲を強いることで一体化するところまでいってしまう。

親子関係を例に上げれば、よく聞くのは愛する子供のために、と何でもサポートしてあげる親。

こういった親は実は自分が子供を支配して一体化したいという思いで突き進んだことによるものだったりする。

親の子離れがなかなか難しくなり、歪んだ愛の形のようだ。

次に、人は周りから愛されるように外見・能力・地位・名声のために努力するが、自らが周りを愛することに興味がない、という面も現代の人に顕著だという。

さすがに痛いところを突いてくる。汗。

このように巷には、本来から外れたエセ愛、あるいは歪んだエセ愛が溢れているということらしい。

簡単に本来の愛からずれてしまうものなのだから、愛には修練が必要だと言うのだが・・・。

うーむ、確かに正しい?愛の実践は簡単ではなさそうに思えてくる。

②自己愛と利己主義は逆のもの

自己愛というものは長らくあまり聞こえのいい言葉ではなかったような印象がある。

最近になってやっと自分を愛せない人間が人を愛することなんてできない、などと聞くようになったが・・・

自己愛がどこか毛嫌いされるのはそれが利己主義と結びつくからなのだろう。

これに対して、著者は「利己主義な人ほど自分を愛していない」と言う。

自分に愛するに足りるだけのものがないからその不足を埋めようとして欲しがる、と言うのだ。

自己愛がある人は満たされているので、今度は他人に分けようとする。

これもまた逆の見方だ。

③愛と資本主義は矛盾する

資本主義にとって順調である状態とは、生産し消費が拡大していくことにある。

資本主義は、前述の愛されるためだけにする努力と相性が非常によくて、この努力を助長しているように見える。

そしてまた、愛することは与えることであり、それは無償のものであるというが、その一方で、商売を上手にするには損得勘定に優れている必要がある。

ということは、ギブ&テイク、見返りをうまく獲得する商売と愛とはこの点において真逆のものと言うことになる。

ここで、私がかなり幼い頃に、子供のいない裕福なおじさん夫婦によくしてもらったことを思い出した。

我が家ではめったに拝むことがない百貨店の地下の高級な美味しいものを買ってきてもらうことが度々あった。

私は、美味しいものをいただく度に「これなんぼ?」と値段を訊いていたようで、特異な子供だと思われていたと後から聞くことになった。

私は数字?いやお金好きから算数が好きになり、その延長で損得勘定に抜け目なく育った。

私は損得勘定に抜け目なくなることで愛から遠ざかってきた、ということなのか・・・。

今更ながら・・・物事には光と影があるものだ。

拍子抜けしてなんとも笑えてくる。

笑うしかない・・・。

ともかく、慣れ親しんだ資本主義という社会システムにも光と影があり、そのシステムに愛の実践を難しくする面があることは認めないとならないように感じるのだった。

愛の修得は難しい

ここまでのことは断片的で愛を理解するにはとても不十分なのだが、それでもここまで特に印象的だったことをまとめてみたい。

まず前提にくるのは、愛の実践はとにかく難しいということだ。

生まれもったままでもうまくいかないし、社会のシステムに呑まれ易くまたうまくいきづらい。

せめぎ合う愛と損得勘定。笑。

勘違いしやすい自己愛と利己主義。

相手への執着に対して尊重という微妙な距離感・・・・。

どれも非常に微妙で落とし穴があちこちにあると言うのがしっくりくる。

確かに簡単に愛を実践できるならば、社会はもっとうまいこと行っているのだろう。

そして、今回の「愛」についての視点は私の思いと真逆のことが多かった。

これによって知らず知らずに造られていた固定観念を壊してくれたとも言える。

また私の狭い了見が広がることになったのだと思う。

愛することについて技術が必要ならば、何分、感覚だけでここまできた私という者は、愛について新参者という部類になるのだろうから、まだまだここから学ばねばならないのだろう。

それでも新参者だろうが、いくらスタートが遅かろうが、課題さえ認識できればかならず前に進めるはず。

前を向こう!笑。

また、ちょっと別の感想になるのだが、最近の私の先天性重視、感覚重視の見方からしても、「愛は技術である」は意外な表現だった。

先天性重視、感覚重視からなのか、無意識に「愛」についても持って生まれたまま、素直でいいのだ、と片づけていて曖昧にしていたのかもしれない。

どうもそれだけではうまくいかないことがあるようだ。

先天性と後天性(修練)のバランス、感覚と思考のバランス、またこれらを揺さぶられたようだった。

「愛する」を技術として修得する、この後天性や思考によって「愛」を眺めることで、自分の先天性や感覚が逆に鮮明になっていくのではないか?そんな期待も出てくるのだった。

最後に、この本の締めの部分を紹介する。

著者は、本当の愛を修得するために必要な要素として以下の4つを上げており、これらを実践するトレーニングを行う必要があるとしている。

トレーニングして成熟した人間にならなければ愛を実践することはできない、というのが結論だった。

・相手に積極的に配慮をすること

・相手の求めに応じるという責任

・相手の人らしく成長するように気遣うという尊重

・相手を良く知ること

今回はこれらの項目を上げる、にとどめることにする。

愛を知るまでは死ねない私なのだ

冒頭に私が愛について感じるものとして

・恥ずかしい

・怪しい(どこか偽善っぽい)

・大層だ

を上げたのだが、今回を通してその理由がわかったように思う。

自分の中に溢れるエセ愛、そしてまた、巷に溢れるエセ愛、それらをどこか自分の本能が察知していたからではないだろうか?

何が本来の愛なのか?自分の中で曖昧だし、愛がわかるとしてもそれがホントなのか全くつかみどころがない。

だから、愛を語ることなんて、とてもおこがましかったのだ。

これもひとつスッキリした。

さて、愛というものがここまで難しいならば、学校で学ぶ必要があるのではなないだろうか。

それは学科でいうと社会の「道徳」?「倫理学」?「宗教学」?になるんだろうか?

どれも何か違う気がする。

「宗教」という言葉のイメージが更に違う気にさせる?

そんなことから「愛」を考えるなんてことは、胡散臭すぎる、と最初は思っていたのかもしれない。笑。

とにかく今回、胡散臭さろうが、恥ずかしかろうが、何とか「愛」というものに引っ掛かってよかったと思う。

こうしてツラツラといろんな思いが浮かぶままにしていると、昨年知ったお気に入りの曲が思い浮かんできた。

あいみょんの曲『愛を知るまでは』

歌詞サビ部分

愛を知るまでは死ねない私なのだ♪

導かれた運命辿って♪

今日も明日も生きていこう♪

なぜ、この曲がお気に入りになったのだろうか?

曲もいいがとにかくすごい歌詞だと感じた。

二十歳代の若者がこんな歌詞を書くとは!驚きだった。

この歌詞に驚いたのは、もしかして私の中の感覚が本来の愛を実践したがっていたからなのか?

はたまた、私の思考が本来の愛を知りたがっていたからか?笑。

あいみょんから遅れをとること約30年。

それでもスタートして今日から生きていこう!汗。笑。

UnsplashManuel Meurisseが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

「愛」は難しい。

だから答えが簡単に出なくて世の中は面白いのかもしれませんね。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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