RYO SASAKI

私の常識を疑う(現実主義編)~ 現実主義者ほど空想を。

タナカ シンゴ

真面目は正解に固執してネガティブになりやすい。

努力をしなければならないというのは嘘。

に書いたように、真面目、努力といった『自分の常識』を疑うことに、今私のフラグが立っている。

真面目・努力は多くの人がこぞって大切にしているものだからなおさら気になる。

真面目・努力によって支配され、真面目・努力に依存していることに気づかないまま過ごしてしまってはいまいか?と。

何にしても強大な支持を集める力の強い者には警戒しないとならない。笑。

ミーハーな私の場合は特に注意が必要だ。汗。

物々しく書いてしまったのだが、どんな物であっても万能ではない。

だから、一方に固執せずにネガティブな面からもみて視野を広めたい、というか、バランスをとっておきたいと思うようになっている。

今回も常識を疑うシリーズみたいに、自分の中の『現実主義』というものを疑ってみたいと思う。

『現実主義』という言葉は、真面目や努力という言葉よりもネガティブな意味で使われることもあるから、一般的にはバランスをとる必要はないものなのかもしれないのだが、私の中では一回疑っておきたい言葉なのだ。

フィクションとノンフィクション

私の現実主義が出来上がったのはいつのことだろうか?

持って生まれた性分なのか?

環境によるものなのか?

ともかく、会社勤めの時には気づいたら提案されるいろいろな新規事業に対して、実現できるかどうかのリアリティーを強く求めるようになっていた。

当時、夢のような事業を語る人が周りにたくさんいて、その人に対していぶかしく思っていたものだ。

私という人間は逆に夢を語ることができなかった。

これが私の現実主義としてわかりやすいものではないか?と今にして思い出す。

その後に、私の現実主義が表出したのが映画鑑賞だったかもしれない。

ノンフィクション映画にハマった。

フィクション映画には、学ぶものがない、単なる娯楽だ、と毛嫌いしたものだった。

社会問題をテーマにしたノンフィクション映画が多くて、メディアには出てこない真実を知ろうという正義感に駆られた。

つい先日、私のこのノンフィクション一択を疑うにふさわしいシーンに出会った。

それがあったのはドラマ「未解決事件ー松本清張と帝銀事件」

74年前に実際にあった帝銀事件の犯人が別にいるとして再調査を始めた清張。

その調査によって得られた情報をノンフィクションで書くのか、フィクションとして書くのか?という清張と編集者のやりとりである。

編集者:

「私が知りたいのは獄中の平沢(容疑者)の心であり、被害者の心である。

ノンフィクションは心が書けない。

心を書けるのがフィクションだ。」

清張:

「ノンフィクションで書いて、この闇を暴かないとならない。

平沢を冤罪にしていいと言うのか!」

編集者:

「ノンフィクションだと表現が狭まるが、フィクションだと想像、推理も含めて自由に書ける。

フィクションにして多くの人に読んでもらってこそのものだ!」

※一部を抜粋して加工しております。

※このやりとりの後に実際に出版された松本清張の作品はこちら。

『日本の黒い霧』

私のようなフィクションの創作を嫌う現実主義者は、真実の苦しみや悲しみだけしか信じたくないというところがどうしてもある。

ところが、実際に苦しみや悲しみを感じた人がそれをその通り言葉にできるか(=事実にできるか)というと必ずしもそうならない。

これに対してフィクションは、事実にないものを想像して役者の演技に託し、苦しみや悲しみを表現することができる。

受け手が言葉にならないことを想像する良さもあるものの、想像して言葉にすることで俄然伝わるものがあるわけだ。

事実には現れない真実の表現とでもいうのか・・・。

そもそも、ノンフィクションが真実を語っているのかというと、必ずしもそうではない。

フィクション同様に真実の切り取り方で十分に誘導できてしまうものだ。

これは世の中のニュースが真実を語らない(語りきらない)ことで学んできているものでもある。

今更ながら、こんな私の発見を言葉にすることで、私はノンフィクションへの傾斜を少し戻そうと試みるのだった。

空想科学小説

最近、こちらの子供向け?のSF(空想科学小説)を手に取った。

私がSF本を読むのは中学校の頃の星新一以来ではないだろうか?

空想小説は、現実逃避してストレスを発散できるものくらいにしか思わなくなった。

そして一切読まなくなった。

こちらの本は、宇宙人がUFOで地球にやってきて子供に「宇宙の基本法」を教えるという話。

この年齢になってしまっては、何も感じないのではないか?と半信半疑で読みすすめたのだったが、結果はなんとも意外なものだった。

宇宙の基本法は「愛」

愛が1番、思考は3番目

科学が愛を越えると滅亡する

暴力は未開文明特有のものだ

文明の星は勝ち負けが不要である

気になる言葉が満載だった。

登場する宇宙人は、地球を戦争・暴力が当たり前のうちは未開文明の星であると認定している。

そして、その宇宙人は地球を外部から手助けしてはいけないという宇宙法にしたがっている。

外から変わるものではないから、自らが理解しないとならないという。

また、人間一人一人が進歩度という数値を持っており、一定以上の進歩度がないと自分の星に連れていくことができない。

この進歩度は古くから宗教や偉人が言うところの、最近ではドラマ『ブラッシュアップライフ』でも出てきた「徳を積む」というようなものだろうか。

この「進歩度」も「愛」の大切さも特に目新しいものではないのだが、それでも面白く感じられたのは、宇宙人が人間を野蛮な未開人であると蔑んでいるところだ。

あたかも人間が野性の動物を見るかのように・・・。

そういえば、人間はこれまで誰を見倣って徳を高めようとしてきたんだろうか?

まずは、近くのお偉い人だったのだろうか?

同じ人間に対しては、嫉妬というものがつきまとってうまくいかなかったのだろう。

それで、神が出てきたんだろうか?

でも神は宗教によってその信頼を失ってしまったようだ。

ユヴァル・ノア・ハラリ(著:ホモデウス)によると人間は神を殺してしまって、今度は自らが神になろうとしているらしい。

この危険な人間が、なんと神になる!汗。笑。

見倣うべき対象をちょうど喪失して、二進も三進もいかなくなっている地球に対して、次の候補として他の星に棲む知的生命体が浮上してきたところが何とも面白い。

宇宙人が地球を侵略する話はいくつも創られてきたが、あの発想は狂暴で卑しい人間を宇宙人にあてはめたもののように今は感じられる。

例えば、映画「エイリアン」のエイリアン。

知的だとしてもエイリアンのように凶暴で見境ない生き物は、繁栄することはできないだろう。

UFOではるか銀河系の端まで飛ばせる技術を持ち、その技術を持ってしても自らで滅亡しないでいられる知的生命体が、他の星を攻撃してくるということは全く考えにくい。

この知的生命体をあれやこれやと空想することで、比較対象先が鮮明になって人間の進歩度の低さが際立ってくる。

空想するということは、このように現実と離れたところに飛び地を創って、そこから自らを俯瞰することができるということなんだろう。

逆に、現実の大きな変化は現実の延長からは生まれづらい、ということなのだろうと思う。

このあたりが現実主義の死角。

非現実的な空想が現状を打破することがある。

ところで、想像、空想、妄想(それぞれが事実ではなくて創造の賜物だが)というような言葉の区別はどこにあるのだろうか?

さらに言えば空想と真実の区別はどこにあるのだろうか?

人間に見えるか見えないか、あるいは、人間が証明したか、していないか、といった人間の都合によって想像と真実が分かれるだけなのではないか。

知的生命体についてこんな話がある。

元・JAXA宇宙飛行士の野口 聡一さんが、いろんなところでされる質問に「宇宙人はいると思いますか?」というものがあるという。

これに対して、野口さんはいつもこのように回答しているらしい。

「宇宙はとんでもなく広いものです。

 銀河系のようなものが他に約3000億個あるといいます。

 だから、宇宙人は存在すると思います。

 地球のような環境の星も他にあると思います。

 ただ、何せ遠すぎるので会うことはないと思います。」

見えないものや証明されていないものならば類推によって仮説を立てるまではしてみる、これが卑しくても人間ができることだ。

類推を始めてみるとこのSFのような話が単なる空想(創作)なのかわからなくなってくるようだ。笑。

空想を現実につなぐ

今回は「現実主義」を疑ってみて意外な広がりを感じることができた。

フィクションや空想小説が創りごとであるがゆえに逆に、現実に活かすべきメッセージがしっかりと伝わるということがある。

現実主義に傾斜してしまうと空想はすべて単なる無駄なこと、としてしまう。

これが私がやってきたことだ。

私のような現実主義者は、特に空想や想像や創造にアンテナを張っていった方がいいのだろう。

それによって空想を現実に結びつけられるような気づきが起こるように思える。

例えば、このSF本の宇宙人の「宇宙の基本法」から、愛をもっていろいろな人に接することをあらためて認識させられる。

そして進歩度?なるものを上げるには、自分の固執をできるだけなくさないとならない、と再認識できたりもする。

今回の「現実主義を疑い、その固執を解き放つ」というテーマ自体もそのひとつと言える。

こんな風にして、空想の世界が現実を変化させていくのだ、と思うに至るのだった。

私がずっと大切にしてきた真面目、努力、現実主義がある。

何もこれらのすべてを否定するつもりはない。

自分の性分が大きく変わるものではないこともどこかわかっているところがある。

自分の性分を個性と呼んで励まそうという思いが強い。笑。

ならば、なぜそれを疑っているのか?

せめて、自分の性分がバランスが悪いところにある、と客観的に知った上で自分の性分を生きる必要があるように感じる。

それが、自分が自分の性分ゆえに何かにハマった時に修正できる最低限であって、また、逆の性分をもつ人に対して寛容でいられる最低限なのではないだろうか?

そんな風に思うのだ。

この性分が変わらない私だから、空想のためのキッカケを外からいただきながら創造的たろうとする精神がまた大切なのではないか?笑。

また、そんな風にも思うのだった。

最後にまた、このSF本の宇宙人の言葉を紹介して終わりたい。

以前の人は残酷に対して敏感ではなく、戦争も当然のこととしていた。

新しい時代の人間は、より放射の影響を受けてかわいそうに苦悩に対して敏感で、より傷つきやすくなっている。

より進歩した人間は子供のようになっていくんだ。

遊びとか幻想とか創造といったものが必要なんだよ。

これもまた、何とも説得力あるお手本の方の言葉だ。笑。

UnsplashArtem Kovalevが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

おっさんが常識的なおっさんにならなければならない、という常識を捨てるためにも空想がいいのではないか?そんな風にも思いました。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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