人は解放によって孤独になり、孤独になって人とつながる。~階層モデル導入~
「女性は赤裸々に話して自由だけど、男性には言葉を選んでるというか、なんだか抑制、我慢があるんだけど・・・。」
最近感じたことだ。
女性は恥ずかしいようなプライベートなこともグイグイ話してくるからたじろいでしまうこともある。
仕事の話、家族の話、男という生き物の話・・・。
「○○なんてクソだよ!」
なんて言葉を聞くこともある。
これに対して男性は恥ずかしいことは口にしないし、チャンとしたことを言うことを背負わされているように感じて物足りなく思うことがある。
それは男のプライドからなのか?美学からなのか?会社で評価されるために構築されたものなのか?あるいは、同じ男性だから潜在的に私に警戒心があるのか・・・。
もちろん、恥ずかしいことと言っても程度というものはあるものの、この感覚が前回書いた解放できている、できていないの違いなのかもしれない。
そんな風につながって、女性の方が解放されてるのはなぜか?などと頭を巡らせ始めたのだ。
たまたま会った方がそうだっただけなのかもしれないし、むしろ男性を警戒しているのは私の方だからそう感じるのかもしれない。
そんなことをツラツラ考えていると、「解放」というものについてもう少し掘ってみたくなってくる。
解放された?いろいろな人の話がなんとも興味深かったのでそこから始めてみたい。
解放されている?女性たち
知り合いから誘われたある食事会にふたつ返事で参加したことがある。
行ってみると食事会にいたみんながお仲間で、私を誘ってくれた私の知り合い以外みんなが私にとって初対面だった。
話題を探りつつ、おそるおそる隣の人と話し始め、お酒が入ってくるうちに話はプライベートなものに移っていった。
ひとりは日本でトップクラスの大学出身の才女でIQは130を優に超えているとか・・・。
その大学には「ギフテッド」と呼ばれるような天才がそこら中にいて、ホントの天才は自分とはまた違っていた、などという話しから始まって、学生の頃にやりたかったビジネスというか技術が道半ばのまま、今それとは全然違う仕事についているのだ、と少し寂し気に話たりしてくれた。
この女性はいろいろな感性がご家族と異なっているようなところがあるらしく、家庭で少し浮いているというような悩み?を笑いながら打ち明けてくれた。
また別の女性は、夫婦円満、ご主人の仕事も順調でお金に困ることもない。
強いて言えば、何も悩みがないことが悩み、という何とも羨ましい人だった。
だからなのか、人が集まるコミュニティーで今まで縁がなかった仕事の人、あるいは会ったことがないキャラクターの人に出会うことが刺激的で楽しいのだ、と話してくれた。
人間を俯瞰してみるようなことに興味があるようで、
私が、「若い皆さんを見ていると、エネルギーが一杯で自分の問題をなくすことに躍起になっているように見える。」
というようなジジイのヤッカミともとれる癖のある言葉を発してしまった時、逆に興味を持ってくれたようでそこから哲学的な話で盛り上がった。
この2人とは、そこからここには書きづらいもっと込み入った話にドンドン入っていく・・。
そしてまた、他の人も込み入った話をしてくれるのだった。
後から思い出すと初対面なのに何でこんな赤裸々な会だったのか?
とても不思議で楽しく解放感のある夜だった。
解放とは何か?
プライベートの話には、外に出したくない恥ずかしいものがある。
一方の聞き手も人の恥ずかしいような話を聞きたくない、ということもある。(これが好物という人もいるが)
逆に人の上手く言っている話は、自慢話として聞き手の鼻につくから、聞きたくない、ということもある。
そしてまた、人が自分の興味のある話をするも、聞き手に全く興味がなくて聞きたくない、ということもある。
これらのことを踏まえて解放とは何かを敢えて整理してみる。
解放とは、自分の恥ずかしいことは話さないという常識を解放させる、ということであって、周りが聞きたくない話をしないように配慮するという常識を解放させる、ということになる。
これは解放のホンの一部なのだろうが、このように解放とは常識を壊すこと。
あるいは思い込みを壊すということ。
常識、思い込みはそこここにすぐに見つかる。
思い込みの例をあげてみると、
私は一角の者である。
私はダメな人間である。
私は孤独で不幸せだ。
私は仲の良い友達がたくさんいて幸せだ。
・・・・
※最後の2つは唐突ではあるがこの先に関連する。
どれもが思い込みに見える。
そして、自分を一角の者、あるいはダメな人間、と捉えた瞬間、即硬直が始まるように感じるのだ。
解放された者の孤独
ここからは出会った男性の話。
男性が女性ほど解放していないのかも、と思ったもののお酒というものは、この解放を一時的に進ませるもので酒の場では解放を垣間見ることができる。
ある男前の中年男性に会った時のこと、「私が男前ですねえ」と切り出す(おべんちゃらではなくてホントに男前だった)と即座に「顔なんてものは関係ないんですよ・・・」と返ってきた。
お近づきの一言に見事説教を喰らってしまった。笑。
後からこの男性もIQ130以上の頭脳の持ち主だと聞く。
なぜだか、IQの高い人によく出会う。
この男性は経営しているいくつかの会社について、その方針が社員に理解されない、と日頃の愚痴を吐き出し始めて、その姿は何とも苦しそうだった。
また別の男性は、会社の方針が絵にかいた餅でそれに対して質問しても納得いく回答が得られない、と話してくれた。
自分は本質をついているはずだが、誰からも賛同を得られないため、諦めて合意したというバカなフリして生きているんだとか・・・。
こちらも何とも生きづらそうだった。
さて、最初の女性に戻って、この女性の感覚が家族と合わないのは、IQの違いにあるんだろう。
3人目の経営者の男性も同様である。
もちろん感性の違いはIQだけによるものではないだろうが、大きな一因になっているように感じられた。
何の問題もないはずの2人目の女性だが、後から哲学的な深い話をしたくてもできる人はなかなかいない、と言っていた。
4人目の男性に、「初対面の私にそんなことをよく話してくれましたね!?」というと、
「初対面だからですよ、こんな話会社ではもちろん周りにとても話すことができない。」
と返ってきた。
初対面は一期一会で後腐れがないからいいのだ、と聞いて納得した。
ここまでの4人から感じる共通のこと・・・。
それは、
「人は誰もが孤独である」
ということだった。
人は誰もが、興味関心や考え方が周りと異なる存在で、心の底から共感できる人はほとんどいない。
だから必ず心の底に孤独を感じているのだ。
かく言う私も同様。
ある食事会で、何でも話せる人に数時間思いの丈をまくし立てていた時のこと、お相手が途中でどうしても何か言いたげで、
「ひとついいですか?誰に対してもその調子だと危険ですよ・・・。」 と割り込んだのだ。
それは何とも冷静な忠告だった。
私は我に返って、「わかってますよ・・・」とかろうじて返答するのが関の山だった。
このお相手がまた頭脳明晰で、若い頃から自分と周りの人の違いを重々承知している人だから、私の解放(周りとの違い)にも理解して聞いてくれたのだった。
そう、私の話したいことを話せる人は本当に少なくて、私も孤独なのだ。
そもそも人はそれぞれがそれだけ異なるものだ。
それを常識という共通なもので何とかいい関係を・・としているわけなのだが、解放されてそれぞれがむき出しになると周りとの違いがより浮き出ることになる。
そうなると周りにはそれが理解できないから孤独に感じる。
「誰もわかってくれないのだ」と。
そして解放は、周りへの配慮をやめることでもあるから周りを不快にさせる面がある。
その不快によって周りから避けられてしまい、ダブルパンチで孤独を感じるようになるのだ。
孤独によって人とつながる
私が少しは解放できている時、それは情けないかな、酒の力に頼ることが多い。
どこまでできているか定かではないが、解放して自分がむき出しになった時、清々する感覚がわかるようになった。
これまでは、自分をむき出しにすると、それによって周りが感じた不快に対して反省することですべてが覆われてしまって、どうやら清々する感覚が書き消されていたようなのだ。
反省している時、だいたいが二日酔いでもあるから余計に反省してるし・・・。
ただ、この清々する状態、その自分らしくある状態が大切だ!とやっと感じるようになってきた。
そうすると今度は目の前に「孤独」という壁が立ちはだかった。
解放して清々した自分を得るのには孤独を受け入れなければならなさそうなのだ。
やはりこの人生ゲームというものは簡単にいかない。
人は解放の道を選ばずして、自分とは別物である常識というものに魂を売って、周りと上手くやりながら孤独を避ける道を選ぶべきだろうか?
そんなことはあるまい・・・。
このジレンマを解消する方法はないものか?
「階層モデル」ってのはどうだろうか?
自分の中に常識層(ポジション)と解放層(ポジション)という層をもって、常識層と解放層の間を意識的に行ったり来たりするのだ。
このモデルを義務教育に入れる。
みんなが共通認識をもった上で会話するのだ。
例をあげてみよう。
「はじめまして。いきなりなのですが私、解放層で話してもいいですか?」
と了解を得た上で言いたいことをトコトン言う。
聞く方は、そこに共感できるものは少ないだろうし、時には耳を覆いたくなるものもあるだろうけれど、解放層とはそういうものだと認識して、共感不要でとにかく聞いてあげる。
質問は大いにOK、でもそれは違う、こうした方がいいなどと口を挟もうものならば、相手は常識層に引き戻されてしまうからご法度だ。
自分に直接危害が加わらない限り、放置してあげるのだ。
限界が来たらこう告げる。
「もうそろそろ常識層に戻って、交代してもらっていいですか?」
解放層を尊重して、共感はできないけれど相手の解放層を放置してあげる、という優しさにおいて人はつながる。
そして解放層にわずかながらでも共感ポイントがあればそれだけで十分人はつながれるのではないだろうか?
いや、本当のつながりは解放層どうしにしかないのではないか?
人は常識という外のもので表面的に安易につながるのではなくて、ホントの解放と孤独を前提にしてその上でつながるのだ。
むき出しどうしがつながれば、それはかなり清々とした関係になること請け合いだ。
いかがだろうか?
「そんなロボットのようにはいかない、理系はこれだから・・・」という声が聞こえそうだ。
それでも無視してもう少し続けると、孤独とはどういうことなのだろうか?
孤独が不幸せなことなのか?
友達がたくさんいることが幸せなんだろうか?(※前出)
いろいろと気になることが出てくる。
更には、そもそも友達とは何だろうか?
親友とは何だろうか?
ソウルメイトとは何なのだろうか?
家族やパートナーに対して、この解放層の使い方はどんな風になるのがいいんだろうか?
・・・・
どうやら簡単ではなさそうで、今回は自分に都合よくこの投げかけで留めて終わりにすることにする。
ここまで言っておいて最後に、注意喚起をひとつ・・・。
もしどこかのお店であなたが隣の人から、
「解放層で話してもいいですか?」
と訊かれたらそれは私に違いない。
その時こちらは自分を解放させたくてやる気満々。
私はかなりの曲者なので、私の解放層が発動すると不快極まりなくなること間違いなし。
なので、早めに解放層を交代!と圧をかけてもらってあなたの解放層を存分に味わい、清々してください。
UnsplashのGabriel Benoisが撮影した写真
【著者プロフィールと一言】
RYO SASAKI
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
「解放」というものをこれからも意識して行きたいと思います。
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