私は捨て石なのかもしれない。それでも生きる。
人間は賢い生き物であるかもしれないが、それでも生き物としての法則にしたがっているところは他の生き物と変わらない。
他の生き物と同様に、種として生き長らえて、より良い子孫を残すために生きていると言える。
人間が、周りから無視されたり、バカにされたりすると、許せないという気持が湧いてくるようにできているのは、それがないと上記の種の目的を優利に進めることができないからだ。
人間が、賢くなることやお金持ちになることを求めるのは、これらのことが、上記の種の目的を優利に進めることになるからだ。
人間が、キレイだと思われたり、格好いいと思われたり、褒められることが気持ちいいと感じるようにできているのも、これらのことが上記の種の目的を優利に進めることになるからだ。
ところで、これらのことは人間が生まれてから学んだことなのだろうか?
どうもそうとは思えない。
もともとそういう仕様で産み落とされるのだと思う。
だから、種が持っている先天的な仕様をしっかり認識することが、複雑になっている人間の生き方をシンプルにできるのではないか?
そんなことをいつからか思うようになった。
動物学者の丘浅次郎も、生物、種としての人間の特徴を観察していて、その独自の説が面白いので紹介したい。
社会本能と階級本能
丘浅次郎の『人間生活の矛盾』では、人間の社会本能と階級本能を紹介している。
まず、生き物には自然淘汰というものがついて回る。
生存のための諸条件に適するものは生き残り、適しないものは滅びる。
種は滅びないように、例外なく生きながらえようとする本能を持っていて、生きながらえるために必要な本能は強くなり、一方で必要がなくなった本能は退化する。
例えば、敵に殺されないように角が大きくなる動物がいるが、その時は角が大きくなるためのホルモンが出ている。
生きながらえるための本能によって、ホルモンが出るように変わる。
そして角がある程度大きくなるとそれ以上は必要がないから、ホルモンは減少するように変化するというのだ。
この話と同様にして、人間は社会本能と階級本能を持っている。
社会本能とは
孤立して生活することを嫌い、集団や社会をつくろうとする人間の本能。
動物の場合も、群れをなして生活する先天的傾向があるといわれる。
階級本能とは
各自が生れながらに目上の者には服従せずにはいられぬという本能。
人間にとってこの本能を備えていることが必要である。
人間はひとりないしは少数では生き残りにくいから、集団を形成したいと感じる本能に変化してきた。
また、歴史は、集団対集団の戦いの繰り返しであって、その戦いに勝つためには、集団の個々が勝手に動くよりは、統率された集団で動いた方が、勝つ確率が圧倒的に高い。
だから、統率のために適したリーダーを集団の中に立てて、それに従う他の人々を構成することを選択し、そういう体制で戦った集団が生き残り、子孫を作っていくことになった。
このことによって、一部のリーダーシップを本能にもつ人間と服従を本能として気持ちよく感じる多くの人が存在するようになった。
社会本能と階級本能の進化と退化
この社会本能と階級本能は、生きながらえるために有効ならば、どこまででも大きくなるものであって、その結果、集団がどんどん大きくなる。
昔ならば、統率するための情報伝達手段が限られていたが、現代の通信手段の発達によって、以前からするととてつもない大集団を指揮命令し統制することができるようになった。
そのことが、国という単位であり、EUのような更に大きな単位ができていくということなのだろうか。
しかし、如何に通信手段が発達しても、大きい集団には統制に問題が生じるもので、そうなると角を大きくするホルモンが出なくなるように、大きい集団にメリットを感じなくなって、階級本能が退化していくことになる。
『人間生活の矛盾』での丘浅次郎の説は、人間どうしの様々な意見の違い、矛盾、争いの原因が、社会本能と階級本能の退化の程度がばらつくところに起因する、というものである。
社会から自由になりたい、上司の指示にうんざりする、社会本能・階級本能退化組がいて、逆に統制などのメリットによって、社会本能・階級本能維持組が混在している。
『人間生活の矛盾』が発刊されたのは、大正15年(1926年)だが、100年前に社会本能と階級本能は退化の一方である、と表現していることには少し驚いた。
明治時代に入って、植民地にされないように国が富国強兵を進めたと聞いたが、このような戦争の脅威がある場合、社会本能と階級本能が大切になってくる。
その時期から見ると脅威が薄まったことで、退化が進んだものだろうか?
そして、この当時も「昔は(安定して?)良かった。」などと過去の統制されている様にノスタルジーを感じる年配が存在していたという。
「昔はよかった」という言葉の意味を社会本能と階級本能の退化が説明してくれている。
この時代よりも遥に遡った時代にも「昔はよかった」という言葉が発せられているらしい。
100年経過しようとしている現代も、社会本能と階級本能が退化の途上にあるように感じる。
大東亜戦争とその敗戦後の支配を受けて、かなりの期間において社会本能と階級本能が進化方向にまた戻った時期があったが、そこから退化に向かっているように感じられる。
焚書坑儒がなく情報が引き継がれる社会では、人間というものの不完全さを知ることができて、聖人君主など存在しないことがわかってきている。
そして、SNSなどの情報伝達ツールの発達が、集団のトップの不都合な情報を開示するようになって、権威というものが失われてきている。
このことが、社会本能と階級本能の退化を更に助長しているように思う。
力の拮抗
人間の社会には、集団による統制が必要であると思う。
社会のルールがなくて勝手にやって幸せな社会になるとは全く思えない。
そして、統制を含む大きな仕事は大人数でしか行えないから、大きい集団が必要である。
その集団の指示命令のために階級が必要でもある。
お金で何でも買える時代は、集団で生活することの意味を希薄にして、社会本能と階級本能を退化させるかもしれないが、購入した物が大集団によって製造されているものであるから、その恩恵に預かりつつ、大集団の存在を否定することはまことに都合がいい。
一方では、統制された集団は、その集団の目的のために暴走して、その暴走を抑制する決め手を持たない、という問題がまた付きまとう。
上司は集団の役割を超えて、部下を抑圧する。
役割の上下と人としての上下の区分は非常に難しい。
人々は上司、それはひいては集団から強要されて、最終的に支配が起こる。
社会では、社会や階級を統制し支配していく力と社会や階級から自由になりたい力が常に拮抗している。
現代のSNSは自由を求める人の叫びのツールとして重宝がられており、それに対してSNS投稿の検閲などの動きは、統制側の対抗策である。
個人の社会本能と階級本能はもって生まれた資質や育った環境、現在の環境によって強くもなり、弱くもなる。
社会本能や階級本能が退化する速度も人それぞれである。
社会には、この2つの本能について様々な程度を持っている人々が混在していて、一律になることはない。
ずーっと何らかの拮抗をしていくことになるのだと思う。
このような多様性が種の強みでもある。
全員の社会本能や階級本能が退化していたら、戦争になった時に戦いに敗れてしまうように。
丘浅次郎は社会本能や階級本能の退化によって社会にどういう影響が出てくるかを見届けたい、として本は完結している。
私という種は無力なのか
この丘浅次郎の説を私の経験にあてはめてみよう。
私はサラリーマン時代が長く、まさに服従する階級本能を保持した人間だったと思う。
上司の指示に納得いかなかったことももちろんあったが、生きるための服従という選択をしてきた。
ところが、服従することについては更に上手がいて、辻褄が合わないことに対してもウェルカムな態度で淡々とやり過ごしている輩もいた。
当時は「なんてノーカンな奴なんだ」「なんてずるい奴なんだ」と軽蔑したものだが、何とも私の了見が狭かった。
階級本能の強い種だったのだ、と今やっと感服するに至る。
私個人としては、当時よりも更に社会本能と階級本能が退化したんだと思う。
一人の中でも統制と自由の力は拮抗していて、種はどうしようかと日々反応しながら、その経験を自分の社会本能と階級本能にフィードバックしている。
私はただひとつの種であって、そのひとつの種が本能を退化させているスピードは、生きながらえるために成功をもたらすか、不成功をもたらすかはわからない。
種は多様に分かれ、その中から生き残る一部の種をさぐり出そうとしているように見える。
よって犠牲になるように見える種がある。
私という種は捨て石なのかもしれない。
そうして種としての自分は役割を演じて一生を終えるのだろう。
『働かないアリに意義がある』というアリの社会から人間社会のあり様を観察した本がある。
アリにも個性があるように、人間ひとりひとりにも個性があり、役割があるのかもしれない。
これは、こういう役割が初めにあるというようなものではなくて、バラツキを作るということによって偶然に役割が分かれて、結果的に役割が最初からあったように見えるだけのことなのだと思う。
社会本能と階級本能の退化はこの先どこまで進んでいくのだろうか?
結局、人間は統制と自由のいいとこどりしたいという欲深い生き物であって、どう進んで行こうとも社会本能と階級本能の退化度合に適度なところなんて見当たるとは思えない。
種全体は本能の程度が個人個人でバラバラであることを望んでいるのだろう。
そんなことから、とても「この本能についてこうした方がいい!」などとは軽はずみに言うこともできなくなってしまった。
また、子供を育てる必要がなくなった時に人間は生物的に意味はないと言われたりもする。
意味がなくなっても本来の種の目的の癖だけは残っている。
さて、生物的に人間を見てきた結果、正解もあるべき目的も全くなくなってしまった。
ああ、捨て石でよかった。
もう、誰からもこうするべきだと強要される道理はない。
バラつきの中のどこかに生きていればいい。
だから、自分のやりたいことをやるだけだ。
この本をキッカケにして増えた自分がやりたいことは、世の中の社会本能と階級本能がどう推移していくのか?観察していきたい、ということ。
丘浅次郎もそうだったように、世の人の本能の程度なんかにはそのようにしか関わりようがない。
自分の好奇心の方へ向かうこと、達成したい目的があるならばそれに向かうこと。
自分の本能にしたがって生きるだけでしかない。
Photo by Zeny Rosalina on Unsplash
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
今回の丘浅次郎の本は、青空文庫で見つけたのですが、この青空文庫とは著作権が切れている古い本などを無料で提供する活動のことで、ボランティアで運用されています。
現代にも十分に生きる知恵があるので、この活動を非常に有難く感じます。
その恩恵をいただいたので、その本の感想を現代に照らし合わせて自分なりに書くことはしていきたいと思います。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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