RYO SASAKI

修験道から学ぶDon’t think! Feel.~自分を輝かせる方法~

タナカ シンゴ

最近、また友人から教えてもらった本がある。

『野性の力を取り戻せ 〜羽黒山伏に学ぶ 答えがない「問い」に向き合う智慧〜

そのタイトルに惹かれ、夢中になって読み進めてしまった。

夢中になったのは、内容がここまでのRANGER内の複数の記事と結びつくものであったからで、更には自分の中の曖昧なことが鮮明になったからだった。

こちらは、山伏(「松聖」まつひじり)の星野 文紘さん(以下先達と呼ぶ)が書いた本なのだが、私は今まで山伏の方の話を聞いたことがなかったので新鮮でもあった。

山伏:修験道の行者をいい、100日修行をしている山伏を「松聖」まつひじり、という。

修験道:自然に身を置いて祈り、感じたことを考える哲学である。

※今回は山伏、修験道についてこれ以上の詳細の説明はしておりません。

私にとって特に興味深かったのは、専門分野が異なる方々が、違う言葉で共通のことを伝えているように感じられたことだった。

過去の記事をピックアップして、共通しているところの確認から始めてみたい。

そして、その先に思い至ったことを書いてみたい。

共通していること

『野性の力を取り戻せ 〜羽黒山伏に学ぶ 答えがない「問い」に向き合う智慧〜

こちらの本を一言でいうと、思考に偏らずに「感じなさい」というものだ。

現代人は思考に偏っている人が非常に多いのだが、思考ではどうしても限界がある。

Don’t think! Feel.

これは、映画「燃えよドラコン」(1973年)でのブルース・リーの言葉で有名になり、また最近でもよく聞くようになったと思う。

「感じる」ことは本来持っている野性を取り戻すことである。

この感性を取り戻すことで、魂が浄化される、魂が成長する、魂が強くなる、といった複数の言葉で伝えている。

自分の魂を活かす生き方が自分の素を生きるということになるのだという。

もう少し具体的には

・ふと思うこと(こうしたい、あやしい、なるほどと腑に落ちること)が思考と異なるチョッカンである。

慎重な?いや小心者の?私なんかは、とかく、ふとこれをしよう!と思っても、難しいんじゃないか?上手くいかないんじゃないか?などと、思考を働かせ、合理的な評価を加えるのだが、物事はそんな思考で評価できるものではないともいう。

共著者のキャリアコンサルタントの方も、転職はこういう条件だからという思考による選択では上手くいかない、といった経験談を話している。

・雨風の中でドロドロになった時に、思考は冷たいから苦痛で避けたいのだが、身体のどこかは喜んでいる。

人は自然の一部であるから、自然と一体となることに喜びを感じる。

魂は思考の合理性とは別で、いつまでも子供のように喜びを求めて我々の中にある。

ここから、この本と共通するこれまでの記事をピックアップしてみる。

まずは、RANGERのライター田中さんの記事。

「狩りの思考法」は、これからの時代の生き方を考えるのにきっと役に立つと思う。

では、「狩りによって(想定外のことへの対応で)、生が動き出す」

という表現をしている。

私の記事の、

今更、古い脳を鍛えよ!と言われても・・・いや鍛えましょう!

では、経営者であり、技術者であり、教育者の側面も持つ天外伺朗さんが古い脳(感覚)と新しい脳(思考)という表現をしている。

バブル世代の私が向き合うべき大脳新皮質の改善とは?

では、私が一時期していた左脳を抑制した右脳キャンペーンという表現をしていた。

RANGERに何度も登場している精神科医の泉谷閑示さんは、心を主役にして頭はサブにしないとならない、と表現している。

これらの専門家が共通して「思考の抑制」を示している。

そして、それによってそれぞれの目的が達成できる、としているところがまた面白い。

・いきいきした人生を送ることができる。

・VUCA(変動性、不確実性、複雑性、曖昧性)に対応することができる。

・発想力を高めることができる。

・鬱にならないようにすることができる。

このように別の分野のことを重ね合わせることでより深く理解できることが、どこか私の喜びであって、それがまた自分を納得させるのだった。

ところで、自分は、よくもまあこれだけ思考の問題を書いてきたものだ、とも思う。

私という者は、それだけ思考人間なのだろう。汗。

腑に落ちたことーチョッカンとツミ

「チョッカンには二種類あって、五感を使って感じたものから「その場でわいてくる=直観」と、経験値がビッグデータとなって、「ひらめく=直観」があります。

中略

「チョッカン」と「思いつき」は違う。

多くのケースをみていると、「チョッカン」と思って失敗するケースは「焦りや不安からくる回避行動」を「チョッカン」と思ってしまうケースですね。

私は、これまでに思考を警戒してきたとはいうものの、一方でチョッカンに対しても、信用できない面がある。

これがどうも引っかかって気持ち悪かったのだが、上記の内容からわかった。

ビッグデータの不足やデータのアンバランスがあれば、チョッカンは間違うということ。

そして、何かを意図するもの(こうありたいという強い気持ち)がある時にチョッカンといっても思考に入ってしまっている場合があること。

だから、どこかに意図があってひとつの方向に誘因するという気持ちがなくて、余裕をもって遊びながら自由にチョッカンを出していく必要があるのだと。

この二つに注意しつつ、躊躇せずにどんどんチョッカンを出していけばいいのだと思った。

(神社の祝詞の中の「罪(つみ)穢れ(けがれ)を祓う」について)

つみの「つ」には元々包むという意味がある。

「み」には源(みなもと)という意味がある。

だから、「つみ」とは源を包み込むということではないか?

源とは自分の素なるところで、それを包み込んでいるものとは、

思い込み、固定観念、概念、常識

であって、自分の素を包み隠しているものを祓う必要があるということなのだ思うのです。

※漢字はすべて後からの当て字であって、もともとあったのは、ひらがなで、ひらがなひとつひとつに意味があることから。

原文に少し加筆しております。

このことで私は、お祓いの罪穢れを初めて知った時に、感じた違和感を思い出した。

「私は、法に反することをほとんどしていないよ。

確かに悪いこと(周りを不快にすること)を上げれば数え切れないだろうが、それを反省して一切を失くさないとならないのか?

そんな完璧なことなんてできない・・・。

あるいは、ご先祖様の罪も背負わないとならないのか?

無理なことを要求されている!?

罪を祓う祝詞で謙虚になるのはいいが、同時に自己否定感を刷り込まれて重い人生にされてしまうのではないか?」

などと・・・。

ところが、ツミを一般的な罪ではなくて、思い込み、固定観念というならばしっくりくる。

固定観念は真理でもないのに、簡単に発生して自分を支配し始める。

それは、他人も自分をも縛り付けるものだ。

これは私の経験からもハッキリしたことであり、これを減らすことならば、達成可能な課題だと感じるのだ。

これならば納得!

囚われは祓わねばなるまい。笑。

こうして、チョッカンとツミが腑に落ちたのだった。

思い当たったことーシンクロニシティ

魂が強くなると、「たまたま」とか「偶然」がすごく多くなる。

俺は多いよ。

なにも考えなくても勝手に道が開かれていくんだよ。

多くのいわゆる引き寄せの法則的な本には、どうすればシンクロが起こるのか?に対して、とにかく何かを思えば実現する、と書いていたように記憶している。

私は、この漠然とした答えに物足りなさを感じていたのだが、魂の強さ=自分の素に関係があるというのは何となくわかるように最近感じてきていた。

まだ確信があるとまではいかないのだが・・・。

私の最近の経験をいくつか挙げてみる。

ふとやりたい、と感じてどうもやりたいムズムズが止まらないような時に、後先考えずに行動に移してみる。

そうすると動いた先で似たような価値観で共感する人に出会ったりする。

あるテーマについて話しているとそれに関連する人に出会う。

共通の価値観を持っている人から、また別の人を紹介されて、結果自分が欲しいピースが埋まったりもする。

また、自分に降りてきた言葉を飾らずにそのまま紡ぐと、お相手に自分と共通の経験があることが発覚したり、場が盛り上がったりもする。

どうして、このようなことが多くなったのだろうか?

何となくではあるのだが、自分が〇〇であろう頑張らずに自分らしく素であったからのように思う。

素であるには、自分に思い浮かんだことを否定しない、抑圧しないことが必要だ。

自分のダメなところをさらけ出してもやっていける強さが必要だ。

そして、役割として演じている仮面、例えば大人の仮面を脱がないとならないのだろう。

このように、素であることは言葉で言うほど簡単ではない。

さらには、人と会話するときに、頭を何かの考えで埋めずに、ボーっとしておく(デフォルトモードネットワークとも言える)=頭を空けておいて、浮かんだものを直後に発する(実際には何でも口にするわけではないが)というような感じとも言える。

いつでも感じられるように、スペースを空けておくということかもしれない。

このようなことが合わさってシンクロが起こりやすくなっているように感じている。

先達の言う魂の強さ=素であること、これもまた腑に落ちるに至るのだった。

思考人間の進む道

私のような人生の前半戦で大きく思考に傾いた人間が、まがいなりにもここまで感じられるようになったことは、進歩と言えるかもしれない。

それでも、私はまだまだチョッカンで進むことに恐怖がある。

チョッカンが湧いた後、それを思考で評価することをストップすることに努力がいる。

それは、たぶん何事も客観視、反省、評価することを日課にしてきたような人生だからだ。

会社というところは、ふとこう思う、では話にならない。

こうでこうだから、と説明できなければ無能扱いされる。笑。

客観視も反省も論理的説明も必要だと言われてきたが、本当に必要なのだろうか?

百歩ゆずって反省しないことがあってもいいはずではないだろうか。

説明できない感覚だってあるのではないだろうか?

行動したことが、良かったか悪かったかは短期間で評価できるものではない。

転職もそうであるように・・・。

そもそも一生かかっても評価できるものではないかもしれない。

こんな風に相変わらず理屈(思考)で自分を納得させようとする自分がいる。汗。

もっと思考を減らして何も考えずに行き当たりバッタリで生きてみたい。

流れに身を任せて生きたい。

理由づけや評価を考えずに目の前のことを進めていこうと思っている。

いろいろな専門家が共通のことを言っていることについて、最後に思考と感覚の確認をしておきたい。

有名なAさんとBさんとCさんが言っているから、あるいは、〇分野のAさんと△分野のBさんと◇分野のCさんが言っているから、そうなんだと納得すること。

これと、

私の感覚、その説明できないことをそれぞれ専門のAさんとBさんとCさんが説明してくれている、と思うこと。

この二つは全く異なる。

前者は思考であり、自分の感覚がそこにない。

後者は、自分の感覚が先にある。

前者は、外にある正解の移植であり学習であり知識である。

学習して知識を持つから感覚が生まれるという側面がないとは言えない。

もちろん、感覚と思考はその両方が必要、というのは誰しもが納得することだろうと思う。

また、思考と感覚は非常に入り混じりやすいものだろうからこそ敢えて言っておきたい。

できるだけ前者でありたいと。

感覚を先行させること。

その後にその感覚と知識を照らし合わせるという順番だ。

感覚が先行すると後からの知識を否定することも、あるいは斜めにみることもできて、素の自分が包み隠されずにすむのだ。

先達も、感覚が先にあってそれを人に伝えるために思考して言葉にしている。

それが、自然に身を置いて祈り、感じたことを考える、山伏たるものである。

思考を先行させて半世紀を過ごしてきた思考人間の私は、まだまだリハビリ?が必要のように感じている。

また、こんな記事のように文字を使って書けば、思考を拡張してしまっているのだろうとも思う。

それでも、記事を書く時の起点が何らかの違和感、ひっかかり、それはチョッカンと言えるものから発生しているのもまた感じるところである。

これらを認識しつつ、もっともっと感覚を優先させて魂を輝かせたいと、あらためて思うのだった。

UnsplashFrançois Genonが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

初めてトレイルランニングの大会(道志村トレイルレース ハーフ約20㎞、制限時間6時間)に参加した時に、残り数㎞となってもロードと違って急登がいくつも現れて、進めど進めど終わりが見えず。

リュックの水はすべて飲み干し、喉はカラッカラ。

両足はつってしまったまま、制限時間まで残り30秒でカウントダウンが聞こえる中でゴールに転がり込んだことがありました。

あちこち痛くて苦しかったのですが、清々しくて体のどこかが喜んでいた記憶を思い出しました。

それが魂の喜びで、これが少し修験道に近い体験だったのかもしれません。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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