RYO SASAKI

私は弱さを知って強くなる

タナカ シンゴ

社会心理学は、社会というもの、あるいは組織というものが、個人の心にどういう影響を与えるかを研究する学問である。

私はこの学問に最近興味を持って、この学問の本を読み始めると止まらなくなってしまっている。

この好奇心はなにゆえのものなのかと考えた時に、その理由はどうも「人間の弱さを知りたい」からであると気づいた。

社会心理学では社会に翻弄される人の様を紹介するケースが多くて、そこに人間の弱さを知ることができる。

人の弱さを知ることは落ち込んだり、絶望するだけのように思われるのだが、そこに惹かれるのはなぜなのか?

自分の本性は弱いことを知って快感を得るマゾヒストなのだろうか?

いやそうでもないはずだ。

どうも、自分の弱さから逃げられないから、人間の弱さを知ってみんなそうなんだと、安心したいのではないだろうか?

自分の弱さの克服ができないから、弱さを知ることにメリットを見出したいのかもしれない。

今回も社会心理学の本に紹介されている人間の弱さをいくつか上げてみたい。

本能論 vs. 学習論

社会学者である清水幾太郎氏の『社会心理学』の発刊は1951年のことで今から約70年前の古いものだ。

旧漢字と旧仮名遣いがあるので読みにくい本なのだが、それでもどんどん読み進んでしまった。

この本が発行される少し前に、人間は本能影響が強いのか学習影響が強いのかという論争がされて、そこまでは本能論に傾いていたが、パブロフの犬の実験によって学習論に傾いた、という話が紹介されていた。

私のつたない知識ではどう考えても、本能も影響するし、学習も影響しているだろう、としか思いようがない。

影響の大きさを比較することも、どちらか一方を正しいとすることも非常に無理があるように思う。

また、学習論が正しいという結論は、人は何かできないことがあった時に努力をしていないことがその原因ということになってしまうから言い訳ができなくなって、しんどい人生になるだろう。

だから、そういう結論になって欲しくないと思う。

その論争はさておき、人間は本能論と学習論のような対立軸を作って白黒つけようとする生き物なのだと思う。

対立軸を作って議論することは理解を深めるから、大いに意味はあるだろうけれど、白黒はつかないだろう。

このことはこの後に出てくる人間が持っている単純化欲求にもつながるものだ。

本能にも学習にも一長一短あって、人間は本能にも学習にも振り回されるものなのだ。

ここに人間の不完全さがあり、人間の弱さを知ることができる。

子供が受ける影響

これは学習論の話にもつながるが、子供は日々親からの情報を浴びて、そこから大きな影響を受ける。

それはいい面もあるし悪い面もある。

虐待されたことのトラウマが子供の後の人生を苦しいものにしたりもする。

このことをこの本ではこのように表現している。

第一集団(家族を中心とする)の所有する行動様式は、幼児の内部へ直接にかつ深く食い込んで、この新しい生命を外部の法則のままに作り上げようとする。

また、幼い無力な人間は、外部の与える命令と条件とを受け容れることによって生きることができ、成長することができる。

当時の危機感が強く感じられる鋭いメッセージだと思う。

人は、法則のままに作り上げるものなのだろうか?という疑問が湧いてくる。

ともかく、人間は生まれてからの未熟な期間も長くて、周りの色に染まってしまう可能性が高い、非常に弱いものだということだ。

現代に至っても、未だにベストな教育のあり方が分かっていないところにも人間の弱さを感じるのである。

単純化欲求

人間は何かにつけて、結論を求めたい生き物であり、白黒つけたい生き物だ。

「要は何なの?」

そんなツッコミがすぐに飛んでくる。

現代は、スピードに追われるようになったので余計にそうなる。

ところが、現代は社会が複雑になり、白黒がつけられないことも多くなった。

複雑になっている要因の一つは、情報手段の発達によって世界を知ることができるようになって、自分や自分の周りだけの都合で判断ーこれは人間らしいことであるのだがーができなくなったことではないだろうか。

情報を知ってしまったから、発展途上国の子供の貧困が頭にひっかかるようになった。

そして、もう一つは物質が豊かになることで生活レベルに幅ができて、価値観をひとつに決められなくなったことがあるのではないかと思う。

これによって貧富の差や富の分配のあり様について意見が分かれることが必然になった。

このようなこと以外にも白黒つかないものが溢れているにもかかわらず、人間は白黒つけたがる習性が残っている。

白黒つけないと人間は不安なのである。

これは、危険を避けるなど、生きるために培ってきた習性でもある。

白黒つけることでは解決に至らず、争うだけになってしまうことが多いことに、また人間の弱さを感じるのだ。

社会・マスコミとの関係

次に、この人間の単純化欲求と社会やマスコミというものとの関係について、以下の抜粋を見ていただきたい。

かなり難解だが、これらの情報がつながって一つの像が浮き上がってくる。

ちなみに、この中に出てくる「偏見や紋切り型」というものは、マスコミによって作られている、あるいは、マスコミによって強化されている、という前段があって文面は続いている。

人間は個体として生まれた後に、社会的な行動および思惟の様式を学習して内部化することを通じて、次第にパーソナリティーになったのである。

外部にある既存の観念は、同時に、人間の内部に沈殿しているものであり、かくして、人間の外部と内部とは根本的に共通性を有し、両者は相互に呼び合い、また、招きあっている。

社会は、彼らが共通の行動および思惟の形式に従って生活していることによってのみ一定の形式をもって存在することができる。

社会が、その内部に生まれてくる人間の無力を利用して、人間のうちに現れる自然的諸力を組み伏せ、これを社会的鋳型に流し込もうとするのは、意識的であると否とを問わず、これによって社会存立の根本制約を充たすことを得るからである。

多くの社会に偏見や紋切り型が行われていることを直ちに人間の愚昧に放棄する試みは、人間生活の現実に対する無知に由来する。

偏見や紋切り型の支配の底には、現実の人間を捕まえている繁忙と疲労とが横たわっていると見なければならない。

疲労と繁忙との底辺にある個人は、偏見や紋切型へ向かって逃避することによって一時の安定を獲得する。

社会は、人間が好むか好まざるかに限らず、社会の型に人間を矯正して社会を存在させている。

その一方の人間は、外部にある社会のルールを自分のものとすることで生きている。

人は物事を単純化したいものだが、考える時間もないし、面倒で考えたくもないというのが多くの人々で、そこに無料で何も考えなくても流れてくるマスコミの情報がある。

日々、忙しくしていて疲労している人々は、マスコミとの相性が非常に良い。

人々はマスコミの偏見や紋切り型を答えとしてどんどん吸収して満足するが、同時に考える力を失っていく。

この本には、「マスコミが世論を作り上げる」という内容がシャープに書かれている。

オピニオンリーダーの一人だけが言っている情報が多くの人に伝わり、それを世論のように捉えてしまう。

そして、それを鵜呑みにする人が増えて、結局は雪だるま式に本当の世論が一律に出来上がってしまう。

昔、久米宏さんがキャスターに抜擢されたニュースステーションは、ニュースを読むだけでなく、それに対するキャスターの意見をハッキリ述べるという新しい番組、ワイドショーというフォーマットの元祖だと聞いたことがある。

この番組は、非常に評判になり今でも使われているフォーマットだが、この時大衆は自分の意見をもつことをせずに久米さんに任せてしまった、とも言える。

オピニオンリーダーによって世論が作り上げられる以外では、一方向からの事実を伝えることで世論を誘導する、という狡猾な手段も使われる。

人々は忙しさや面倒くささにかまけた結果、ありもしない世論という幻想を自分らの手で勝手に作り上げてしまい、その世論に支配されてしまう。

楽な方に流れ、努力を怠る、それによって、騙される、といった人間の弱さがここにも露呈する。

このようなことは当たり前すぎて普段意識しないことだから、余計恐ろしいことだと思う。

合理的な意思決定

アメリカの学者ハーバート・A. サイモンは、『意思決定と合理性』の中で、

人は合理的な意思決定はできない、と主張している。

非常に簡単にいうと、その人の認識限界があるから、その中で合理的だと思っている判断は合理的ではない、というものである。

自分が見えない部分は認識ができない。

後から振り返って見えない部分があったことがわかるものである。

自分を振り返っても、短期的な視点ばかりでそれが中長期的に見て合理的だったか、疑わしいものをいろいろと思い出す。

個別の弱さ

ここまでは、社会心理学が指摘する人間という生き物に共通する弱さを上げてきたのだが、ここからは個人の弱さについて見てみたい。

私の短所はいろいろあって切りがないのだが、その中の3つほど上げてみると、

・おしゃべり、うるさい

・理屈っぽい

・勇気と自信が足りない

上の二つは、ここ数年で周りの方から言われたことだ。

「機関銃のように話す」と後輩から言われたことがある。

「また、話が長くなるでぇー」と話す前に牽制された先輩がいる。

「うるさいから寄ってくるな」と毎回言われる先輩がいる。

どのくらい私が迷惑をかけているのかは本人に聞いてみないとわからないのだが、多かれ少なかれ迷惑な存在なことには違いない。

若い頃は、話をすることもできないし、判断も遅く、自分の意見すら言わない、というところが短所であった男が、今になって正反対の短所が現れている、ということについて思うのは、何て不器用な男なんだろうか?丁度良く社会に調和することはできないものなのか?ということだ。

最後の一つは、何となく自分の根底に流れていてなくならない感覚である。

総合すると、理屈っぽくよく騒ぐものの、肝心の行動については腰が重くてなかなか決断できない、という風に私には自分が見えている。

自信のない奴ほど吠える、という感じだろう。

話さないといけない状態がまた弱さであると思う。

このような短所は克服するものだと教え込まれてきたのだが、この期に及んで有り余る自分の短所、弱さをどうしていけばいいのだろうか?

いくら寿命が伸びたとしてもここまでの経験から、克服するには時間がなさ過ぎて絶望するに至る。

理屈っぽい自分としては、これに何とか解釈を加えて自分を絶望から救い出さないといけない。

弱さに向き合う方法

人間という生き物がもともと持っている弱さに加えて、更に個人の弱さの追い打ちがやってくる。 これにどう向き合えばいいのか?

自分の欠点が人に知られた時などに感じる恥について、

には、こんな記載があった。

自分の価値を他人の評価にゆだねたとき、恥はあなたの人生をのっとり、支配されるようになる。

恥を感じないのは、共感する能力と人とつながる能力が欠けている人だけである。

恥とは、自分の欠陥ゆえに愛や居場所を得るのに値しないと思い込む、激しい痛みの感情または経験である。

(むしろ欠陥ゆえに愛や居場所を得ることもあると思えるのだが)

傷つく可能性を追い払うということに、意識的にも無意識的にも人生のエネルギーを費やしていると、不確実性やリスク、そして喜びを受け入れる余裕をもてない。

これらのこともヒントにしながら、弱さに向き合う方法を私はこう考える。

結論からいうと、「とにかく人の弱さを知りつくすこと」であると思う。

自分の弱さを正直に隠さずに上げていくとその多さに愕然とすることになる。

弱さが多いのは何も自分だけのことではないと思う。

その弱さの多さゆえに、弱さを克服するなんてことはできない、という見地に立つことだ。

弱さが多いのは社会の要求レベルが高すぎるからなのであって、そんなレベルには答える必要なんてない。

ましてや、欠点だと認識する周りの人にも個人差があるから全部の人間に対応することなんて所詮無理な話なのだ。

弱さが見つからない人がいたとすると、相当無理している人だと思う。

無理は体に良くない。

この諦観(諦める気持ち)が大切である。

次に、弱さは同時に強さを包含している。

私で言えば、うるさいは「流暢」を併せ持ち、勇気がないは「慎重」を併せ持つ。

弱さを見つけ出した時に、同時に強さも見つけ出している。

うるさいが問題になるタイミングがあり、流暢が役立つタイミングもやってくる。

勇気がないことが問題になるタイミングがあり、慎重が役に立つタイミングもやってくる。

どんなタイミングにもピッタリ都合よくいくなんてものではない。

そして、弱さを知らないと周りへの優しさが生まれない。

弱さを知ると周りを理解できて時に人を勇気づけられる。

大きな迷惑をかけない範囲において、弱さがある方が共感できるものでもある。

一方の完璧に見える人はどこか胡散臭く感じられる。

弱さをつっこまれるとおいしい。(芸人ではないのだが、それは周りに愉しさを提供する)

弱さを知ると弱さがあっても人を好きになることができる。

弱さを知ると完全でなくても人を尊敬することができる。

弱さを知らないと有頂天に暴走する。

弱さを知ると暴走した時にすぐに気づいて謝罪できる。

先ほどの、弱さを克服する必要はない、と反対のことになるのだが、

弱さを知らない状態では気づかないから弱さを克服することができない。

弱さの改善は弱さの気づきから始まる。

弱さを克服しに行ってもいい。

それでもすべての弱さの克服は諦めた方がいい。

弱さの克服はほどほどにした方がいい。

人に何かの役割が設定された時、例えば親になったり、部長になったりする時に、その役割の人として出してはいけない弱さあるから、それを克服しないとならないという脅迫観念に晒されることがある。

しかし、弱さを覆い隠すことには、多大なエネルギーが必要になる。

だから、弱さがあることを恥だと思わない。

弱さがあることで揺らがない。

克服できないことを卑下する必要もない。

そのために、人生には不真面目さ、あるいは、いい加減さがどこか必要なのだろうと思う。

弱さは知っておくだけでいい。

ここまでの弱さに向き合う方法は、まさに私がもつ、勇気がなくて理屈に逃げるという弱さの露呈そのものなのだと思う。

それでも、「弱さが露呈して傷つくこと」から逃げずに向き合う勇気だけは持とうと思う。

こうして私はツラの皮厚く、「弱さを知って強くなる」のだ。

新しく、スタジオジブリ5作品の場面写真を追加提供致します

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

これからも自分の弱さを前向きに知っていきたいと思います。

それにしても1950~70年くらいの本の表現の鋭さにすごいものを感じます。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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