田中 新吾

話が「上滑りしそうな時」ほど、話をしてみる。

タナカ シンゴ

この前、こんなツイートをしました。

今日はこのことについて少しだけ。

話が上滑りしそうなポイント

僕は、会話をしていると「この人にはここまで言ってもわかんないだろうし、話す必要もないだろう」と思ってしまうことが結構あります。

「それ、自分も思い当たる!」というひとはぜひ考えてみて欲しいのですが、

そう思ってしまった時ほど、その後の会話が「上滑りしてしまっている」ことがないでしょうか。

上滑りというのは、会話に深みがなく表面的になってしまっていて、本心から会話ができていない状態のこと。

本心から会話ができていないのでそこで行われるコミュニケーションはまさに空虚です。

そこには何も残らないので、後で思い返してもいい気分になりません。

この会話の上滑りを引き起こすポイントは、「この人にはここまで言ってもわかんないだろうし、話す必要もないだろう」と思う瞬間だと僕は考えています。

そして、この瞬間というのは僕にかぎることなく、多くのひとが今までに何度も何度も出くわしていることだと思うんです。

それはなぜなら、あの岡本太郎が言っているように、ひととひとの間には基本的に「誤解」しかないと思うからです。

参照:理解されるなんてことがあると思うのが誤解。

話が上滑りしそうな時ほど、話してみる

会話をしている相手に、話す内容を完璧に理解してもらうことは本当に難しいと僕も思います。

でもだからと言って、一度話そうと思ったことを「この人にはここまで言ってもわかんないだろうし、話す必要もないだろう」と話さないでおくことは自分を欺くことと同意だと思います。

結局、会話の上滑りというのは自分を自分で欺くから起きていることであって、そこに相手はほとんど関係していないと僕は思うんです。

このように考えているからこそ、意識しているのが「話が上滑りしそうな時ほど、話してみる」ということ。

要するに「この人にはここまで言ってもわかんないだろうし、話す必要もないだろう」と思ってしまった時こそ、あえて話すようにしているんです。

これは自分を自分で欺きたくないからというのが第一義であるので、それが理解されようとされまいとどっちでもいいんですが、不思議と話した後はだいたい「やっぱり話してみてよかった!」と思っていることばかりなんですよね。

なんで自分がこのように感じるのかはよくわかりませんが、一つ言いたいのは

「この人にはここまで言ってもわかんないだろうし、話す必要もないだろう」と思ってしまっているその話を、してみる必要は案外あったりするのかもしれませんよ。

ということです。

さいごに

岡本太郎の言っていることは本質を突くものばかりで、いちいち刺激を受けます。

例えば、このツイートに書いた「人の目は自分の目」という話もそう。

他者が自分を理解することはない、と思うと最初はなんだかげんなりしてしまいましたが、「そういう前提である」と思うと急に肩の力が抜けて楽になったのを今でもよく覚えています。

色々と名著がある中で「孤独がきみを強くする」はもっとも好きな本です。

読んでない方がいましたら、お休みの日などにぜひ手にとっていただければと思います。

それでは今日はこの辺で。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとって、何かしらの参考になったら幸いです。

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