贈与と共にあることを認識すれば世の中は輝く。
ここ最近の記事には、ロードバイク店の店員さんから買い替えをお勧めされなかった話や香港旅行で平日の明け方までウェルカムパーティーにお付き合いいただいたという有難い話を書いた。
これらのことに私はそこはかとない幸せを感じ、同時にエネルギーをいただき、これがお金では買えないものであることを思い出したのだった。
ここまで、お金というものの便利さを受け取ってきたにもかかわらず、やはりお金だけでは不十分であって、どこまで欲深いんだろうか?などと自分に冷ややかな目を向けてみるのだが・・・。
それでも、まちがいなく心が求めているものであることを認識せざるを得ない。
嘘をついて心を圧し殺すような器用なことはとてもできないのだ。
この心が求めているものとは何なのだろうか?
お金では買えないものを「贈与」と呼ぶことを新進気鋭の哲学者の本から後で知った。
世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学
今回はこの「贈与」というものを知ることで私の心が求めているものに近づいて、少しでも日常生活に取り入れてみたい。
等価交換とは何か?
損をしたくない、と必死になっているのが日本人の特長にあるのではないのか?
これは一部しか見ていない私の偏見かもしれないのだが、物事をキッチリ進めないとならない真面目な日本人にそのことを感じるのだ。
そして、私がその日本人の最たるものなのではないか?
そんな風にさえ感じてくる。
お金が増えて、豊かになっていった?そして、お金が主役になった時代を生きてきたから、その影響を受けている、という面が大きいのかもしれない。
そんなんだから、私は突然目の前に現れたお金では買えないものに妙に新鮮さを感じたのだろう。
僕たちはみんなで会社を経営することにした。
こちらの本には、本のタイトルとはちょっと異なる以下のような記述があった。
お金の支払いが行われた瞬間に関係性というものは終了してしまうものです。
お金で取引しなければしないほど信頼関係が深まるものだと思います。
お金とは信用のことであって、その信用を蓄積できていろいろなものに変換できる便利なものだ。
その一律の信用のもとの取引は、数字で価値の大きさ(価格でしかないとも言えるが)が捉えられるから、等価交換が可能、そしてみんなが嫌う不正(行き過ぎた損得、不等価交換)もあぶり出しやすい。
また、簡単に取引ができるから、手離れが良くてサッパリしている。
サッパリしていることは自分が嫌がる人に関わらなくてもいいから、これまたなんとも便利なものである。
人と人の深い関係性をあまり必要としない。
例えば、コンビニがロボット化されていくシーンを想像すると、人と人の信頼などというものではなくて、お金だけが信頼を担っているんだなあ、と納得する。
そうだ、お金だけに人が本来持つ信頼を譲渡してしまうから、お金が人の信頼関係を希薄にしているということになるのだ。
お金の便利さは、私の感じる不足さももたらすという矛盾に突き当たった。
心が求めているものは、信頼関係であった。
信頼関係は双方のものだが、これを私の一方から見ると、いかに無知をさらしても、騙されないという安心であり、いざという時に助けてくれるという安心でもあり、自分が他の何かの役に立っているという安心でもあり、警戒なくお付き合いができるという安心である。
これは、これだけギブしたから、見合った分だけテイクできる、という等価交換という計算上の安心ではない。
ギブアンドテイクを無視した安心なのだ。
お金に人間関係を希薄にしてもらって清々した私が、同時に人間関係の希薄に不足を感じている。
何ともわがままなものだ。
それでもこのわがままを何とか貫こうとすると?
お金が介在しない取引、これは不等価交換であって先の「贈与」にあたり、これによって信頼関係が深まるものだ。
心が求めるものは、贈与、不等価交換によって埋まるということにひとつの着地をみる。
裏を返せば資本主義に則って隅々までの有料サービスが行き届けば行き届くほど信頼関係は希薄でよくて、もし仮にすべてのことがお金の取引で獲得できることになるならば、信頼関係は不要になるとまで言えるのではないだろうか?
そして、人には常に裏切られるのではないか?という不安がつきまとい、ギブアンドテイクを等価交換させなければならない、と強迫され続けることになるわけだ。
我々は、損得に厳密になり、損したくない、と必死になって生きていますが、これまで受けてきた親の恩、恩師の恩、ご先祖の恩、自然の恩などを考えると損していると言えるのでしょうか?
時間軸や空間軸を拡張すれば不等価でもいいと気づけるはずで、どんどんヘルプやシェアをする気になりました。
もう誰から受けて誰に返せばいいのかわからない方が気持ちが楽です。
次は、気が付かない恩恵=贈与をたくさん受けて生きているのではないか?という問いかけだ。
もともと無償の贈与を受けているのだから、等価交換にこだわるならば計算する必要もなく、返していくしかないという見方ができる。
このことは香港での恩を四半世紀ぶりに今お返しした、という記事につながった。
見方を変えて世の中をみると
世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学
こちらの本には以下の内容が書かれている。
世の中に当たり前にあるもの、それは気づかないが贈与されたものだらけである。
それに気づけば贈与された恩を他にパス=贈与することが自然なのだ、と筆者は言う。
確かに時代が違えば今の当たり前の恩恵を、受けられなかったとも言える。
だから、自分が何かを得るために何かをする、というような順序はおかしくて、すでに受け取っているものに対して返すところから始めなさいと・・・。
更に、教養とは歴史というものが贈与の偶然性によって造られていることを認識することであり、この教養をもってメッセンジャーとしてに贈与に加わるべきなのだと。
貨幣経済と贈与経済を別物として認識し、貨幣経済を否定するというのではなく、贈与経済を躊躇なくバランスさせることで貨幣経済に委譲してしまった人々の信頼関係をとり戻そう、私にはそう言ったメッセージと捉えることができた。
さて、ここまで勉強して解釈しないと自分が感じるそこはかとない幸せ、当たり前にある贈与というものが何なのかわからないとは、何ということなのだろうか?
自分を情けなくも思うが、貨幣経済がすべてだと信じてそれに飲み込まれてきた結果なのだろうと自分の過去を振り返るしかないだろう。
今わかったから良かったじゃないか!?と慰めることでいいのだろうと思う。
お金は便利でそれがないと生きていけないから貨幣経済が万能だと神格化してしまう。
このようにして知らぬ間に狭い窮屈な世界に閉じこもることが簡単に起きるものなのだ。
そして、こんなことも感じる。
世の中の出来事が、等価交換だけでできていたらそこに感動があるのだろうか?と。
世の中は、贈与という不等価交換によって損得によって、感動も起こるし、信頼が深まるものなのだ。
私はこの新進気鋭の哲学者などの概念(意味づけ)を得て、自分の求める物が何なのか?鮮明にすることができた。
ルドルフ・シュタイナーは人間の進化は二項対立という概念の創造にあり、その対立に立ち向かうことにある、と言った。
まさに、貨幣経済と贈与経済が二項対立の創造のひとつでこの創造によって自分の狭い世界が広がるのだ。
この二項対立に向き合うことで、より世の中が輝いて見えるだろうし、自分ができること、特に贈与について迷わずにやっていけるだろうと感じて、遅ればせながらこれからの自分に期待し始めたところだ。
なぜか、これについて結び付くことが方々から急に集まってきたので、次回もこの贈与について、今度は量子力学的な視点や利己的か利他的かという二項対立の視点から考えてみたい。
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
贈与は本能に刻まれていて自然に振る舞えるもののはずです。
それに何も疑問を持たずに実行している人から私は、「何を四の五の」と言われること請け合いでしょう。汗。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
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