自分を敢えて矛盾状態に置くことで、抑制と作為からの解放を試みる。
振り返れば、このブログでは自由とか独立とかといった言葉をよく使っている。
そんな言葉が繰り返されるのは、自分という者がこれまでよっぽど不自由してきたことの現れとしか考えられない。
自分は長い間、どこかの収容所にでも入っていたのではないだろうか・・・。
そうそう、思い当たるのは・・・いやいや、それはともかくとして・・・汗笑。
今回出てきた言葉は、また「抑圧と作為からの解放」というもの。
そのキッカケになったのは、ある若者が中学生の時に書いたという文集の話だった。
文集のタイトルは『矛盾』。
タイトルだけ聞いてまず浮かんだのは、自分が中学生の頃にそんなタイトルのものを書けただろうか?いや、書けなかったのだろう、という思いだった。
そして、矛盾という言葉は、いい年になった今でも私の中で決着がついていないものだ、という思いが続く。
更にツラツラと思いをめぐらせていると、これまで埋もれていた子供の頃の記憶がよみがえってきたのだ。
文集『矛盾』
若者の文集「矛盾」から一部抜粋する。
夏までは休みのない日々を辛いと感じていたが今は楽しかったと思う。
自分が何をしたいのかわからなくて、適当に過ごしている日々は、生まれて初めて寂しい日々が過ぎている。
中略
将来を考えると希望しか持てなくて、でも現実を考えると絶望しかなくて一杯になって矛盾する毎日~
中略
今まで積み上げてきたものを全部壊したくなったり~大切なところだけ増やしたり~そうやって毎日が矛盾に矛盾して、混ざりあっている。
忙しい部活は苦しくもあるが楽しかった。
その強制がなくなると自分ではどうしたらいいのか急にわからなくなる。
そこから、どんな将来を歩むべきか、急にわからなくなる心の迷いが書かれている。
あれもいいけどこれもいい。
あれも欲しいしこれも欲しい。
どうしたらいいのかわからなくなる。
このような矛盾に悩むようなことは、大人になっても変わらずあることなのだと思う。
わかりやすいのは、痩せたいし食べたい、とか。
珍しくないのが、逆に普遍的な問題だと言える。
確かにこれと似たような感覚が自分にもあったはずなのに、私がこの『矛盾』をテーマに文集を書くことはなかったのはなぜだったのだろうか?
この若者が今この文集に思うところを聞いて、その理由がハッキリした。
「今思えば、チャンと真面目に書いてるところがハズイですね・・・。」
なるほどなるほど・・・。
中学生にもなると、文集なんてものに真面目に向き合わなくなる。
確かにそうだ。
先生に対しても親に対しても何なら社会に対しても何となくわかっているような自分を無難に表現する。
むしろ矛盾なんてものは自分にはなくて、うまくやっているように思い込んで上っ面だけで終わりにする。
そうする背景には本音を吐くことの恥ずかしさ、本音が弱音のようで周りからバカにされる、というのは何としても避けなければならない、という思いがある。
そんな自尊心だけが強くてこの若者のように自分の思いをトレースすることをしなかった。
イタイのはそんな自分が真面目ではなかった、などと一切思わなかったことだ。
これがこの若者と私の違いである。
私はその時、向き合わなかったから今になって向き合わなければいけないことになっているのかもしれない。
人生は何事も一回通らないと厚みがでないものなんだろう。
だから、今更になって恥を忍んで書いている。笑。
私の文集は多分何となく無難な言葉を並べた薄っぺらいものだったのだと思う。
本音で書いてないものだから、全く覚えていない。汗。笑。
抑制と作為
さて、当時の私はそんな風にして本音というものに、よく言えばクールに距離をとっていたように思う。
それがクールな大人というものなんだろう、ってな感じで思っていた。
クールに振る舞うことも含めて、これはどこにでもいる子供の成長の歩みと言えるんだ、と納得しかかったのだが、どうもこのことが今になって引っかかる。
それは、そのクールさに抑制と作為があった!ということ。
本音と向き合うことを抑制し、自分の本音ではないことを作為する。
大人になるために、社会の中で生きるために(感情を筆頭とする様々な)抑制、そして、作為が必要なものだ、と誰しもが言うだろう。
確かにその通りではあるのだが、今になってはこの抑制と作為が自分の本音あるいは感覚を塞いできてしまったのだ、と感じる。
抑制と作為は既に子供の頃から始まっていたのだ。
抑制と作為を大きくしていくということは、世の中の常識、あるいは世の中の平均というところに向かっていくことになり、常識や平均に自分を収れんしていくということだ。
その抑制と作為の行きつく先は、自分らしさ、あるいは誰もが持っているアーティスティックなところの去勢である、とすら思えるのだ。
長いこと抑制と作為の中に生きると、自分の本当の気持ちがどこにあるのかわからなくなってしまい、吐き出すことができなくなる。
自身、結構時間がかかっているからそう思う。
本当に開放された時の自分らしさ、清々した感覚をわずかながらでも感じると、そこに抑制と作為がないことがわかる。
抑制も作為も全くせずに周りとやっていくことは当然無理だけれども、抑制と作為を薄くしていくことはできる、とでも言った方がいいだろうか・・・。
逆に抑制と作為を厚くしないと機嫌を損ねてしまう人には気疲れしてしまう。
いろんな人の会話を聞いていると、日本人の大人の中で言いたいことを言っている人が一体どのくらいいるのだろうか?と思えてしまう。
全体が厚い抑制と作為に覆われていておよそ健康には見えない。汗。
それを目の当たりにするにつけ、自分は抑制と作為に飲み込まれてはならないと身を引き締める?いやむしろ身を緩める?(笑)のだ。
矛盾を抱えて胸を張る
抑制と作為の分かりやすい例がある。
冒頭の『矛盾』について。
多くの人には人間は矛盾してはいけない、という前提があるのだと思う。
しかしながら、矛盾をなくすということは、人間にとって抑制的であり作為的なものである、ということだ。
矛盾がなく首尾一貫しているというのは、どうひっくり返っても人間として不自然なものだ。
人間はロボットではないのだ。
急に気が変わったり、時に言ってることとやってることが違って見えるようなこともある。
それが抑制と作為が入らない自然な状態であってそうなっている時にいろいろな発想を思いつく。
確かに、組織の中で、人と共同で何かをなそうとする時、人はある程度首尾一貫していないと、物事は上手く進まずにとても面倒な奴とされて厄介なことになるだろう。
それはその時にだけ抑制と作為によって矛盾を控えればよいのだ。
単独の思考や行動においては大いに矛盾していい。
それが本来の姿であるはず。
周りから、筋がないやら、サイコパスやら、と批判はくらうんだろうけど・・・。
共同で何かをやることが前提だから、人は常に矛盾しない人であろうとしなければならなくなる。
常に矛盾しないようにする人生と矛盾を受け入れる人生ではストレスもずいぶん違ってくるように思う。
さて、今の自分の抑制と作為はどこまで薄くなっているものだろうか?
これからどこまで薄くすることができるのだろうか?
それで思いついたのが、自分の中に敢えて矛盾を作る、という試みだ。
たまたま、最近かじった投資においてその機会が目の前に現れた。
大人気のアメリカの半導体メーカーエヌビディアという銘柄。
エヌビディアの半導体がAIに使われて好業績なんだとか・・・。
でも、実は私にはAI自体を結構疑問視しているところがある。
例えば、AIに学習させると言っても、人間がフェイク情報に、そして情報の切り取りに騙されるように、インプットされる情報の偏りによって、判断が違ってしまうのは同じなのだから、何を学習させるかの合戦になって、結局は代理AIによる思想の戦いになるのは変わらないのではないか?
ひとつの思想をAIが出した正解だとして強要される怖さがある。
また、自動運転では自動運転中、右の人にぶつかるか、左の人にぶつかるのか、その二択のいずれかを回避できないような事故の場合、どんな倫理感でもっての判断になるのか?(トロッコ問題のような)
気になるところがいろいろある。
日々進化しているんだろうから、私の疑問などはかなり上っ面に過ぎないのかもしれない。
それでも、少なくともこのようにAIの問題を捉えているのだから、投資先に選ばない、というのが首尾一貫した矛盾のない状態である。
更に私は、何事においても流行りモノに初期段階から乗っかることがほとんどない、レイトカマー(新製品がずいぶん出回ってから遅れて購入する)でもある。
良く言えばずーっと慎重モットーでやらせてもらっております。笑。
今回の試みは、これらの私の首尾一貫に風穴を開けて、エヌビディアを投資先に選ぶ、というものだ。
※既に現時点でのエヌビディアは早い段階とはとても言えないのかもしれないが、レイトカマーである私においては十分早い。汗。笑。
それは、(私としては)問題があるし、そして、ありえないタイミングでもあるのに、投資先にして自分の中に敢えて矛盾を抱えてみる、という一種の荒療治のようなもの。
この自分の中の居住まいの悪さを自分が受け入れることで、矛盾に慣れるようにしたい。
矛盾を抑制せず、矛盾解消のために作為もしない。
たまたま、この矛盾の受け入れが自分の中で盛り上がっていた時に株価チャートを見てしまっていて、ポチッと押してしまってあとの祭り・・・。
何も投資で試みなくてもいいだろうに、とあとから後悔する・・・。
自分の中に矛盾を作るために投資銘柄を選ぶ人なんて他にいるんだろうか?汗。
どう見ても投資をなめている、とお叱りを受けそうなことだ。
こんな投資の仕方では絶対に上手く行かないんだろう。
それでもだ!今の私にとっては自分の中に矛盾を作ることが、投資リターンよりも優先なのである。
いろいろ言い訳するも苦しい。
思い返すと、今回のエヌビディアは私が自社株以外で購入した初めての個別株になる。
その初めての個別株が半導体生成AI銘柄というよりは、私にとっては生成矛盾銘柄として記憶に残ることになってしまった。
上手いことでごまかそうと試みるも、また苦しい。
結局この先のどこかで、投資の痛みがフィードバックされることだろう。
これらすべての言い訳が居住いの悪さを解消しようとする作為だ。
もう作為はやめた、やめた!
最後に
今回の試みを眺めてみると、単に今までのように自分が作為した時には選択しなかったものを選択した、とも言えるわけで、それは私がこれまでに選択したことのない新しいことに広げていく、ということに他ならないのだなあ、と思いました。
更に簡単にすると自分にとって変なことをやること。
世の中には、「迷った時は苦労する方を選びなさい」という人もいるけれど、私はまだそこまではいけないかな、と。
まだっていつだったらできるんだよ!?笑
ともかく、これをキッカケに自分の中に矛盾するものを入れ込んでいきたいと思います。
Unsplashの愚木混株 cdd20が撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
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