「集中力を高める」ことは、「人生に後悔なし!」にきっとつながるはずだ!
私は、子供の頃から落ち着きがなくてじっとしていられなかった。
この私の資質?のことは以前にも書いたことがある。
そんな私も、人生の後半になってやっと、「一体どこまで未来の不安に怯えてそこに予防線を張り続ける人生を送らねばならないのか?」という疑問が強くなってきた。
この疑問が、「(好きなことに)没頭する時間」というものを意識することにつながったところがある。
「没頭する時間」は、未来のための準備ではなくて今を生きる時間。
それは周りから独立した贅沢な時間でもある。
「(好きなことに)没頭する時間」を持つということは死に際に後悔しない重要なポイントなのではないだろうか?とさえ思うようになってきた。
最近感じた、この「没頭する時間」につながること。
それは、会食の時、話が盛り上がれば盛り上がるほど、料理の味の印象が薄くなる、というものだ。
やはり私は複数のものの並列処理ということが無理だったのだ、ということをまざまざと認識させられた。
もちろん味の印象が薄いとは言っても体は感じて喜んでいるんだろうけれど頭は認識できない。
会食というものはまあ味にだけ集中しなくてもいいようなものなんだろうけど、話すと味わう、という複数のことが混在するようなイベント?は、散漫になりやすいと理解しておいた方がどうやらよさそうなのだ。
この話に、とある飲食店の店主が激しく同意してくれた。
その店主も味わうことを優先する時は家族や友達とではなくて一人で食べにいく、と言う。
今回は、このことをキッカケに「没頭する時間」を持つための「集中力を高める」について、考えてみることにした。
接待と地方出張にみる集中と散漫
クライアントの接待がわかりやすい例だろう。
商談を有利に進めようと常に張りつめてクライアントの一挙手一投足を観察しているから料理の味が全くしない。笑。
地方出張にも似ているところがあるだろうか。
仕事のわずかな合間に、その土地の美味しいものを食べたり、近場の観光をする時間を何とか捻りだして、そそくさと向かったことがあったが、頭の中で仕事のシミュレーションや時間に追われるため、どこか上の空で味わえた感じがしなかった。
それは何となく話のネタになれば、というくらいのうっすいものだったのだ。
更に言えば転勤で岡山に一年だけ住んだことがあるが、岡山を味わったという感覚がなくて、仕事によってずっと気もそぞろだった、という感覚だけが今も強く残っている。
こうしてみるとこれが私という者の不器用極まりないところであって、この不器用さゆえに、世の中の上っ面だけをたくさん経験してきたように思う。汗。
このことは仕事に集中していたことの現れでもあるのだが、残念ながら仕事以外のことにはとことん散漫なまま生きてきた、と言える。
折角の人生なのだから、仕事以外のことも味わいたいし、それもただ美味しかった、綺麗だった、というだけでなく深く味わいたい。
恥ずかしながら、今になってこのようなごくごく当たり前のことを言いたくなってしまった。
集中力を高めるには
ここまでのバラバラとした話から、何とか「集中力を高める」ために必要なことについて考えてみよう。
「集中力を高める」ことは、冒頭の「没頭する時間」を持つために必要で、人生を深く味わうために必要なことである。
ここを起点にして始めてみる。
まず、「集中力を高める」には一度に複数のことをしないようにする、ということだ。
食べながら話す、などというように複数のことを一緒にするとどちらかが薄くなるし散漫になる。
とかく現代人は予定を詰め込みやすく、複数のことをやってしまって、両方を味わっている気になっているように思う。
少なくとも私にはそういうところがある。
人生を深く味わうには、焦って欲張ってはならないのだ。
これは何も「会食するな!」と言いたいのではない。
会食に関しては話に集中する時は味の方は諦めろ!と自分に言い聞かせておくのがいい。
これか踏ん切れるとお安~い店で済んでしまう、というメリットが得られることになる。笑。
会食相手に理解してもらえるとはとても思えないのだが、・・・汗。
次に集中できない理由を経験から探ってみると・・・
集中できない理由は、やはり集中すること以外に気になることがあるから、ということに尽きるように思う。
気になることとは、例えば今抱えている課題や不安(恐怖)、あるいはやらなければならないこと(以降MUSTと表記する)、などと表現できるかもしれない。
前述のように仕事の課題や不安やMUSTがあると、別のことにはなかなか気が回らない。
課題の解決方法を考えさせられてしまい、不安をどうしたらいいか?を考えさせられてしまい、やらなければならないことに引き戻される。
これでは他の好きなことに集中できやしない。
これが若き日の自分だ。
とすると集中するためには、課題、不安、MUSTを減らす必要がある、という理屈になるわけだ。
なるほど・・・私はビビり(よく言うと慎重?)だから、いろいろなことが気になって集中ができづらいんだろう。
ヒビリは集中力が低い!
単純にそう言えるんではないか?
ならば、逆に集中することに対して私は糊代がまだまだあるということだ。
何とか自分を勇気づけて、課題、不安、MUSTを減らす方法を考えてみることにする。
3つほど上げてみる。
・不安の払拭を経験すること。
人は最初は無知で真っさらだから不安だらけなものだ。
それがその不安を払拭した経験をすることで、不安は減ることになる。
減ってもまた新しい不安が作られるものではあるのだが、それでもその後の同等な状況において経験している分、不安は減ることになる。
これはよく聞いてきたことでみんなが多かれ少なかれやってきたことだろうと思う。
・欲張らないこと。
あれもこれも欲しくなると、不安とMUSTが大きくなるのは必然である。
ほどほどにした方がよい。
これをこんな例で説明できるだろうか?
会食についてのこと、世の中には美味にそんなにこだわりがないという人がいる。
そのような資質?の人は逆に会話や他のことに集中しやすい状態にあると言えるのだろう。
つまり、欲が減ると特定のものだけに集中しやすくなる。
そしてこれは賛否分かれるところでもあるとは思うが、高い目標を持ちすぎないということ。
やっていることが好きだ、ということと、その好きでやっていることによって設定される目標の達成というものは別物である、というようなことは往々にしてあるものだ。
例えば歌で食っていこうとした歌手志望が、歌いたい歌では売れないので歌いたい歌でない曲を歌って売れないとならない、といったようなことだ。
厄介だが人生には、本当は何が好きなのかわからなくなるような瞬間や原点回帰しなければならない、というタイミングが訪れるものなのだろう、と思う。
この好きなものと目標が別物でねじれることについては厄介なので今回はこの入口で留めることにする。
※ちなみに、増えるMUSTを組織を作るなど他人に任せることで解消している人が当たり前にいることを加えておきます。
・運に自分を委ねること。
ご存知のように人生には、自分の力で変えられるものと、自分の力では変えられないものがある。
後者に対して何ともならないのだから、そのことを認識しないと不安は常につきまとう。
どうしようもないものを認識して、それに対しては受け入れて、身を任せることだ。
適切な例とは言えないのかもしれないが、バンジージャンプで恐怖を受け入れて信じて飛ぶような感じとでも言おうか・・・。
後ろ向きに言うと諦める、前向きに言うと納得する。
そうすると不安は減るはずなのだ。
さてこの3つの方法を上げてみて、特に自分自身で意外だったのは3つ目の「運に自分を委ねること」だった。
意外だったということは自分が一番できていないことなのだろう。
これは、自分を自分でコントロールしたい、という私の欲の現れであって冷たく言うと人としてバランスが悪いように思えてくる。
これまで、「運に自分を委ねること」という言葉に対して、自分は努力しない、責任放棄、という意味合いだけが強く刻印されてしまっていたからか。
どう見ても人生というものは運の影響を大きく受けているにもかかわらず・・・。
そして、いろいろと先の不安にビビっているが、その多くは実際には起こらない。
そしてまた、時に自分の不安以上のとんでもないことも起こってはきたが、状況を受け入れて何とかやってきたのもまた実際のところだ。
この辺に、私の固定観念がまたあったようで、この辺が、私の糊代なのだとしておくことにしよう!
最後に
不安を減らそう、とは言ったものの、もちろん不安が転ばぬ先の杖になることだってある。
不安を持つことは人間が生存するために必要な資質だから、減らすなんてことは簡単なことではないように思える。
また、個人差もあるから、人と人を比較して優劣がつくものでもないようにも思う。
それでも、考え方次第で過剰な不安を減らすことができるのだ、と今の私には思える。
この気づきは環境に適応しながら遺伝子が受け継がれ、数百年、数千年で変わっていくための、初めの一歩に過ぎないのかもしれない・・・。
最後にずいぶん大袈裟なことを口走ってしまったが・・・。汗。笑。
さて、ここまで見てくると、落ち着きのなく、ヒビリの私は「慌てる乞食は貰いが少ない。」状態でずっと生きてきたのではないだろうか?そんな思いがよぎる。
人と比較のしようはないのだが、常に不安に駆られてドキドキして慌てて生きてきた。
その名残を今でも感じる時がある。
ずいぶん時間がかかって、遺伝子のタスキももはや手遅れなのだが笑、それでも自分だけの残りのために、慌てずジックリと目の前のことに集中して生きたいと思う。
それがこの人生で良かった、と言うことにつながるはずなのだ。
そうそう、このブログを書いてる時間が私にとってまさに「(好きなことに)没頭する時間」!
UnsplashのThomas Hetzlerが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
なぜ文章を書くなんていう面倒くさいことが好きなんですか?
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