森の中でメッセージを受け取る~何かに気づくために必要な人が現れる
コロナ渦、家にこもりっきりだった頃のこと。
身体がとあるシグナルを発したかのように無性に自然の中でウォーキングしたくなって、それができる場所を夢中で探したことがある。
公園で十分だろう?
普通の公園であれば近場にもたくさんあるのだから。
頭は合理的な選択を提示してくるのだが、身体がそれでは物足りず、もっと”チャンとした森”を求めていて止まらない。
”チャンとした森”とは何なのか?というと・・・
後から言葉にするとコンクリートが見えないほど森林でセパレートされた自然空間とでも言おうか・・・。
そんな”チャンとした森”となるとなかなか見つからない。
探しているうちに、家からどんどん離れていってしまうのだ。
ただそれだけの場所が、実は私にとっては結構贅沢な場所だったのだ、といまさらながらに気づく。
都内の便利なところに住んでいるのだから文句は言えないのだが、便利は捨てられないけど自然も欲しい。
欲深い自分に苦笑いする。
何とか横浜のはずれに小さな森を見つけて、通うようになった。
その森は、広大な住宅地の脇に突然現れる。
それでも、アップダウンのある山道のようなコースがいくつかある。
最も長いコースでも往復3㎞程度の小さな森だ。
ある初夏の早朝、その森をいつものように歩き出した時の話。
進んでいくと少しずつ汗ばんではくるが、たまに吹き抜ける早朝のそよ風が、そこまでの不快を爽快にリセットしてくれる。
その爽快に今度はビンズイの「チッチ、チッチ」という高音の鳴き声が響いて、なんとも心地よい。
上り下りがきつくなって、息が上がり始めた時、目の前に急に竹林が開けた。
初めての時は、鎌倉の報国寺、通称竹寺の立派な竹林を思い出して、この小さな森にあることを全く意外に感じたものだ。
画像出典:約2000本の竹林が広がる鎌倉・報国寺「竹の庭」で優雅なお抹茶タイム【2024年1月10日更新】
竹林というものに荘厳さを感じるのはなぜだろうか?
そしてまた同時に落ち着いた気持ちにさせられるのはなぜだろうか?
落ち着くのは、竹が出す芳香物質によるものだとはいうが、受け継いだ遺伝子がそう感じるのだ、と言った方が自分はどこか腑に落ちるように思う。
そんなどっちでもいいようなことを考えることで、私は登坂のしんどさを紛らわしているのだ。
そんな快と不快の刺激が、多分コロナ渦の身体に必要だったんだろう。
どんどん何かから解放されていく自分を感じた。
この森は横浜市のものらしい。
周りのほとんどを住宅地に囲まれている中で、ここだけ小さな森が残されていることにその希少さと有難さを感じた。
目標を追いかける
進んでいくと少し前の人影に気づく。
早朝に他の人に会うのは珍しいことだ。
その後ろ姿からある程度年配であることはすぐにわかった。
追いつく目標としてちょうどいいんではないか!
そう思って追いかけることにした。
山道はクネクネと曲がっているので、その目標は木々に消えてはまた形を表す。
そのうちに近づくだろうと思いながら進むも、見えては消えて見えては消えて、を繰り返してなかなか近づく感じがない。
「速い!?」
少しスピードアップして追いかけてみるが差が埋まらない。
こんなにも私の脚力が落ちていたのか・・・なんとも情けない。
このもどかしさの最中、なぜだか過去のいろいろな記憶が思い出された。
思うに私の人生とはずっーとこんなようなものだったのかもしれない。
常に目の前に目標があって(今回のような目指す人というだけに限らず、人生の、あるいは仕事などすべての目標に対して)、それをずーっと追いかけてきた。
そして、追いかけるが届かないケースの方が圧倒的に多かった。
届かないのは、目標が無謀だったからか、私の能力が足りなかったからなのか?
目標を追いかける日々は、充実していたとも言えるが、一方では辛く苦しかったように思う。
その辛さが刻まれているからか、私が見る夢は最近でも掲げられた目標がどうしてもクリアできない、というものばかりだ。汗。笑。
例えば、こんな支離滅裂な夢もあった。
全く別の場所にある二つの車を同時に身ひとつで運転して目的地まで移動させる、という目標が設定されている。
私は二つの車の運転席を交互にワープしながら(夢ならではの)運転するも、当然ながら運転席にいない瞬間の車は制御不能となって周りにぶつかって事故になる。
そして、私は損害賠償させられる。
ずいぶん理不尽な目標が設定されたものだ。笑。
こんな夢が繰り返されるのだから、私は当時の目標が本当は相当嫌だったのかもしれない。
当時はそれが当たり前だとすんなり受け入れていたように記憶しているのだが。汗。
思いこんだ記憶と本心は異なることもあるのだろう。
それによって目標アレルギーのようなものが残っている・・??
その後、確かに目標を設定するということから距離を置くようになった。
目標設定して達成を目指すだけでは、今を生きていない、などと都合のいい解釈を見つけてきては自分を正当化しているところがある・・・。
大先輩はなぜ歩いているのか
そんな思いをめぐらしていると、見晴らしがいい場所に出た。
確かそこには木のベンチが設置されていたはずで、いつもここで一息ついている。
目を向けると朽ちかけたベンチに先客がひとりいて、それは先ほど目標にしていた年配の男性だった。
私も座って水分補強をする。
この時点で既に、その男性の脚力に勝手に降参していた私だったから、その男性に興味が湧いて声をかけてみる。
「こちらにはよく来られているんですか?」
その男性は、家が近くで雨でない限りはほとんど毎日来ている、という。
(やはり、継続は力なりか・・・)
さらに男性が続けた話によると、その男性は88歳の時に病気もあってひとりでは全く歩けない状態だった。
ずっと諦めていたが、それではいけない、とある時一念発起して杖をつきながらも少しずつ歩き出したのだ、という。
最初は数十メートル歩くのも難しかったが、徐々に歩けるようになりそのうち杖も外れ、この森でのウォーキングが日課になったんだとか・・・。
現在91歳!!
ということは3年弱も歩きを継続してきたのだ。
「なぜその時に急に歩こうと思ったんですか?」
私は、子供のように配慮に欠けた質問を重ねてしまった。
「歩けるようになりたかったもんでね。」
それはそうとしか返しようがないだろう。
その男性はそう言ってわずかに微笑んだように見えた。
そしてすぐに「お先!」と言うとその後ろ姿はどんどん小さくなっていった。
その微笑みから私は、その男性の大きな安堵とほんの少しの誇りが感じられた。
最初に後ろ姿を追った時から、結構な年齢だろうとは思っていたが実際の年齢には驚きだった。
私は91歳にも追いつけないのか・・・。泣。
愕然として苦笑いさえもできなかった。
大先輩からのメッセージ
大先輩はなぜ一念発起したのか?
その心の内は知る由もないが、とにかく歩けるようになりたかった・・・。
人は順番に老いていくのだから、大先輩の姿は後の私の姿である。
私はその歳まで生きているだろうか?
生きているならばどんな風に過ごしているのだろうか?
・・・
そう、その時「歩きたい」というような欲を持っているだろうか?
「こうしたい」という思いがないと生きる張り合いがないに違いない。
今日よりも明日、何かできるような自分になっていたい。
今日よりも明日、何かが良い方に変わった自分でいたい。
そうして、何歳であってもその”したい”に向けて、目の前のやれることをやって過ごす。
大先輩に会って再認識したのはこういったことだった。
やはり、このような”目指すもの”(=欲であり目標)を追いかけるのが生きる喜びであり、生きる原動力にもなるのだ。
私は、91歳の大先輩に出会うことで、あくまでも勝手にだが、目標から距離をおいて漫然と生きている自分に気づくことになる。
私というものは今回の対目標というものに対してもしかり、どこまでいってもアンバランスのようだ。
・・・いや、アンバランスの何が悪い!と開き直るのもありなのだが・・・。
でも過去の目標に翻弄されてしまったままアンバランスに終わってしまっては人生もったいない、と改める方を私はかろうじて選ぶ。
大先輩はこんな風に私を考えさせてくれた。
それは目標に対してのバランスが悪いから是正するようにと、何かが大先輩と出会わせてくれたようにも感じる。
偶然を必然にすり替えたようではあるのだが・・・。
この出会いに感謝!
その後何度もこの森を訪れるのだが、大先輩との再会は叶っていない。
あまりにも会わないものだから、こんな大先輩がホントに存在したんだろうか?
私にメッセージするためにその時だけ現れたんではないか?
メッセージが伝わったからもう現れる必要がなくなったんではないか?
そんな空想がよぎる。
さすがにこれは盛り過ぎだ・・・。笑。
それはともかく、私が出会う人すべてから学ぶことがある、ということに腹に落ちしたのはこの出会いだった。
モノを教わるだけでなく、自分がお相手に素直に感じるものを噛みしめて味わってみる。
そうすることで、そのお相手がどんな人であろうとも、お相手のことが好きであろうとも苦手であろうとも、自分に必要なメッセージが浮かび上がるはずだ。
この出会い以降、出会ったすべての人から自分に必要なメッセージを受け取ろう、そんな風に思って臨むようになっている。
UnsplashのRichard Burltonが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
私という者は特に、人との出会いに学ぶこと、気づかされること、これらが尽きることはこれからもないように思います。
すねてるわけではなくて、あくまでもいい意味で、です。汗。笑。
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