私という人間の「ポジション取り」がわかってきた。
人は顔もスタイルも異なれば性格も異なる。
得意なことや不得意なことも異なる。
病気に現れる弱い部位も異なれば、年をとって痛くなる身体の部位も異なる。
環境も経験も異なるから、主張する内容も異なる。
そんなことはわかりきっていることなのだが、主張が異なって、その考えに共感できないことで憂鬱になったりする。
また、自分にできないことを他の誰かが得意げにしていることを見ては、人を嫉む。
人にある痛みが自分にはないことを誇らしげに思い、人にはない自分だけの痛みに対してはその不平等を恨む。
何とも面白いとしかいいようがない。
では、自分という人間には人と異なるどんな特徴があるのだろうか?
私という人間
私という人間の特徴には、正直、目をつぶりたくなるものもある。
しかし、自分を客観視することは非常に大事なことだと思う。
人というものは幾重にもなる複雑な特徴を持っているから、いくつか上げただけでは不十分ではあるのだが、3つほど特徴を上げてみる。
①落ち着きがない
小学校の通信簿で落ち着きがない、という申し送り事項があった。
座っている時にもジッとしていない。
大きく動くわけではないが、肩を揺らしたり、首を左右に動かしたりしているようだ。
これは50歳を超えて父の葬儀で座っている時もそうだったようだ。
後ろの席のいとこから後で聞いた。
何かを瞬時に判断しないといけないようなところに追い込まれた場合に落ち着いていられない。
追い込まれると軽いパニック状態なのかもしれないがミスを重ねることもある。
後から考えるとそこまでに慌てなくてもいいものを慌てて何かを進めてしまう。
「急いては事を仕損ずる」が当てはまる。
追い込まれていない時でも、何かをしてしまわないと時間がもったいないという感覚がある。
何かワチャワチャと生き急いでいる。
この感覚は元々そうだったのか?
それともどこからかの環境によってそうなったものだろうか?
親譲りのものでもあることを思い出す。
両親はいろいろ詰め込んでやってしまって、後でグッタリする、というパターンを繰り返していた。
グッタリにならない程度の落ち着いたペースで刻むことはできないものなのだろうか?と思ったことがあった。
ちなみに、人には持って生まれたスピード感が4段階あると聞いたことがある。
②雑でズボラ
何かにつけて物事を省力化したいと思っている。
物を大切にしない。
物は使ってなんぼだと思っている。
だから皿をよく割る。
リーデルのワイングラスはもう使うことをあきらめた。
これは上記の生き急いでいることも要因であるように思う。
子供の頃に親から「使ったら片づけるように」「扉や襖はしっかり締めるように」など散々言われたが、癖がつかなかった。
年をとっていろいろ面倒くさくなったからなのか?と思いきや子供の頃からそうだった。
仕事をする上では義務としてできるが、こと自分の生活になると本質がもたげる。
人間には得手不得手がある。
このような不得手を訓練によって克服できる人もいるができない人もいる。
言い訳になるが、例えば「片づける」といった不得意なことをやり続ける人生は必要以上に自分に負荷をかける人生なのではないかと思うようにもなった。
人生の時間は限られている。
このことは、正解を求める人生を生きて苦しんだ母親という反面教師から学んだものでもある。
母親は周りからしっかりしていると見られることを人生の目的にして生きて、その目標を生涯変えられなかったように感じている。
(ここでは詳しくは割愛する)
③?が多い
「なぜなんだろう?」
いろいろな疑問が湯水のように湧いてくる。
人と比べたことがないから、疑問の数が多いのか少ないのかはわからないし、疑問の種類も人と異なるだろうと思う。
この疑問の多い理由を「生まれ月がそうだから」という方もいた。
疑問が多いということは、若い頃には世間を学び、吸収する、という意味で重要なものだったのだろうと思う。
しかし、大人になって会社で役職を持ったりすると、急に不要になる面もある。
上役はメンバーの疑問を解消する側であり、疑問を持たずに判断を下すものである。
また、売る覚えだが私が当時持っていたであろう疑問、
「人間とは何者なのか?」
「会社との契約、雇用とは何か?」
「広告とは何か?」
などを深く追求することは「会社員のすべきことではない」とどこか感じていたのだと思う。
これらの疑問に対して会社にとって意味がないものがある。
関連のある疑問だとしても、会社員は会社を正当化する表面的な解決策を目指すことが求められるのだ。
無意識にも「疑問は解決しているものだ」と思い込むことで、疑問を隠すようになっていった。
だから、自分の中にたくさんの疑問があると気付いたのはずいぶん年をとってからになる。
役割あるいは見栄という制限がなくなれば疑問は湧いてきてとどまることはない。
とかく人はだいたいをわかっていることにして人生を生きているものだ。
最近の疑問
ここ最近の私の疑問は、
・人の幸せとは何か?
・なぜ人は争うのか?
・なぜ人は生まれてくるのか?
というようなこと。
このサイトRANGERの記事にも書いているが、これらに対して、先人が残してくれる智慧に答えを求めようとするが、どうもピンとこない。
たくさんある自己啓発本には、
「愛をもって」
「自分を信じて」
「ポジティブに」
などいろいろなメッセージが溢れているが、何故だか一面的なものに感じられるようになった。
一面的な理解とは他の面をふさいだ、ただの洗脳とも言えるのではないかと思ったりもする。
こんな風に考える自分は、トコトン天邪鬼にできているのだろうか?
「多様性の尊重」と言われた時にもどうもピンとこなかった。
頭では理解できるが、自分の中に多様性を嫌う面を確かに持ち合わせている。
この気持ちがどうしても湧き上がるのはなぜなのだろうか?
この気持ちが湧き上がった瞬間に出来ない人間と認定されてしまうのだろうか?
この気持ちが湧き上がらない人はそもそもどれだけ存在するのだろうか?
自分は未来に、この気持ちが湧き上がらなくすることができるのだろうか?
政治的な党派のようにして、ひとつの正義「多様性の尊重」を主張することもできるのだが、それはひとつの役割なだけであって、本当の自分ではないよそ者の発言の感じがする。
だから簡単に「多様性の尊重」と言う人に偽善的なものを感じてしまう。
もちろんどんな人に対しても、その人が苦しんでいれば可愛そう、助けたい、という思いも持っている。
このような矛盾をどう捉えればいいのか?
「多様性とは何か」
「なぜ自分も含めて多くの人間が差別をするのか?」
「人間とは何か?」
この辺りを含めて説明がつかないと自分はどうも納得しないようなのだ。
その納得がないと、外から決められたルールにただ従っているようでこうしろ、ああしろ、こうあるべきだと規制された牢獄の中にいるような感じすらする。
「多様性の尊重」を考える時に、その逆の人間が「多様性を尊重しない」理由をしっかり見つめないと、また新しい規制ができただけのように感じる。
「多様性を尊重しない」が自分の中にもしっかりとあるということを、そしてそういう人間の存在を、認めるところからでないとならないように思う。
そうでないと「多様性を尊重する」人と「多様性を尊重しない」人に白黒つけて隔離することがゴールになってしまうような感じがする。
もっと時と場合、環境などによって微妙なものなはずだ。
差別は誰にでもあるものだと思う。
そんな分けられるようなものではない。
「多様性の尊重」に限らず、一般的なすべてのことに対して私がもっている感覚は、
目の前に起こる様々な問題は、すべて根源的な原因を知らないと納得した形で解決できるものではない。
逆に言えば根源的な原因がわかれば目の前のことは大方解決する。
というもの。
この辺りが「?が多い」私の特徴、最近で言うと「癖がすごい」ところの一つなのだろうと思う。
私のポジション取り
ここまでは長い前置きとして・・・
世の中に対して自分がどういうポジションをとって生きるのか?
攻めるポジションなのか、守るポジションなのか。
このところ、自分のポジションの輪郭が見えてきたように思う。
前回の中庸とカウンターの記事などにそのヒントがある、というか、自分が自然にやってきたことが、説明できるようになってきたと言うべきか・・・。
参照:人生はカウンターを当ててずーっと「揺らいでいく」のがいい。
ちなみに先ほどの話は、「多様性を尊重する」ことに対して「多様性を尊重しない」ことのカウンターを当てないといけない、という意味合いで見ると、前回の私の記事での主張の一例に当たる。
さて、自分のポジションのキーワードは、
●先天性
●カウンターによる揺らぎ
の2つ。
「先天性」とは先に上げたような自身の特徴の中にある。
この先天性をとにかく大切にする、ということがまず前提にある。
先天性を知るために、自分の特徴を客観視する必要がある。
特徴が見えた時に、なぜその特徴ができたのか?を振り返ってみる。
親からそうしろと言われたからか?
周りからカッコいいと言われるものだからなのか?
もし誰から言われたわけでもなく、意味が分からないけどなぜかそうしたいもの、やりたいことならば、そこに先天性がある。
掘り下げていくとお金を稼ぐや名声を上げる、などを除外して純粋にやりたいことに先天性がある。
もちろん純粋にやりたいことがお金を稼ぐことや名声を上げることになったら最高かもしれない。
逆にどうしても改善できないこと。
ここにも先天性がある。
客観視することで、先天性から来ている特徴と後天性から来ている特徴を区別する。
そして、浮き出てきた先天性から来ている特徴を抑制せずに可能な限り尊重してあげるようにする。
その先天性が一般的に良くないこと、ダメだと言われることだとしても改善を最低限にとどめ、なかばあきらめて、改善する、しないに極力煩わされないようにする、まずはこれから始める。
そして、なぜかわからないけど好きなこと、ずーっと夢中になれること、これをやって生きること。
それが仕事になるかもしれないし、趣味になるかもしれない。
どちらだとしてもそれをちゃんとやって生きること。
シンプルにやりたいことをやれない人生なんて意味がないと言える。
ちなみに、自分の先天性を大切にすることは、相手の先天性を大切にすることにつながる。
自分のダメな先天性を容認することは、寛容になれるため、他人の多様性にも寛容になるのだ。
私は多様性の尊重のためには、まずは自分に対するこの容認がスタートであり、不可欠であると思う。
これは、既に言われている「自分を愛せない人が他人を愛せない」とリンクするものだと感じる。
後天的に学んだ理性あるいは道徳は、ある意味白黒がハッキリしている。
「多様性を尊重する」という真っ白なもの。
白黒ハッキリするだけでは決着しないことが多い。
人間自体が複雑でハッキリしているものではないから。
後天的に学んだ理性あるいは道徳だけでの表面的な理解では、私の場合、苦しいしどうしても納得がいかないようだ。
次に「カウンターによる揺らぎ」。
まずは前回の記事の再掲から。
・世の中に絶対的な真理というものはなかなかない。
・物事には光の部分と影の部分が必ずある。(陰陽説)
例えば、人生にはポジティブさとネガティブさの両方必要である、など。
・中庸を目指すには両極を知る必要がある。
・中庸のために両側にカウンターを当てて揺らぎながらバランスをとって生きる。
これらのことに加えて、
・自分が知識として知りえることに限界がある。
・だから、自分は間違った情報をつかみ、信じ、バランスがいいとは言えない人間であること。
(実際にいくつもが経験済)
・物事が白黒では割り切れないことがある。
・世界には予想できない不確定要素が起こる。
これらの経験上の認識を統合したものが、私のポジションを形づくることになっている。
その私のポジションとは・・・
まずは、人の持つ主張(思想)というものは、言葉にした瞬間に偏りを持つものであるということの認識からスタートする。
自分の信じるある主張(思想)も上皿天秤の片側なだけであり、分銅を置いた時にどちらにも簡単に傾くように物事の白(左)黒(右)のようにとらえる。
物事に0:100なんてものはない。
「少しだけ白に分があるかな?」(例えば60:40など)くらいのポジションとして主張(思想)をとらえていることが多い。
新しい情報が入って自分のポジションが間違っていると感じたら、60:40をすぐさま40:60にポジションを変える。
朝令暮改でも構わない。
見栄を捨て、間違っていた自分を認める。
そんな自分に期待していない。
期待するのは、間違わない自分ではなく、固まることなく揺らいで新しい発見をし続ける自分である。
自然に自分が思う(違うんじゃない?自分が思ったらそのままの)自分であることが大切だと感じる。
そんな状態であるから、自分の主張(思想)を7割程度にしか固めないという感覚もある。
自分の中での絶対に譲れないものは、プライドから来るものばかりのはずだ。
だから、自分の中での絶対に譲れないものを疑い、絶対譲れないものを少なくする。
いつでも変更できるといった程度のものにする。
これらのことは、周りから以下のように見られてしまうかもしれない。
・ノンポリ
・風見鶏
・適当
・自分を持っていない
・決断力がない
逆に一つの意志を人生でずーっと貫く人を羨ましくも思う。
しかし、これも、「先天性が異なるからしようがない」という理解をしている。
逆立ちをしても貫く人にはなれない。
私の場合、どうしてもここに行きつく。
揺れ動くのが自分。
揺れ動かないのが不自然で窮屈に思える自分。
相手の特徴をこういう人間だと認識を固定できれば、人は楽になる面があるのだが、その都合とは別に、人も物事も揺れ動くのだ。
先天性で固定されていて変わらない自分と、主張が揺れ動く自分が共存しているのだろうと思う。
私はある方から「ウェイバー」だ、と表現されたことがある。
相手のウェイブに共振して合わせることができる、という意味かもしれない。
相手が出てくれば引けるし、出てこなければ自分が出ていくこともできる、ということかもしれない。
合わせることができるのは、ただ迎合しているわけではなく、ある物事に対してある方向から光が当たれば白に見えるのは納得であり、別の方向から光を当てれば黒に見える、というのも納得、という風に見ているからだと思う。
あまりにも白よりに偏っているなあ、と思う人がいれば、黒側の意見をカウンターとして当てて揺さぶってみることもないことはないが。
そうだとしても、その人の白を根底から否定する話ではない。
繰り返しになるが、自分の凸凹した先天性を大切にできることは相手の凸凹した先天性を大切することにつながる。
そして、物事への光の当て方にいろいろなものがあると認識できれば、人の意見を肯定的に理解できる。
こんな感じが、私の今のポジションのようなものだ。
私はこのポジションをもって『先天性と揺らぎ』を味わって行きたいと思う。
とは言っても明日には変わっているかもしれないが。
ところで、このような私のポジションができあがったのは、持って生まれた先天性からか?それとも経験によって培われた後天性からか?
一体どちらだろうか?
その両方が合わさったものと言うしかない。
先天性と後天性
最後に。
あるTVの占い番組がある。
毎回あまりにも細かいところが当たるので、ヤラセとは思えないと感じている。
ある回にレスリングの金メダリストが出演して、占い師が『あなたはレスリングをするような星に生まれてない』と言い出した。
これに対して、メダリストの返答は『確かにレスリングは好きではなかった』というものだった。
この占い師の「ある星の元」のことを先天性と捉えると、先天性をそのまま活かさなくても別の生き方がある、ということになる。
環境ともって生まれた能力と努力によって、本来の星とは違う道が開けることがある、ということを表している例だと感じた。
それが時には金メダルの獲得までに至ってしまうことがあるのだ。
もちろん、レスリングの星ではないけれども、運動能力などのベースが先天性として授かったからの結果ではあると思うのだが。
思えば先天性を十分に活かして生きている人がどのくらい存在しているものだろうか?
このメダリストの話は私が大切にしようと主張している先天性に対して逆のカウンターになっている。
先天性で生きるのか?後天性で生きるのか?
何がいいのか?どっちがいいのか?それはわからない。
私は、この可能性を知った上で、それでも、先天性を大切にしたいと言いたい。
Photo by Philippe Bout on Unsplash
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
ウェイバーは、「柳の枝に雪折れなし」
※柔軟なもののほうが剛直なものよりも、かえって耐える力が強い柳が柔らかいから強い
に似ているものでしょうか?
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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