「チャンと考える」ってどういうことなのか?
これまでこのサイトの記事には、「固定観念を外すためにチャンと考える」というようなことを繰り返し書いてきた。
これは、そうなっていない自分に言い聞かせているような言葉だ。
「チャンと考える」という言葉が抽象的なので、今回は、自分の考えていることを鮮明にするために、具体的に自分の思考を追って書いてみたいと思う。
知識を取り入れれば人は賢く生きられるのか?
まずは、知識というものへの疑いから始めてみる。
親から、学校から、偉人から、先輩から、専門家から教わって、知識やノウハウを知れば、賢く生きられるし、人生を有意義なものになる。
このことを当たり前のことと認識してきた。
例えば、午後に天気が崩れるというような情報を信じて取り入れれば、傘を持って外出して雨に濡れることを避けることができる。
それを知らないと雨に当たって体調を崩すこともあるから、知識を取り入れることが人生を有意義なものにする。
次に例えば、料理人にとっては包丁の使い方、包丁の研ぎ方など、ノウハウを教わる必要があるように、様々な職業についてそれをうまくこなすための専門的な知識やノウハウを教わり、取り入れれば仕事がうまくいって有意義な人生につながる。
これらは、多くの人も当たり前だと認識していることだと思う。
では、「人生努力が必要だ」というような、格言?偉人の言葉?親の口癖?というのか、生き方についての抽象的な知識についてはどうだろうか?
この言葉は、人生をどこまで有意義にするものなのだろうか?
人生は、「頑張れ、頑張れ」と周りから言われ、「努力が大切だ」という言葉として知識を得ることをキッカケとして努力が始まる。
その時は、何を努力すればいいのか?どのように努力をすればいいか?についてはっきりとわからないまま見切り発車で始まるものなのだと思う。
努力していくことによって、成果が出ることを実感して、時には努力をしても求める結果が出ずに裏切られて、努力というものが嫌になって、努力をする方面や、努力の程度を調整しながら、人生は進んでいく。
努力の仕方や程度によっては、度を超してしまい、怪我や体調不良になって、努力に対しての修正を余儀なくされたりもする。
努力の仕方や程度はタイプや年齢によっても大きく変わる。
だから、誰か別の人のアドバイスをそのまま自分に取り入れることにも限界が出てくる。
そのうちに、嫌々やっている努力と好きでやっている努力があると感じるようになったり、不得意なことを努力するより、得意なことについて努力した方が個性を活かせて有意義になるのでは?などと思ったりもする。
「努力は大切だ」という最初の言葉だけでは、うまくいかない。
「努力」についての取り組みをして紆余曲折を経る。
その中で、いろいろな感覚が湧いてきて、いろいろ迷いながら考える。
その中で「努力は大切だ」について理解できるかもしれないし、そこまでいかなくても理解のためのヒントを得ることができる。
「努力」というものを理解するには、表層的な言葉でなく、経験による体感覚が必要だとあらためて感じるのだ。
知識と体感を照らし合わせることで、努力というもののイメージや自分と努力との距離などを、立体的に作り上げるに至る。
「努力が大切だ」という汎用的な知識と自分だけの体感ーそこには、努力してどうだったろうか?努力をどう捉えればいいのか?次に努力をどうしたらいいだろうか?などを考えることが含まれるーとが合わさって自分だけの理解となり、自分の身になる。
別の見方をすると、人は「努力」という概念、「努力が必要だ」という知識に、翻弄されながら、固定観念を着けさせられながら、その固定観念をまた破りながら、「努力」というものの本質を自分なりに理解していくように思える。
この自分の体感、自分の考えをあまり軽視したまま外からの知識だけを頼りに進んでいくと、どこかでほころびが生じるように感じる。
「そこまで細かく考えるなんて面倒だしバカバカしい」と批判されるかもしれないが、言葉にしないだけで、誰しもが、このような経験を感覚記憶として蓄積しているのだと思う。
人は、敢えてこのようなことを言われなくても、多かれ少なかれそのようなことを感覚的に学習して、そして次に活かしているものだ。
そして、「努力が大切」という言葉を聞いた時に「そうそう」という思いが湧くのは、自分の過去と体験、そこで感じたことと考えたことの合わさったイメージと言葉が紐付いていて、共感が生まれるからなのだ。
知識というものにはいろいろな種類があり、その中には、速攻で取り入れることができるものもあれば、経験をしてやっと身になるものもある。
体験しないと身に付かない種類の知識は、言葉は入口になるかもしれないが、それだけでは何の役に立たない。
言葉だけでまっすぐ走ると、むしろ問題が起こる。
その問題は避けることはできないのではないだろうか?
人は問題に突き当たっては、それを何らかの方法で克服していくという道を歩む。
すぐに役立つ知識も稼ぐためのノウハウもそうだが、それ以外のこの自分の「生き方」、自分の「考え方」が人生にとって非常に大切な部分だと感じる。
「感情」というものは抑制すべきものなのか?
次に、感情というものを疑ってみる。
「感情的になると議論ができない」
などの言葉は、いろいろな場面で聞いたことがあり、自分に刷り込まれている。
「感情的」な状態は争いの種になるようなイメージが、強い。
「感情的」になるということは、それを抑えることができない成長できていない子供のようで、大人の欠陥だと見られている。
感情を抑えることが仕事の効率を上げるとも考えられている。
合理性や効率性を目指した時に、感情は時間のロスに見える。
感情は世の中の害のように見える。
ところが、他の角度からながめてみると、幼少期に消防士に助けられた経験、有難いと思った感情から、自分も消防士になろうとするようなケースがある。
子供の頃にいじめられた経験を持つ人は、自分が感じた苦しみだから、他人から取材した内容よりは、生き生きとそれを表現することができる。
その表現を鑑賞する側としても、小説や映画や漫画の中の悲しみや苦しみの共感から、作品が面白いと思えるものである。
人は周りの様々な出来事に遭遇することで、楽しさ、美しさ、気持ちよさ、美味しさ、潔さ、勇気、などの感情が湧き出してくる。
その感情を味わうことによって、対象にあこがれを持ったり、対象に魅了されることになる。
人は、楽しいという感情の経験から、自分や周りの人の楽しさの感情をもっと出そうとする運命に導かれ、また、苦しいという感情の経験から、苦しみの感情を「二度としないように」と誓い、それを避けようとする運命に導かれる。
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創造的思考と感情と密接に結び合っていることは疑う余地がないのに、感情なしに考え、生きることが理想とされている。
エーリッヒ・フロムも「創造性には感情が不可欠である」として、感情が悪であると捉える現代を風刺している。
怒りのような感情がそれを変えよう、それを克服しようとして突き進むエネルギーになる。
喜怒哀楽のすべてが人間の原動力になっている、ということをあらためて確認できる。
感情を否定して、抑制することはこの人間の原動力を失うことになる。
だからこそ、人間は無感情でスマートに生きるべきではなく、無感情になることはAIに追随するような愚策と言えるのではないだろうか?
冒頭に戻って、それでも感情的はいいものばかりだとは思えない、気持ちがある。
怒りを例にとるとそのエネルギーを単純に暴力的だったりと、周りの迷惑になるような発散の仕方をすることに対して憂鬱になる。
これらを考え合わせると、感情が悪者にされているのには、本質的な大きな勘違いがあって、感情は抑えるのではなく、その出し方、表現方法を適切にする必要があるのだ、という課題だけに切り分けられるのではないだろうか。
この短絡的なエネルギーの発散方法が周りに迷惑になるという理由と、目の前の合理性、効率性重視の偏重社会になっているという理由によって、感情が世の中で悪者になっているのだと感じる。
更に言えば、感情をちゃんと出す仕事が人間らしさを出せる仕事で、感情を抑えないといけない仕事は、人間の不得意なことをしている、それ自体が苦痛な仕事なのではないか?という感覚さえも出てくる。
「感情」にも両面があり、迷惑になるから、非効率だから、という理由で「感情を抑える」だけに偏重するのはもったいない。
「感情を抑える」という行為は喜怒哀楽を有する人間の尊厳を失う、という意味でも大変危険な行為なのだ、とまでも感じる。
そして、「感情は悪者」という認識で感情を抑えるだけで生きている人と、「感情は大切」という認識をもって生きている人では人生が大きく変わってしまうことだろう。
チャンと考えることの意義とは?
「努力」と「感情」という言葉を取り上げていろいろ思考を巡らせてみた。
この内容が、「チャンと考える」ことだ、と言うのは全くおこがましい。
書いてみれば、大した新鮮さもない結論になっていて、浅く表層的な思考で恥ずかしい。
それでもいちおう自分なりに考えた。
その人なりの感じる、考えるがある、でよいのだと自分を慰める。
最後に考えたことをもう少し追記してみたい。
「努力」のように、経験と思考がないと外から学ぶだけでは理解できないものがある。
「感情」については固定観念を疑って、別の角度から考えないと見えてこないものがある。
他の多くの概念も同様なのだと思う。
真理とは、偉人から教わることだけでは、たどり着けないもので、自分で体験して感じて考えて初めて、腑に落ちるものなのだ。
自分が腑に落ちることで、やっと自分に取り入れることができる。
腑に落ちないとその言葉を冷ややかに見てスルーしてしまう。
少なくても私には・・・そう感じる。
人間が人間らしく生きるために大切な力、それは、自分で感じて自分で考えること。
この力を抑制されるがままに、外にある何かを信じて、自己否定を積み重ね、何も得られないにままに人生を終えてしまうことを避けないとならない。
(一部加工して抜粋しています。)
個人生活や社会生活のすべての根本的な問題について、ボカシて複雑に見せて、あたかもそれに関する専門家だけが、しかも限られた領域しかわからないように見せかける、という文化ができている。
本当の問題解決は簡単であるにもかかわらずである。
真理を隠蔽することで利益を得る集団がある。
この文化は自分の思考能力の自信を失わせることになる。
これによって、人々は混沌とした多くのデータに取り囲まれながら、専門家の動向を首の長くして待つだけで自分で思考をしなくなる。
これによって起こっていることの1つは、人が見るもの聞くものを信じないという懐疑主義、シニズムと、もう1つはなんでも簡単に信じてしまうというもの。
このシニズムと単純との結合は近代の個人に典型的なものである。
考えることをしなくなった人々の結末は、何も信じなくなるか、何でもすぐに信じるようになるかの二極となる、こちらも確かに共感できる。
自分で感じて考えること、人がこれを信頼しなくなる理由の1つとして、社会環境を上げている。
世の中には、人から思考する勇気や決断をする勇気を失わせる力が存在している。
これも共感できる内容だ。
思考する勇気を失った時に、人は支配者の支配下に入る。
それは、親の支配下かもしれないし、友達の支配下かもしれないし、パートナーの支配下かもしれないし、お金持ちの支配下かもしれないし、権力者の支配下かもしれない。
知らず知らずにマウントを取られて身動きができなくなる。
このような意識することがなかなか難しい風潮というか見えない圧力が、我々の中に「考えるのが面倒くさいという怠惰な気持ち」を産み出す原因になっているように感じる。
このコロナ禍を経験して、専門家への懐疑心がまた鮮明になった。
これは専門家を否定するものではなく、専門家だから、専門の範囲は狭い。
想定外のケースの場合に、その狭い範囲だけでは解決できないことがある、という意味合いと、専門家の中でも意見が別れることがあるという意味合いである。
専門家の言うことをそのまま鵜呑みにしては危険であり、専門家の言うことを完全否定して冷めてみても危険である。
どんなに詳しくないことに関しても情報を参考に自分で感じて、自分で考える。
生きることの醍醐味は、自分で考えること、そして、考えることは同時に感じることでもある。
自分で感じる、自分で考える、そのもって生まれた尊厳をあきらめないこと。
「自分が考えたって・・・」
「専門家が先に考えてるだろう・・・」
「この感情は単なるわがままだから出してはいけない・・・」
というような、偏った”謙虚という美徳”に逃げてはいけない。
さて、ここまで細かく四の五のと考えを巡らせてきたのだが、こんなことをしなくても、センスのいい人は感覚的にこのことがわかっていて、もっとショートカットできて、人生を謳歌しているのかもしれない。
しかしながら、私の場合はこうでもしないと理解できない。
また、文字に起こさないと考えたことの証拠にもならない。
この世は意地悪なのか、真理は簡単に手に入らず、どこかに覆い隠されている、と言ったようなことを聞いた記憶がある。
隠れていて、手間暇をかけるから自分であることの充実感があり、それを感じることが産み落とされた意味である、ということようなことにも、共感する。
心と頭を連動させて、自分の正直なところを感じて自分で考える、チャンと考えること、すなわち、自分を生きることなのだ。
ここまで考えてきて、
「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。 しかしそれは考える葦である」
このパスカルの言葉の意味がやっと少しわかったような気がした。
ちなみに、引用したエーリッヒ・フロムの言葉への共感、あるいは、納得も、自分の過去の経験(感覚と思考)と結びつくからこそ、起こったものである。
これらのことは、自分で感じて考えることをしないと、他人の言葉が理解できるようにならない、ということのまた一例だと思った。
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【著者プロフィール】
RYO SASAKI
つたない思考かもしれないのですが、それでも、自分で感じて、考えることを重ねて、感情をエネルギーにしていきたいと思います。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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