人類に意識の進化が起きている!?私はついていけるのだろうか?
前回の記事で紹介したこちらの本の、子供の古い脳をまずは育てよ!というメッセージには非常にインパクトがあった。
「生きる力」の強い子を育てる 著:天外伺朗
古い脳を育てるには、子供が満たされることが必要で、具体的には「自分はこのままで大丈夫なんだ」と安全安心を感じることが必要になる。
そのために周りは、古い脳が司る喜怒哀楽の感情に対して、共感してあげるなどが必要である。
例えば、ある子供がワンワン泣いてしまったことに対して、「ダメでしょう!そうしたら・・・」という教育、見方によっては否定、「我慢しなさい。」という指示、見方によっては強制の積み重ねによって、子供は満たされないまま、自己否定感をもって大きくなってしまうことになる。
私は、このような強制する教育が当たり前だと思って生きてきたわけだが、一旦真っ新になって考えてみると喜怒哀楽が出ることの何が悪いというのか?という素朴な疑問が湧いてくる。
感情というものは人間が生き残るために必要な機能として備わっているはずなのに、それを抑制して出さない人の方が、落ち着いていると評される。
ましてや感情を否定されるとはなんとも理不尽ではないか?
さて、このことを起点として下の天外伺朗氏の最新の本では、人類の意識の進化の話に展開していく。
「自己否定感」怖れと不安からの解放 (新・意識の進化論) 著:天外伺朗
意識進化のためのキーワードが「自己否定感」。
それを人類は数千年持ち続けてここまでやってきたのだが、それを失くす時代がやってきたのだという。
私は、自己否定感という言葉に、非常に目を引いた。
それは、自分が長らくお付き合いしてきたなじみ深いものだからだ。
人類の意識進化なんていうものは、いつもの自分からは視界がグッと上がってピンとこないかもしれないのだが、何とか自分で理解できるところまで行ってみたいと思う。
自己否定感がもたらすもの
自己否定感は、上記お子さんの例でいうと「泣いたらダメでしょう!」と言われた瞬間に生まれるものである。
ダメだと否定されたわけだから、自分は間違っている存在なんだ、と刷り込まれてしまう。
ダメだ、正しくはこうだ、と言われ続けることを想像してみると、確かに自信は削がれ続けるだろうと思う。
学校のペーパーテストには満点があって、そこから減点された自分が印象付けられる。
子供だけに限らず、社会人になるにも自分は不完全はものだから、知識を入れてまっとうにならないとならない、という不足な自分という観念にとりつかれる。
理想の人間がどこかにいて、それと比較して足りないものを埋め続けるという人生を歩むことになる。
このように自己否定感というものは多かれ少なかれ誰にでもある。
更にこの自己否定感はこんな風にも社会に作用している。
自己否定感のある人間は、正しくあらねばならない、から、”正しさ”というものを認識するようになる。
それによって同時に正しさの逆の”間違い”も認識する。
そして、他人に自分の正しさを押し付け、他人の間違いを叱責するようになり、社会の分断に大いに影響しているのだという。
自己否定感 → 正しさを設定 = 間違いを設定 → 間違いを否定 → 人々の分断
一方で、社会は自己否定感によって繁栄してきたことも事実である。
社会は数千年に渡って、人に自己否定感を植え付けられることが当たり前となって、それを克服しようとするエネルギー、それは恐れと不安から起こるエネルギーであってそれを使って繁栄してきたのだと。
自己否定感は必要だと思っていた
私は自己否定感を立派に育成させて人生を歩んできたように思う。
言われてみれば自己否定感はないほうが幸せだとは思うのだが、私は自己否定感を前向きに捉えていた。
競争があるから、勝とうと思って力が出るのが人間だ。
勝つために足りない部分を見つめて(否定して)克服しないとならない。
共産主義が崩壊して資本主義が勝利した?のは、生産性が高かったからと聞いている。
競争して頑張ることで、獲得できるものが多くなるから人は頑張るので、そうでないと人は頑張らない、のだと。
人生は負けてはならないし、頑張らなくてはならない。
そう、人生は限られた椅子を奪い合うゲームなのだ。
このような昭和のおっさんとは対照的に、マイカーなんて意味がわからないという若者、あるいは、引きこもる子供は進化系なのだという。
学校が未来のために必要だと強制してくる常識に対して、「身体がちゃんと反応してNOを突きつけられている」というような意味合いだ。
正しさを強制し、自己否定感を醸成されることへの拒否である。
天外氏はお子さんが不登校になった親御さんに「おめでとうございます。」というらしい。
親や社会の顔色だけを見て自己否定感とともに生きるようになってしまう子供は幸せでもないし、健康でもない。
これからの時代は、「能力」✕「行動」が重んじられる時代から、「あり方」が問われる(これを著者は実存的変容と読んでいる)時代へ移行するのだという。
種は環境に対応して自分の生きる道を常に探していて、今たどり着いた先行した種の特徴は以下のものである。
実存的変容が深まった人の特徴(抜粋)
①むやみに戦いを仕掛けない。
②むやみに「目標」や「夢」を設定して、それを追いかけない。
④むやみに「いい人」「強い人」「立派な社会人」のふりをしない。(素の状態で生きている)
⑤自分の弱さや欠点をさらすことに抵抗感がない。
⑥むやみに人を批判しない。
⑧秩序のない混沌の中にいても居心地の悪さを感じない。
⑨発生した出来事や現象に対して、論理的で美しい説明や理由付けをむやみに求めない。
⑪いかなる結果が出ようともそれを淡々と受け入れる。
⑫物事を「正義vs悪」のパターンで読み解こうとしない。
⑭むやみに「正・誤」を判別しない。誤の中に潜む叡智を探す。
⑮むやみに、自分と人、あるいは他人同士を比較しようとしない。
⑯むやみに「コントロールしよう」とはしない。他人を変えよう、社会を変えようと思わない。
⑱あらゆる場面で「無条件の愛」が発揮される。
⑳他人の問題行為、わがままな行為、エゴむき出しの行為に対して、むやみに嫌悪感を抱かない。
㉓他人や社会が自分や自分の行動をどう見るか、むやみに気にしない。他人や社会に無理に合わせたり、おもねたりしない。
さて、皆さんはどう感じただろうか?
違和感がなければ既にあなたは進化系かもしれない。
草食系という言葉と一致するような項目もある。
おいおい、昭和世代として学んで来たこととずいぶん違うではないか・・・。
「それでいいのか?根性ないなあ。」
「そんなことで生きていけないだろう!」
という言葉が私から初めに出てきて、大いに懐疑的になる。
根性ないってなんなんだろうか?と一方では思いながら。
とても私はここに、急に舵を切れない。
そんなことを言う自分は既に化石なのかもしれない。
何が違うのだろうか?
まず社会が信頼できない。
そんな思いでいると絶対足元を救われるんだ・・・
自分の軸のなさを社会のせいにしてしまう私の弱さなのかもしれない。
次にこんなことも感じた。
この根底には、「何をしても食っていける」という社会環境があるのではないか?
いろいろな問題はあるものの、社会は総論豊かになっているからなのではないか?
考えてみれば、これだけいろいろな技術が開発されて便利になり、法も整備されて不正が許されなくなってきた社会であるのに、いつまで食べていけるかの心配をしながら、椅子取りゲームをしていかないといけないのだろうか?
大金持ちの富を分配すればみんなが生きていけるだろう。
みんな生きていけるのならば生産性をむやみに上げる必要もないから、頑張りも穏やかでいいという理屈も成り立つ。
このような感覚を無意識に先取りしている種が進化系なのではないだろうか・・・。
彼らには、大金持ちになることよりも、高い役職につくことよりも、車を所有することよりも、はるかに優先高く、奪われたくないものがあってそれを守ろうとしているように思える。
私が私として存在している。
周りに何かを強要されるのではなくて、自己否定感なく私が私であることを大切にするように動いているのではないだろうか。
そして、このように実存的変容をし終わった種には不安がなく、一方で私のような古い種は意識がこのままでは不安を抱えて生き続けるものなのかもしれない。
意識進化した人はそこかしこにいる?
夏になり、クラフトビールを提供するお店に引き寄せられるようになった。
神田のお店に入って私の好きなIPA(インディア・ペールエール:ホップの風味が強くて苦味がある。)を何種類も堪能しながらの店員さんとのやりとり。
私が以前入ったクラフトビールの店は店員さんに話しかけても一切話が弾まない、いわゆる塩対応のところだった、と伝えたら、店員さんはクラフトビールに関わる方は、こだわりがあるというのか癖がある人が結構多い、というやりとりから始まった。
話もはずんで、こんな(神田の)お店が家のそばにあればいいのに・・・と吐露したら、この店員さんは家の近くの似たようなお店をその場でネットで調べて紹介してくれた。
後日紹介してもらった店に言って神田のお店から紹介されてきたと伝え、住所を詳しく伝えたら今度はそこの店長から、もっと家に近いクラフトビール店がある、とまた別のお店を紹介された。
自分の店よりも品揃えが豊富だと推してくれた。
次に紹介された家の近くのお店に行ってみて、他のお店から紹介されたと話すと、今度この店の店長が、
「最近、隣町にもクラフトビールの店できましたよ。」
とまた別の店を紹介してくれた。
ん?クラフトビールに関わる人は癖が強いんじゃなかったんだっけ??
この優しさの連鎖を有難く思いながら、一方で私には違和感が芽生えた。
なぜ、クラフトビール店の方たちは、自分のところをPRすること少なく、他の店を推薦するのだろうか?
私一人の消費量は限られるとしても、お客を奪い合う競争が行われているのが社会というものなのではないのか?
私なんかの時代は、そんな話をしていると上司から叱られそうなものなのに・・・
他の店に行ったとしてもまた自分の店に戻ってくる、あるいは、常連がしっかりいるから大丈夫、という自信の現れなのか?
推薦してもしなくても遅かれ早かれ情報が得られる時代だから、紹介についてを誤差と考えているのか?
・・・・・・
このことと前出の実存的変容が緩やかにつながった。
無理につなげているのではと自分を疑いつつではあるのだが・・・。
これは、⑱無条件の愛 なのかもしれない。
本当のところは私にはわからない。
本人らにも説明できないかもしれない。
そして、私のような椅子取りゲーム思考には無条件の愛は紐解けないのだろうと思う。
老輩が違和感を持つことが、社会の変容であり、意識進化を示しているんだ。
さて、私の成長した自己否定感、そこからくる恐れや不安は簡単にはなくならないだろう。
そして、これまでとは全く異なる意識をもつ人が台頭してくる時代におっさんは翻弄されるのだろう。
私ができることは、意識進化した人からいただく無償の愛に戸惑いながらも、せめて自分の違和感を意識進化というフィルターで眺めながら、人と関わっていくことだ。
この意識進化がどこまでの人に広がるのか?わからない。
でもそれが起こったら、とてつもない大きな時代の変化になるのだろう。
蒸気機関の発明などはかすんでしまうかもしれない。
しかし、広がるとしても相当な時間がかかるだろう。
それでも、将来不安を感じようと思えば材料はいろいろある現代だからこそ、この意識進化は平和な方に進むように思えて、将来に明るい兆しを感じるものである。
だから大いに期待して、私は時代に翻弄されたいと思う。
これは負け惜しみではない。断じて。笑。
あっ!やはりここに勝ち負けが出てしまった!汗。
Photo by Smit Patel on Unsplash
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
染み付いた価値観はなかなか変わらないものですね。
関係なく社会は変化します。
翻弄され続ける人生を愉しみましょうか。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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