人生はカウンターを当ててずーっと「揺らいでいく」のがいい。
世の中に絶対的な法則があるのか?
この「絶対的な法則」というものがまずは怪しい言葉なのだが、これをしておけば万事うまくいく、という法則とでも言ったらよいのだろうか?
この法則を歴史の偉人に学ぶことができれば、人生は楽になるはずなのだが、どうもそうはなっていない。
例えば、故事(昔から伝わっている逸話)には、
「虎穴に入らずんば虎児を得ず」→ 大きな成果のためには危険を冒す事も必要だ
「君子危うきに近寄らず」. → 徳のあるものは、危険なところには近づかない
などのように、パラドックス(逆説)的な法則が、両方伝わっていて、ここに絶対的な法則を見出すことはできない。
陰陽説というものがある。
以前、書籍『人生に活かす易経』を読んだ感想にも書いた記事がこちら。
「陽極まれば、陰に転ず」(あるいは、その逆)
良いという状態と悪いという状態は周期的にやってくる、悪い状態があるから良い状態がある(あるいはその逆)、という法則。
確かに、調子がいいと気を抜いてしまったり、うまくいかない悔しさがその先のバネになったりするのが人の特徴でもある。
最近の世界の様子を例にすると・・・
自由競争を行い、自由な選択ができる→貧富の差が拡大する→持てる企業がお金で別の企業を買収する→企業が寡占化する→競争がなくなり購入者の選択肢がなくなる→大企業に強制される→自由を失う
資本主義の自由な競争が行きすぎると自由を失うことになってしまう。
自由な発言をする→分断を生む→その分断を止めるために強い権力が必要になる→権力に監視される→自由な発言ができなくなる
自由な発言の行き過ぎによって、自由な発言ができない環境ができてしまう。
「陽もまた光を放つゆえ影を作る」というような言い方もある。
物事には、良い部分が強くなると、悪い部分も強くなる、という意味。
これらについて、残念ながら納得する面もある。
このような陰陽説は、陽だけを得るための絶対的な法則はない、ということを諭しているようだ。
物事に共存する光と影
「物事に光の部分と影の部分がある」について例をあげてみる。
明るい性格も時にはうるさく感じられるものだ。
楽をすれば人間は鈍り、苦労することで克服する力を付ける。
極限状態になれば特に冴えてくるものでもある。
誰かを早急に助けなければならない場面において、慎重な人間は臆病に映ったりするものだ。
一般的に、周りの人にとって素直であれば好ましく、わがままは疎ましいものだ。
しかし素直というものは感情を抑止していて、この抑止によって自分の考えや発想が出てこない状態にもなりうる。
素直は不自由に生きていて、わがままの方が自分を解放して自由な発想ができるようにも見える。
一見して、いいような真面目も、時にキッチリという性質に直結し、いい意味でのいい加減さがなくなるケースもある。
真面目な人は正義感もあるから、強硬になり変化を嫌う面もある。
正義感のある人は、自分の正義に忠実であるための、他の正義を責める傾向もある。
物事には光と影は必ず共存している。
どうも、それをシーンやタイミングの印象で切り出して、良いだの悪いだのを言い合っているだけなのが人間という感じがするのだ。
二項対立のどちらかが正しいのか?
明るいと暗いでは明るいが良い意味に捉えられ、暗いが悪い意味に捉えられるが、どちらがいいか言い切ることはできない。
楽ばかりしていて、幸せになれるのか?これも疑問だし、慎重と軽率のどちらだけがあればいいということはない。
人間の求めているものは、ある時に明るさであり、ある時に暗さである。
ある時に慎重さであり、ある時に軽率さ(大胆さ)である。
ある時に真面目さであり、ある時に不真面目さである。
同様に、対立する思想についても、どちらが正解というものはない。
例えば、資本主義と社会主義は、ずいぶん前にそのシステムの効率の良さから、資本主義に軍配が上がった。
(競争がないと結局生産性が上がらない)
しかし、今の資本主義がいいところばかりかというとほころびも出てきている。
社会主義の思想の中にも今に必要な要素もあるように感じる。
社会主義者の大杉栄は 大正時代の社会運動家で無政府主義者(アナキスト)であったが、彼の主張の中には興味深いものがあった。
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彼は、資本主義による労働者の貧困問題や経済格差を問題視したのではない。
本来の人間の自由が、押し殺されていることが問題であった。
だから、単純労働をして賃金をもらって生きることそのものに違和感があり、労働者のストライキに心躍らせていた。
カネで評価され、カネで買えて、取り替え可能な自由は、本当の自由ではない。
人は、思想にも自由であり、行為にも自由であり、それらの動機にも自由であるべきだ。
周りから承認される、お金が入る、というような利益が動機である以上、本来の自由とは言えない。
その人の本当の利益なきことを行う自由、これが彼の根底の主張であった。
身体を標準に合わせることが嫌だったから社会主義者になったのでもあった。
大杉は究極の自由を求めていた人物だったようだ。
どうも大杉を社会主義者とだけ括って批評することに無理があるようだ。
大杉は、その自由の求める言動(新聞、演説、デモなど)によって、危険視されて、逮捕、投獄の憂き目に合うことになり、38歳の短命に終わっている。
現実には、カネがないと生きていけないシステムであり、また、自由の主張は、周りとの対立を生むこともある。
自由の反対を支配だとすれば、支配されることは勘弁なのだが、自由にも限界があることを再確認せざるを得ない。
中庸に必要なもの
易経では中庸を良きところとしている。
極端ではなく程よいところ。
これが真ん中とは言い切れないが、両極の間のどこか。
これは抽象的で、目の前の事象一つ一つについてどんな中庸を選択すればいいのか?というの詳細については何も教えてくれないのだが、ここまでのいくつかのことから、真理に近いもののように感じる。
では、中庸を生きるために必要なものは何か?
そのためには両極を知らないとならないと感じる。
端がどこかわからないと中程がどこかわからない。
私は、大杉を知って「今こそ政府を失くしてしまえ!」などの思想を広げよう、などとは思っていない。
このアナキスト大杉栄を知ることは、その極を知るという意味合いにおいて大いに意義があることだと感じるのだ。
自由の究極を知らないことは自由を語ることももちろんできないが、逆の極の支配を語るに不十分である。
自由の方の極を知らなければ、中庸を語ったとしても、支配よりに偏ったところに着地するはずである。
偏ったままで生きることになる。
人が自分が信じる思想だけをインプットして生きるならば、自分がどこにいるのかという客観的なポジションがわからなくなる。
これでは中庸を生きることはできない。
極は、人が極であろうとする、といった目的なのではなくて(大杉自身は極であろうとしたかもしれないが)、極は手段であり、中庸が目的である。
人は、極を道具として使い、それによって目的とする中庸を目指すのだ。
ちなみに、このサイトRangerのRange(レンジ)は幅という意味であって、この両極の話と見事にリンクする。
ところで、大杉が生きた大正の時代は、ダーウィンの進化論というものが資本主義を強く後押しすることになったようだ。
ダーウィンの進化論では、生物の生存競争と相互扶助の両方を説いているのだが、生存競争の方だけがクローズアップされ、資本主義による生存競争が助長されたらしい。
私の少し前書いたこのサイトの記事
ここでは、禅の教えに「他人を許そう」などとあるが「そもそも、危機回避して生きながらえようとする生物なのだから簡単じゃないでしょ!?」といったような主張を書いていた。
これは100年以上前に既に語られたダーウィンの進化論的なアプローチだった。
私のような主張は、既にずいぶん前に語られていて、それが継承されているとすれば非常に陳腐な主張である。
もちろん、生物的なものだけで生きることをよしとするものではなく、禅を否定する主張ではない。
生物的衝動を持っている人間だから、禅的に悟って生きることの頑張り方をいい塩梅にしていこう!というものだった。
ダーウィンの進化論の生存競争がクローズアップして資本主義が加速すれば、それに対して反対の主張が現れる。
それが、禅の教えだとすると、それに対して今度は私が「生存競争があるからやむをえない」、といった反対の主張をし始める。
あたかも上皿天秤の逆側におもりを載せ合うようなものだ。
逆側にカウンターを当てる、という表現がピッタリくる。
中庸を生きるには、極を知ってカウンターを当て続け、バランスをとること
と言えるのではないか?
そんな結論に至った。
例えば、「民主主義」には、「多数決の原理」と「少数意見の尊重」という矛盾するような2つの柱がある。
多数決が間違うこともあるから、少数意見についても検証しながら判断するという建前になっている。
ここにも一つの原則だけでは、バランスを欠いてしまい、危険なものになることを認識した上での設定がある。
物事を決める時に「多数決の原理」と「少数意見の尊重」の間で揺れるのだろう。
この例でもカウンターを効かせざるをえないことがわかる。
思えば、ここまでの私においても何回もそのようなことが起こっている。
ある時点までに考えもしなかった極が現れて、現在の生き方(あるいは仕事の仕方)との揺らぎが起こって、新しい極に一旦振れて、また、その極から現在の生き方側に少し戻る、というような動きを繰り返しているような記憶があるのだ。
こう見てくると、右の極と左の極のどちらが正しいとかどちらが間違っているとかという議論は全くの不毛で、我々がするべきことは、右の極と左の極をどのように揺らぐのか?にしかないのではないと思えてくる。
人生は揺らぎの中にある
思えば、何かの商品、思想、主張が世の中に登場した時に、それに対して賛同と批判が必ず出てくる。
批判の原因にはもちろん、嫉妬などによるものもあるだろうが、自分がよりよい生き方をするためにそれを選択(賛同)すべきかを前向きに冷静に、登場物を吟味しようとしているはずだ。
これがまさに、カウンターを当てようとしている動きではないだろうか?
このカウンターを当てる行為は普通に人が行っているのだとも感じる。
人間とはデリケートなもので、言葉使い一つで失礼だと感じたり、傷ついたりする。
商品や思想や主張に対して怪しく感じる感覚も簡単に起きる。
軽率だと批判したかと思えば、慎重すぎてチキンだとか言われる。
真面目だと褒められているかと思えば、裏では融通が訊かない奴だと思われている。
自分の主張を投稿しただけなのに炎上したりもする。
人生の道とは、非常に幅の狭い板、あるいは、綱の上を歩いているように感じる。
右に少しでもずれれば、あるいは、左に少しでもずれれば、簡単に何らかの失敗が起こる。
右に少しでもずれれば、奈落の底へ。
左に少しずれても、奈落の底へ。
これは人間がデリケートだからであり、自分にも人にも自分の完璧を求めるからである。
そして、人はいずれにせよ、悩んでしまう。
また人は、完璧であるからゆえなのか、直線的に目標に上っていき、目標達成のところでずっと安定することを望んでいるが、そんなことは幻想でしかない。
諸行無常、人生は安定することはない。
常に変化し続けている。
日々、問題が発生して、右も極を信じればいいのか?左の極を信じればいいのか?
揺れ続けてとどまることはない。
人だけでなく、歴史の長いスパンで社会全体も、例えば社会主義なのか?資本主義なのか?のシステムも大きく揺れている。
100年あるいは1000年単位で、カウンターが当たって、より戻しが起こるかもしれない。
ところで、この極の理解には、中庸を生きることと同時に別の利点も含まれていると思う。
極の理解は、多様性の理解でもあり、反対意見にも興味と愛情を注ぐことにつながる。
これは、反対意見に納得しなさい、ということではなく、反対意見をちゃんと見る視界がある、余裕が出るというような意味合いなのだろう。
自分は偏りのある人間であり、死ぬまで偏りはなくならないのだろうが、それでも極を学び、カウンターを当てて揺らぎ続け、中庸であろうとして生きる。
この人生という綱渡りのような細い道を。
右に揺れ、左に揺れながら、時には一回下に落っこちたりもして、それでもそこから這い上がって、また揺らぐ。
人は揺らぎを迷いである、そして、迷いは良くないものだと認識している。
揺らぎを止めるのではなく、むしろ揺ぎが当然で、揺らいでいていいのだ、と認識を変えること。
揺らぎにむしろ身をゆだねることが大切なのだと思う。
自分は次にどこに行こうとしているのか?どこに行きたいのだろうか?
自分のもつ怪しい、何か違うという感覚(批判的なもの)を抑え込もうとしない、感じる批判的な感覚は止めない。
批判的な感覚は揺らいで中庸に向かうためのカウンターであるだけで、完全否定ではない。
この揺らぎが人生そのものなのではないのだろうか?
そう感じている。
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【著者プロフィール】
RYO SASAKI
量子力学で人間の身体は固体ではなく、波であると言います。
ならば人間自体が揺らぎそのものだとも言えますね。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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