「老齢的超越」に向き合ってみて発見したこと。
「老齢的超越」という言葉を耳にした。
この域に達している百寿者は幸せなのだという。
長寿社会においては「老齢的超越」が目標になる、と言えるのだろうか?
「そんなに健康を気にして一体どこまで生きたいの?」
私はこんなことを言われたりしてきた健康オタクなのだが、それは決して長生きしたいからではない。
死ぬまで健康で生きたいのだ。
目指せピンピンコロリである。
残念ながら、その方法を知らないから、区別ができずに長生きのための健康法を追いかけているようになってしまっている。
無病で75歳くらいまで生きらればいいと思っている。
そうは言うものの、75歳になった時に自分がどう思うかについて全く自信がないのだが・・・。
75歳で人生を終えられるのでならば、「老齢的超越」なんてものは考えなくてもいいと思うのだが、そこまでで人生を終えられる自信はないわけで、そして、幸せと聞けば気になるもので、一旦、この「老齢的超越」というものに向き合っておきたいと思う。
老齢的超越と幸福
「老齢的超越」は、社会学者のトルンスタイムが1989年に提唱した概念で、
物質主義的で合理的な世界観から、宇宙的、超越的、非合理的な世界観への変化のこと
らしい。
もう少し具体的な特徴をいくつかピックアップしてみる。
・身体的な健康を重視しない
・社会的役割を重視しない(社会的自己からの離脱)
・自己への執着が低下する
・孤立への欲求が高まる(内向性)
・何が善で何が悪かを決めることが困難であることを悟りあるがまま受け入れる(無為自然)
・人類全体や宇宙との一体感を感じるようになる
誰でも老齢的超越状態に至るわけではない(全体の1~2割ではないか)のだが、年齢を重ねた人にこの状態の人が多い傾向にはあるという。
次に以下の本に紹介されている調査結果や仮説から、幸福感や健康との因果関係をピックアップしてみたい。
話が長くなるお年寄りには理由がある
「老齢的超越」に至ると幸福なのか?のある調査では、上記「老齢的超越」の特徴の中で、
社会的自己からの離脱・内向性・無為自然の3つが、幸福と正の相関があった。
内向性は一人でも愉しい、無為自然はありのままを受け入れる、という意味合いのようだ。
次に長寿の人に特徴的な性格には、
誠実性が高い、神経症傾向が低い、外向性が高い、などがあるという。
健康にいい方法を知ればそれを誠実にこなせるから(深酒をしてはいけないとか)、という意味合いであり、ストレスがやはりよくないので、細かいことや人との関わりの煩わしさをあまり気にしないことが長寿の秘訣らしい。
これは、80歳くらいの方の調査なのだが、100歳超えの方の場合は、今度は開放性がポイントになるという。
開放性が高いとは、空想力や知的好奇心があることで、開放性は一般的に加齢とともに下がる傾向にあるのだが、100歳を超えた方ではこれらが高まる傾向にあるようだ。
これらの内容について、どれも概ね納得するように感じる。
日々無理せずに愉しく生きると長寿になる、と一言で言ってしまえるのではないだろうか?
そんな風に思う。
「老齢的超越」の要素に、身体的健康を重視しない、という項目があるなど、一方での健康のための誠実性と反するようにも思えるのだが、健康な生活習慣で淡々と生きる以外、健康を過度に気にしない、という理解でいいのではないかと思う。
長寿は遺伝か?環境か?
人生は80歳から 年をとるほど幸福になれる「老年的超越」の世界
こちらの本のデータや仮説からは以下のような内容が紹介されている。
長寿は遺伝子要因が20~30%、環境要因が70~80%。
ヒトゲノム30億個のうち1%程度の約3000万個が個人差を分ける。
長寿はまれな作用の強い遺伝子の変異で起こるわけではなく、いくつかの作用の弱い、比較的ありふれた遺伝子の組み合わせで長寿が達成されるのではないか、という仮説がある。
※いろいろな研究がされているが、なかなか解明には時間がかかるもののようです。
ちなみに、性格に遺伝と環境がどのくらい影響するのか?については、環境要因が60~70%であるというものがあった。
参照:行動遺伝学者に聞く「遺伝」と「環境」はどれくらい影響する?【中編】
これらを総合すると、長寿もそのひとつの要素の長寿になりやすい性格も環境要因が大きいということになる。
長寿や幸せに関して、遺伝要因が大きいと決着がついてしまえば、踏ん切りがついてこれほど楽なこともないと思うのだが、どうもそうはいかなさそうだ。
考えて見れば、そもそも環境によって変化できない種ならば、環境の変化に非常に弱いから、その種をつなぐことはできなくなる。
だから、環境によって十分変化できるようにもともとできているのだ。
そうすると「こんな性格だから仕方ない」と言うのは体のいい逃げ文句であって、変えることはできる=環境適応の努力をしていかなければならないということになるわけだ。
なろうとしてなるのか?自然になるのか?
さて、この「老齢的超越」を知って私は今、何を思うのだろうか?
まず初めに、「老齢的超越」の要素を見るともちろんその域には到底及びはしないものの、私は少しづつそこに近づいているように感じた。
私はずーっと常識に固められてきたことによって、人間相場では平均値にある自分に嫌気がさした時期がある。
自分の中にある他人と異なる部分、いわゆる”自分らしさ”なるものを追い求める時期があった。
周りから見れば自分は、最初から十分変なやつ(個性的)だったのかもしれないのだが。
そんな自分が、ここに来てまた平均的に老いていっているかもしれない自分を見ることになり、何とも苦い感覚になる。笑。
次に、「老齢的超越」が幸せに長生きするための要素だとすると、それを目標にして早いところ、そこに到達した方がいいのだろうか?という問いについて。
これには、何か違和感がある。
例えば、若いうちに「老齢的超越」の状態になるべきものではないような感覚がある。
もちろんなってしまっても問題があるわけではない。
「老齢的超越」は経験を重ねて、自然にそのようになっていくものなのではないだろうか?
無理を知って、あるがままに受け入れるというような流れだ。
年をとると無理ができなくなるから、できないことを受け入れて生きるしかない。
若い頃にできたのは無理が利いたからであって、そもそも無理なことだったのだ。
それを後からわかることになるという話なのだ。
これらのことは、環境適応をするひとつの自然な流れでしかないように感じる。
できないことに抵抗することは人生を苦しくする。
死活問題にならない範囲において、できないことを受け入れることこそ、自然な環境適応だ。
以前にも書いた脳の話に紐づけて言うとするならば、大脳新皮質の判断によって抵抗が起り、古い脳は楽な方を無意識に選択しているように思える。
種のもつ無意識の環境適応に委ねた結果に「老齢的超越」があるのではないだろうか?
前章では、環境要因が大きいから努力しないといけない、と書いた。
これには何か意識的にコントロールする、という意味合いが含まれることになるわけで、そうなるとここでコントロールか?成り行きか?という二項対立に突き当たる。
自分らしさについてあてはめると、
自分らしさはコントロールすることでなるのか?
成り行きで自分らしさが出るのか?
このコントロール?成り行き?を環境適応について言えば、ここまで種が受け継がれて来たのだから、成り行きでも十分に行われていると信じることができるだろう。
それに輪をかけてコントロールを重ねる程度がポイントになるのだろう。
無意識を尊重していくことで、(これは日々愉しく生きることだと思えるのだが・・・)まずは十分なのではないのだろうか?
要らない情報?
さて、今回、「老齢的超越」に触れたわけだが、それを記憶にとどめるに当たって何か不思議な感覚になった。
何か、この情報を知っても知らなくても何も変わらないような・・・。
何か、知ることでこの情報に振り回されてあれこれ気にすることになってしまわないか?
それが長寿の妨害になって本末転倒ではないか?
いや、違う、身体のどこかが「老齢的超越」をもうすでにわかっていたような・・・
私は、人との会話で共感をしようとして、相手の気持ちを「思っていることは・・・ということですよね」など、相手の言葉の足りなさを埋めて丁寧に言葉にしたことが何度かある。
これによって見事に相手を不快にさせてしまった。
「みなまで言うな」
この感覚に近いのかもしれない。
そういう意味では「老齢的超越」は忘れてしまってもいいとも思う。
記憶するにしても、距離をおいて何となく漂わせておこうと思う。
それが自分を信じること、今まで通りに行こうと。
今回の件で確認できたことを最後にもうひとつだけ。
これもまた、最近私が掛かっている脳に紐づけた話だ。
無意識のような大脳新皮質の外にあることを、このように大脳新皮質によって、尊重を前提として詳細に言葉で説明させるということ。
これは、大脳新皮質に語らせ、大脳新皮質自体がサブであることを自ら認識させる、ということになる。
何ともよい機会を得た。笑。
また、一方では年をとると大脳新皮質の制御が弱まり、わがまま極まりないことになったりもする。
私はこれらの両方のことに対応して、大脳新皮質にスーパーサブを演じてもらって見事な連携を進めていきたいという思いをまた強くするのだった。
そして、こんなにまで理屈をこねて、楽な道を探そうとする自分は何者なのだろうか?汗。
何ともたくましい。
この好奇心があれば大丈夫か?
オイオイ、何歳まで生きようとしてるんだよ!笑
Photo by Richard Bell on Unsplash
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
今回老齢化について学んだことは、あまり意味がないようなニュアンスで書いてしまいましたが、長寿社会では今後何度も老いるということに向き合う機会があるのだろうと思います。
環境適応ゲームと捉えて向き合っていきたいと思います。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
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