「無為は退化で、人為は進化なのか?」ぐうたらな種の行方の話。
「人はどこまで自然であるべきなのか?」
このことが気になりだしたのはいつ頃のことだったろうか?
人間にとっての不自然なものがいろいろと目に付くようになって、自分の中に懸念が広がっていったように記憶している。
それでも、このことは最近どこか忘れていたのだが、ひとつの本をキッカケに思い出すことになった。
私はなぜ、こんなような変なことが気になるのか?理由はわからないのだが、この感覚はどうやら子供の頃と変わっていないように思える。
この問いを解くためには、「自然」とはなんぞや?がないとならず、これがまた難しいのだが、逆の不自然とは何か?から、自然というものの輪郭を浮き上がらせることしかないのではなかろうか?
ドツボにはまりそうなので、まあ、あまり難しく考えずに思うままに進めるしかないように思う。
まずは、思い出させてくれた本の言葉から始めることにする。
「無為」という言葉
こちらの本に、「無為」というコラムがある。
「無為」という言葉は私にとって初見のようではあったのだが、朧げながら仏教用語のような記憶がある。
それでも、不自然への懸念を抱えた私にもかかわらず、それはどこか縁遠い言葉だった。
辞書によると、
無為 : 自然にまかせて、人為を加えないこと。
という意味が出てくる。
この言葉から私がパッと連想されることは・・・
「自然に身を置くと気持ちいい」
これもいつくらいからなのか、山や河や海など、自然の株が上がった。
森林のフィトンチッド、海風に含まれるミネラル、裸足になることでのアーシング・・・・
気持ちいい、の理由解説もいろいろ出ている。
これに対して人為的なものは、建物に使われていた悪名高きアスベストを代表として、壁などの溶剤、パソコン・スマホなどから出る電磁波、ブルーライトなどなどになるのであろうか・・・。
「風邪を治すには休養するに限る」
日本では風邪にかかると病院に急ぐ人が多い。
病院では風邪薬?を処方されるのだが、ヨーロッパでは、病院にいくと黙って寝てなさい、と言われて家に帰されるだけなんだとか・・・。
ここでは薬が人為的なものだ。
不調な時は安静にしてじっと回復を待つ野性の動物を見倣いなさい、と人間様が言われたりするようにもなった。
「超加工品を避けましょう」
超加工品とは、常温でも保存可能に加工してある食品で、添加物、糖分、脂肪、塩分を多く含む。
いつでも簡単に食すことができて大変便利なものだが、これもまた人為的なものの典型であると言えるんだろう。
腐らないのは不自然である、と言ったらわかりやすいかもしれない。
こんなように、ちょっと思い浮かべただけでも私の生活は人為=不自然にまみれているのだ。
「忙しくする」は人為
ここで先ほどの本のコラム「無為」の中身を紹介する。
コラムに取り上げられた人為的なものとは、なんと意表をついて「忙しくする」というもの。
私があげた身の回りにある環境の不自然さとは全く違ったところの、人の考え方(常識)の不自然さであった。
忙しいのがいいことで、誰もが忙しくしていなければならないという観念が働いている。
忙しいのはそれ自体が目的になり得るものなのだろうか?
~中略~
誰かに会って「お忙しいでしょう。」と言われるのは挨拶であって、そんなに忙しくして何が面白い?という意味は含まれていない。
それは一種の賛辞でさえあって鄭重な招待状には大概そのどこかにご多忙中恐縮ながら、
という文句が入れてある。
なるほど確かにそうだ。
私はこれを読んで我が意を得たり、とほくそ笑む。
思えば、何でこんなにやることが多いんだ?と一人暮らしを始めたくらいの時に私は既に気づいていた。
朝起きると布団をたたみ、顔を洗い、歯を磨き、髭を剃り、髪を洗い(天パーでそのままでは寝ぐせが酷かった)、満員電車に揺られ・・・、仕事から真夜中に帰ってきて、洗濯して風呂を沸かし・・・分刻みでやるべきことがやってきてしまう。
それをずーっとやり続けるのが、人生というものでホントにいいんだろうか?、と。
これに加えて、忙しくしなければ何も成し遂げることができない、という感覚がいつからかついて回るようになり、早く仕事を片づけて早く次の仕事にかかる、パフォーマンスを上げないとならない、人生は短い、老いる前に早くやり遂げてしまわねば・・・と自分にプレッシャーをかけるようになった。
忙しくなければ「人でなし」だとされる風潮すら当たり前になっていたようだ。
忙しくしてないと生きていけない、という恐怖に煽られながら生きてきたようにも思う。
同時に楽して稼ぐことに対して、良心の呵責を背負わされてもいる。
実質的にも何かに絶えず追われている間の僅かな隙が余暇と呼ばれるような事態に人間が満足していられる筈がないのである。
~中略~
忙しいことがいつの間にか主流になった。
既にその理由の詮索をやる時期は過ぎてその理由から生じた結果が無意味であることをさっさと認めた方が我々の為であるところまで来ているように思える。
~中略~
余暇ということもこれは何もすることがない時に、何もしないでいる期間を指すものではなくて余暇を楽しむというのが、そういう際に何かすることを見付けて時を過ごすこと、競技に熱を上げたり遊びごとに夢中になったりすることなのである。
本当はこの逆だったはずなので時間がただそれだけで充実しているのに何かしなければならないのが億劫であるからこそ人間なのである。
仕事や家事でパンパンなところに、無理に余暇時間をこじ入れてまた何かで忙しく遊んで休んだことにしようとする。
確かに私も週末休みに夕方まで寝ているというのは、ダメ人間だと教わって、健康のためだと教わって無理してハードな運動を入れていた時期がある。
スケジュール表が一杯になっていないと落ち着かない人、分刻みで物事をクリアすることをゲームのように愉しむ人も現れたらしい。
人間の自然に立ち帰れば、休暇とはそもそも何もしないことだったはずなのに、人は何もしないでいることがほとんどできなくなってしまうくらい不自然になってしまった、というのががピッタリ当てはまるように思えてくるのだ。
こうして、私というぐうたらに思わぬ福音がやってきたのだ。
「忙しくする」の問題
「忙しくする」が無意識に当たり前になってしまっているのだが、それは「無為(自然)」ではなくて「人為(不自然)」なものであった。
この思わぬ福音に、加勢されて「忙しくする」の問題を上げていくことにしよう。
「忙しくする」ことの弊害を、漢字からとって心を亡くす、と表現することも多いが、また別のこんな表現もある。
何もしたくない時には、何かをしたくなるまで、ただ、何もしないでいればいいのだと思う。
我慢と憎しみは比例する。
我慢をしている人ほど肌は渇き、自由に生きている人を憎むようになり、自分が自由になることよりも「他人の自由を奪うこと」に意識が向かう。
思い当たることがある。
若き日の大変混雑した空港でのこと。
私は、週末なのに仕事に向かう途中で、搭乗時刻ギリギリで搭乗口に向かって走っていたのだが、その時は前に立ちふさがる人垣がたいそう邪魔に感じて、我先にと肩をぶつけては走り抜けていた。
「おい、何すんだ!」
と罵声を浴びせられてもひるむことなく、突き進む。
あの時は、自分が人でなしだった、と言わざるを得ないだろう。
とにかく個人的に多忙を極めた時期で、休みの日に悠長に歩いて旅先に向かおうとしている人垣に、憎悪の念がこみ上げてきた、というのがピッタリする。
私はその忙しさを我慢することによって、どこかに恨みを募らせていた。
今思えば、その募らせた恨みという虫がその時全身を這いずり回り、それが内側から私を突き動かすようだった。
また、別でこんなのもある。
人は自分をある正義で律していると、その正義を回りにも強要しようとする。
一部の聖人君主(私は未だに出会ったことはないが)以外は、このような我慢と憎しみの比例を、共感できるんではないだろうか。
仮に我慢できていたとしても、それは自然を通り越して間違いなく健康ではない状態になる、とすら思う。
少なくともこの時の私は、心身ともにまったく健康ではなかったのだ。
さて、ここまでで私は、「無為」を尊重し、「人為」をいい塩梅にしないと、人は壊れるのだ、とあらためて確信を得る。
やっぱり、人は自然であるべきなのだ。
自分の都合のいい情報を見つけては、それを信じて生きていくのがいい方法だ。
今回もそんな類いで、不自然に対して懸念をもっている私と、ぐうたらで忙しくしたくない私が、「忙しくする」というのは無為ではなくて人為である、ということで見事につながって、都合よく自分のぐうたらを正当化することができたのだ。
自分のぐうたらを直さなくてよかった、と安心する・・・・。
そしてこんなサイトも見つかった。
日本の平均睡眠時間は年々減り続け、2021年には6時間44分/日となり、世界の中でワースト2となった。
これは日本人の「忙しさ」を象徴するデータだと言える。
日本は、残念ながら人為的に「忙しく」する代表国になったと言っていいのだろう。
人為は進化で、無為は退化である!?
ぐうたらにとっては、ここまでで満足だったのだが・・・
そんなぐうたらを周りが簡単に許すわけがなかった。
ひとりの後輩が猛烈に反対する。
「忙しくしているのは、何も無駄なことばかりしているわけではないですよね!?
それだけ何かに取り組んでいれば、何かに詳しくなるし、何らかの技術を身につけるだろうし、忙しいというのは頭の回転が早く回っているわけなんです。
睡眠についてだって、睡眠が少なくても生きていけるという新しい耐性を身につけようとしているわけですよ・・・。
その技術と耐性がないものは、勝ち残っていけないわけで、これは、明らかに人間の進化なんですよ!
少なくとも何もしない、人と比較した場合には・・・」
更に後輩は続ける。
「これから年金を支えようという我々に、その先の年金暮らしが見えている先輩が、ぐうたらでいこう!なんてのは聞き捨てならないんです。」
年金の話を言われると、何も返せない。
「無為」は退化で、「人為」は進化、と言いたいんだろうか?
不健康というリスクを犯してでも新しい環境に適応するための技術と耐性を得ようとチャレンジをする種が世代をつなぎ、私のように今だけよければいい、といったぐうたらの種は、廃れていくのかもしれない。
自然を浴さなくても、電磁波まみれでも、風邪薬で症状を抑えるだけで働けて、超加工品でも生きていける、耐性が高くて、スキルの高い種が次世代の担い手なのかもしれない。
何世代かに渡って健康被害を経験するかもしれないが、それでもそれが積み重なってやがては強い種が作り上げられるということなのではないか?
若者は人類の未来を見て、私は今の自分しか見ていないということなのか?
そんなことをツラツラと考えていると、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人のことが思い浮かんできた。
ホモ・サピエンスがアフリカを出てヨーロッパに広がるのは約7万~6万年前のこと。
そこから3万~4万年後にネアンデルタール人が滅びる。
私というぐうたらの種は、もしかしたら未来のこのネアンデルタール人の種ということになるのではないか?
・・・
それでも、たくさんの睡眠が欲しい私はどうしても、睡眠時間の短縮が数十年~数百年(かなり長いが)の流行で終わって、また睡眠時間が長くなる時代に戻って欲しいと願うのだが・・・。
いや、自分の睡眠が欲しいから、ではやはり説得力はない。
私は次世代のために今時点で、「忙しくする」は流行であって、それは未来に問題となるだろうとして、早々にこの流行から降りる、と宣言することにする。
バレンタイン・デイという流行からも早々に降りたように・・・。(正確には誰からももらわなくなっただけだが)
宣言するものの、結果は数万年先のことだからとても責任を持てやしない。
そうそう、こんなような厄介な問題が、生きている間に決着がつくことなんてないんだな。
こうして、埒があかないから結局は無責任な結論になってしまうのだ。
この結論が、またぐうたらそのものだから、思っても後輩には言えやしない。
静かに思いながら、とりあえず、これ以上若い人の前でぐうたらを賛美するような話は控えることにする。
Unsplashのmauro moraが撮影した写真
【著者プロフィールと一言】
RYO SASAKI
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
結果は数万年後!?。
だとすると現時点で正解も不正解もわからない。
種の自己主張はバラバラでいいんだ、と感じられてくるのでした。
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