自己肯定感が低いのは、正しいことをまともに信じるからである。
日本の高校生の7割以上が「自分はダメだ」と思っている、という記事を見つけた。
そこには、「自分に満足している」と答えた日本人の割合は45.8%と他国より格段に低いという調査結果も載っていた。(内閣府より)
これに対して、他の主要6ヵ国は、71.5%~86.0% となっている。
自己肯定感は、わかりやすくいうと「自分は自分のことが好き」という気持ちのことだが、この数字からわかるように、日本は他国に比べると自己肯定感が低い人が多いらしい。
このサイトに至ったのは、図書館から「自己肯定感低めの人」のための本(2020/9/26)の確保通知が届いたことがキッカケだった。
予約したのがもう半年以上も前で、予約したことも忘れていたのだが、当時の予約待ちは100人を超えていたことを今になって思い出した。
この本はよく売れているようだ。
そういえば、ここ数年で自己肯定感という言葉をよく聞くようになった。
世相を反映しているのだろう。
今回は、このはやりの?自己肯定感について四の五の言ってみることにする。
自己肯定感が低くなるのはなぜなのか?
現実は変えられなくても解釈は変えられる
この言葉が、多くの心理カウンセラー同様、この本でも自己肯定感の低さから抜け出すための前提として語られている。
逆をたどると、自己肯定感が低くなる原因は、解釈が偏ったところに固定化するから、ということになる。
例えば、「人は完璧でないといけないものである」という人としてはあり得ない偏った解釈を固定してしまうと、完璧でない自分をいつも否定するようになる。
また、すぐに怒り出す人(多くは家族)の前に晒され続けると、すべての人が怖いものであると解釈が固定して、人を避けたり、周りの人に従順になったりする。
その結果、そのようにしている自分に嫌悪感を覚えるようになる。
このように、解釈の固定化は外からインプットされた情報を信じ込むことによって生まれる。
そして、特に7歳までに刷り込まれた解釈がその後の人生に大きな影響を与えるというが、子供の頃に刷り込まれた解釈について、本人に自覚がないことがなんとも厄介なことだ。
自転車に乗っている人がどうやって乗っているか意識していない、と同様に解釈が無意識の中に刷り込まれてその解釈にしたがって反応して生きてしまって、本人も気づいていないのだ。
幼少期のトラウマのことはよく問題視されるのだが、その原因は恐怖体験と言った過激なものに限った話ではなく、幅広い範囲の解釈の固定によって起こっていることにも気づかされる。
ならば、大人になって意識して解釈したものは問題ないかというと、最初に意識したものもそのうちに無意識になり、人は9割のことについて無意識に反応して動いているらしい。
解釈の固定化はいずれにしても無意識に生まれていて厄介なものである。
真面目という厄介なもの
人間は周りの情報を学んで大人になるものだから外からの情報は必要なものである。
子供は社会で生きるために周りに従順にできていると言えるから、周りの情報に影響を受けて当然である。
しかしそのことによって、固定化による悪影響が起こってしまうのは、何とも皮肉なものだ。
私の場合はどんな影響を受けて、どんな解釈を固定してきたのだろうか?
いろいろあるのだろうけど、その中の一部をあげてみたい。
子供の頃、親から繰り返し言われた言葉に「人に迷惑をかけるな」というものがある。
これは社会で生きるために必要なことで、大変素晴らしいことではあるのだが、今思えば、迷惑をかけないようにするために、気遣って精神的に疲労したことがあった。
人が人に一切の迷惑をかけていないということは、相手に気を遣うことや自分を抑えることをなくしてはあり得ないものなのだ。
やり過ぎがあったのではないだろうか?
私の場合は自分勝手なところがあったから、「人に迷惑をかけるな」と言われるくらいでちょうどバランスがとれて良かったのかもしれないが。
次に進路や仕事について。
周りがいいと言っている人生が正しい、と信じる。
→その人生を目指し努力するべきだと信じる。
→我慢と苦痛に耐えるからその分の見返りとしてお金を手に入れられる、そういうものだと信じる。
親などの言動を観察するなどして、このような解釈の連鎖を作り出し、自分に刷り込んできたように思う。
この解釈の固定化により、サラリーマンを何とかやって来れたのかもしれないのではあるが。
後悔があるわけではないが、別の人生を信じても良かったし、もう少し努力を減らす知恵を働かせても良かったし、我慢と苦痛を減らしてお金を稼ぐことにチェレンジしても良かったかもしれない。
さて、私の特徴のひとつに「真面目」というものがあると思う。
外から見てどこまで真面目なのかは自分ではわからないものの。
真面目は素晴らしい性質と言われることが多い。
その理由としては、
・あることを信じたら、我慢強く忍耐力があって努力できるから結果を出せること。
・周り(親、先生、上司、政府など)がその人を扱いやすいこと。
などが上げられるだろうか。
ところがこの本によると、残念ながら真面目な人ほど自己肯定感が低くて苦しむ傾向にあるらしい。
真面目な人にある、正しいことを信じて続けられるという資質が、正しいことに押しつぶされる結果になり、自己肯定感の低さに苦しむことになっていくようだ。
確かにこれは納得がいく内容である。
信じることの厄介さ
ここまでから、自己肯定感に影響する「偏った解釈の固定化」は、
正しいことへの一心不乱な信奉
によって起こる、ということが見えてくる。
そして、真面目な人ほど正しいことを一心不乱に信じやすい。
・理想の人生を生きること
・努力すること
・迷惑をかけないようにすること
・完璧にすること
これらの正しい(ような)言葉は、子供の頃に親からインプットされるところから始まり、社会に出ても仕事から要請されるものである。
ところが、理想の人生にもいろいろあるし、努力にも限界があるし、迷惑かけないにも限界がある、のが現実である。
ここに信じてきたことと現実のジレンマが発生する。
教育というものは、子供に現実を見せることでショックを受けさせないようにするために、不正解や不道徳を隠すものだ。
その隠された不正解や不道徳が現実に見えてしまって愕然としたことを覚えている。
子供は大人から正解を押し付けられ、道徳を押し付けられるが、押し付けられたものを世の中の大人が実行できていないことを知っていく。
その時期がちょうど反抗期に当たるのかもしれない。
このことから、大人になるということは、正しいこと、道徳的なことを身に着けて社会に順応していくことの一方で、正しいこと、道徳的なことを否定していくことでもあると思える。
一般的に人は正しいことと道徳的なことに対して、いい意味でいい加減に距離を置くことを身に着けて行くものだが、なぜそうなるのか、納得がいく説明をしている大人がいるとは思えない。
少なくても私からすると。
この矛盾を知っていて、心がどこか苛まれながら生きていくのが多くの大人なのかもしれない。
いずれにしても、解釈の固定化がない子供は存在しないだろうし、大人も同様なところがあるから、解釈の固定化に気づいて、その固定した解釈を疑う必要がある、と本は伝えているように感じる。
すべてのことを信じ切らないで生きる
世の中には信じるに値しない情報が溢れているわけだが、正しいとして信じるに値すると言われる情報も溢れている。
そんな世の中にあって、正しい情報に対しても全面的に信じることに危険があることがここまでのことから見えてくる。
すべてを疑え!ここでまたデカルトの方法的懐疑につながる。
人は分別を学び、正しい、間違いを判断して上手く生きていくものだが、この分別は時に苦しみを招く。
人が理想を立ててそれに向かい、実現することで幸せを感じるものではあるが、一方で理想は必ず過重なものに行き着き、苦痛を感じるようになる。
分別、理想とどの程度距離を詰めて、どの程度距離をおいて生きるのか?
その判断こそが自分のものである。
外にある正解に判断を委ねてしまわないで、自分で正解を疑って正解との距離をとることに尽きるのだ。
ところで、この本は自己肯定感について書いているものの、自己肯定感を上げるということは無理があって、自己納得感が大切なのだと結論している。
ならば、ここまでの思考の過程が、私の自己納得感である。
冒頭の日本人の自己肯定感が低く見える回答は、日本人の謙虚さによるものである、という説明をみたことがある。
なぜ謙虚かというと、出る杭を打ち、一律であることを求める国民だからである。
これが、自己肯定感が低いことの原因でもあるとここまできて確信できるようになった。
こうでないとならない、という価値観を一律に押し付けることで解釈が固定して、それに照らし合わせた自分がダメだと感じるということなのだ。
最後に、もう一度真面目について。
真面目な人間が正しいことを一心不乱に信じられる理由に、単純化と合理化が含まれているのではないだろうか?
早く解決するためにシンプルに分かりやすい答えを求めて、一つの正解にすがりつく。
この一見良さそうな、単純化と合理化から苦しみが生まれている面がある。
疑うことは、手間暇もかかる。
そして答えが出ないかもしれない。
どこか妥協というのか、逃げというのか、いい加減な処理が求められるわけだが、そうなると真面目な人はその曖昧さで具合が悪くなってしまうかもしれない。
それでも、自己肯定感の低さにさいなまれずに生きるには、真面目な人が嫌がるこのような曖昧さが必要なのだと思う。
真面目な私はこんな風にして、真面目な人の悪いところを真面目に考えるのだ。
これが残念ながら、真面目の悲しい嵯峨だと思う。
Photo by Francisco Gonzalez on Unsplash
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
自分の解釈を固定にできるだけ気づいて、不真面目に、いい加減に、暮らしていきたいと思います。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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