「ついでに〜する」という行為は、できるだけ取りたくないという話。
時折「このためだけに来たんですか?」と聞かれることがある。
今年に入ってからもすでに3度あった。
どういうシチュエーションかもう少し詳しく書きたい。
私が住んでいるところは狭山茶発祥の地で知られる地域で、まあまあ交通の便が悪い。
最寄りの駅までは一番近いところで車で10分〜15分(本数が少ない)、よく使う駅までは車で25分〜30分。
そんな場所から新宿や渋谷などの都心部に出ようと思うと、賞味、往復3時間〜3.5時間くらいかかる。
ゆえにお会いした人が「このためだけに来たんですか?」と聞くのだろう。
これに対して「そうです」と私が答えるとたいていの場合で驚かれる。
その方の頭の中に「きっと他の予定や用事と組み合わせて来ているのだろう」という想定があるからなのかもしれない。
しかし、このためだけに来ている私からすれば「そうです」と答える他に選択肢はないのだ。
そして、この一般的には非効率的と思われるのかもしれない行為をする理由は実はちゃんとある。
私は「ついでに〜する」という行為をできるだけ取りたくないのだ。
その目的のためだけに時間を使いたい。
「ついでに〜する」という行為には敬意が無いように感じてしまう
こうやって考えるのは、シンプルに言えば「ついでに〜する」という行為に対して、敬意が無いように感じてしまうからである。
ついでに人に会う。
ついでに物を買う。
ついでに様子を見る。
ついでの先に来る人や物事は文字通り、一番の目的ではない。
あくまでも二番手三番手で、ついでだ。
このスタンスがどうも私にはしっくりこないのである。
もし仮に自分に、誰かが何かのついでで会いにきてくれることになった場合があったとして、それは嬉しいことなのだが、一番の目的で会いに来ていただいた場合の喜びには到底及ばない。
「あなたに会うためだけに来た」と言ってもらえる方が何倍、何百倍も嬉しい。
内田樹さんと安田登さんの共著「日本の古典講義」の中に「人間は愛情にはあまり反応しないが敬意には鋭く反応する。」とある。
以前読んでここはまさに慧眼だと感じた部分だ。
自分が「しみじみ感心されている」ということは、どんな人間でも分かる。閉じられた扉を解錠する鍵があるとすれば、それはつくりものではない本当の敬意だと思うんです。
愛情じゃなくて。人間て、愛情にはあまり反応しないんですよ。でも敬意には鋭く反応する。犬でも猫でもハムスターでも愛情の対象になるじゃないですか。でも、人間はそれだけでは心を開かない。
なぜか。たぶん人間は、他人に愛されたときには「愛されて当たり前」というふうに他人の愛情を既得権益に算入してしまう自分勝手な生き物だからなんだと思う。
でも、敬意はそうはゆかない。敬意は「この人には何か余人をもっては代えがたいところがあるな」という評価を含んでいるから。それは言い換えると「この世に存在していることの意味」なわけです。
あなたはこの世に必要とされている。あなたはこの世に存在する権利がある。あなたにしかできない仕事がこの世にある。それが敬意が伝えるメッセージじゃないかと思うんです。
だから、いくら「愛している」と言っても開かない心が、無言の敬意に対しては反応するということが起きる。
人間関係において愛情は大切だが、それより遥かに敬意の方が大切なのだ。
私が好んでいる「逃げ上手の若君」という漫画でも、人間関係における敬意の大切さに触れている箇所があった。
話を戻すと、このような「敬意」が「ついで〜にする」という行為には無いように思えてならないということである。
ゆえに、できる限りそのような行為をとりたくないと考えているのだ。
そしてこれは「モノを買う」にしても同じだと思っている。
例えば、私は妻との買い物において度々意見がバッティングをすることがある。
なぜか?
私は目的のモノを買う他に、何かを見たり買おうとしたりしないから。
つまり、目的のものを買ったら他のものは見ずにすぐに帰ろうとするのである。
しかしながら、実際は妻との関係もあるため、付き合う場合の方が断然多いが、そのぶらぶらに付き合う中で何か他のものを見つけたとしても買うようなことは一切ない。
頑固だと思われるかもしれないが、そうやって軽く出会って、買ったものを大切に使えるとは思わないためだ。
モノに対しても、できるかぎり「あなたが欲しい」「余人を持って変えがたい」という敬意を持って触れることを大事にしたい。
こういう生き方をしていると当然時間やお金はかかる。
「そんなの非効率じゃないか」と思う人も多いかもしれない。
それでも私のスタンスとしては、できる限りそのためだけに時間を使いたいのだ。
ちなみに「効率」の一般的な定義は「時間内にできるだけたくさんのことをする」なのかもしれないが、個人的には「大切な時間を使って価値のあることをする」を効率の定義と捉えている。
たくさんのことはしなくてもいい。
大切な時間を使って価値あることができた時「効率が良い」と感じるのだ。
混載させずに「このため」だけをていねいに運ぶ人生を送りたい
このような考えの一角を先日Xに投稿した。
すると、お世話になっているしごたのの大橋さんがとっても素敵な言葉をここに添えてくれた。
混載させずに「このため」だけをていねいに運ぶ人生。
私が送りたい人生はまさにこういう人生なのだ。
UnsplashのClay Banksが撮影した写真
【著者プロフィールと一言】
著者:田中 新吾
プロジェクトデザイナー|プロジェクト推進支援のハグルマニ代表(https://hagurumani.jp)|タスクシュート(タスク管理術)の認定トレーナー|WebメディアRANGERの管理人(https://ranger.blog)|「お客様のプロジェクトを推進する歯車になる。」が人生のミッション|座右の銘は積極的歯車
これからの人生も「このため」だけを丁寧に運んで生きたいと思います。
●X(旧Twitter)田中新吾
●note 田中新吾
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