自己嫌悪について考えて、かえって自己嫌悪する!?自己嫌悪に終止符を打つ方法。
洗剤(洗濯用、食器洗い用)をお徳用パックから、普段使いのプラスティック容器に移す時、私は、しょっちゅう溢れさせてしまう。
何もそこまで満杯ギリギリを狙わなくてもいいものを・・・。
今回は、かなり注意して8分目程度まで注いだところで、気持ちよくはないがそれでよしとした。
数年間に渡る自己嫌悪と反省が、やっとここに結実したのだ。
何とも大げさだが。汗。
ところが、そのご満悦の状態で皿を洗おうとスポンジに洗剤を注いだところ、洗剤がドドッと大量にこぼれてしまった。
今度は、容器のキャップを締めるのを忘れてしまっていたのだ。
私は、注ぎ終えて安心した瞬間に「自己嫌悪」というものについてグッと集中して考え始めた。
数日前に読んだ、岸田秀の『ものぐさ精神分析』の中の「自己嫌悪の効用」。
この本の影響で、ここのところずーっと私の頭の中が「自己嫌悪」に占められていた。
それで食器洗いの自動運転(無意識でできる作業)の時間にまた思いを巡らそうとしたようで、キャップを締める前に、「自己嫌悪」に集中してしまった。
単なる老化と言うなかれ。
これは思考を巡らしている高貴な類の老化なのだ。(トホホ。)
私はまた自己嫌悪に陥り、反省のタネができてしまった。
自己嫌悪の多い人生を送ってきました。(←人間失格風 !?)
自己嫌悪を考えることによって、新たな自己嫌悪を産みだしてしまった・・・。
などと、上手いことを言おうとしてる場合ではない。
これまでの繰り返してきた自己嫌悪と反省を、この先どこまでし続けなければならないのだろうか?
仕事をリタイアして年金生活を送る、みたいに、自己嫌悪からもどこかでリタイアできないものか?
そんな何とも情けないキッカケで、今回は老化が進んでしまう前にこの厄介な自己嫌悪というものについて書いてみたい。
自己嫌悪の効用
私はこれまで、自己嫌悪は自分がよりできる人間になるために、反省して改善するために必要なものだ、と思ってきた。
また、うまくいくとすぐに調子に乗る自分が出てくるから、それを抑え込むためにも一旦落ち込ませなければならなかった。
自己嫌悪している自分は自分の問題に真摯に向き合っているから、誠実で謙虚である、という印象すら持っている。
これに対して、『ものぐさ精神分析』には真反対のことが書かれていて驚いた。
むしろ自己嫌悪には、誠実さを欠いた詐欺行為のような側面があると指摘しているのだ。
岸田さんの指摘は、自分がこれまでに自己嫌悪したことで改善したものは何もなかった、という振り返りから始まる。
改善しないとすると、人は自分を貶めるような苦痛な自己嫌悪を一体何のためにしているのか?
人が自己嫌悪をする時に、自分の中に嫌悪される自分と嫌悪する自分がいるわけなのだが、「ついやってしまった」「どうかしてた」「魔が差した」「虫が騒いだ」などと自己嫌悪して、その行為は真(本来)の自分がしたことではないことにしているのだ、という。
そうすることで、高潔である真の自分(ホントはそうでありたい自分)と嫌悪される真の自分ではない(そうあって欲しくない)自分とを切り離すことができるのだと。
こうして高潔な真の自分を強化して、自分は悪くなかったとして終わらせる。
更には、「気が弱いもので」などと自己嫌悪に苦しんでいる被害者をお許しください、と涙ながらに無罪放免を請う。
こうして、見事に自分には嫌悪するようなことはなかったと煙に巻くことができてしまうのだ。
これが自己嫌悪の効用だ。
「自己嫌悪の効用」というタイトルは、皮肉だった。
誠実で謙虚であるはずの自己嫌悪というものが、何とも不誠実で、ずる賢いものに見えてくるわけなのだが・・・。
うーん、なかなか深い話だ。
確かに自分に、自己嫌悪を振る舞うようなところが、あったような感じがする。
自己嫌悪はパフォーマンスだった!?
これを知ると自分は何も考えずにここまで自己嫌悪してきたことに気づかされる。
ここまで、ただ惰性で自己嫌悪してきて、自己嫌悪が癖づいてしまっているだけなのだ。
こうしてまた、自己嫌悪が始まる。汗。
私の自己嫌悪
これまでの自己嫌悪に照らし合わせてみる。
真っ先に思い浮かんだのがこちら。(他にもたくさんあるのだが、ライトでかわいい?ものでご容赦願う。)
小学生の時、学校の蛇口の水を出しっぱなしにして立ち去ろうとした時に、先生から注意された私はこう言い返した。
「出しっぱなしにしたって、僕は何も損しないから・・・」
後日報告を受けた母親が、育て方が悪いのか?とかなりショックを受けていたので、私も引きずられるように自己嫌悪に陥った覚えがある。
この自分さえ損しなければ後はどうでもいい、という自己嫌悪して当然の私は、大人になって改善されたのか?
うーん、どうだろう、今でも「自分の損得をまず考える」。
表現は柔らかくなったものの、残念ながら根本は何年たっても変わっていない。
自分は、自分を利するために生きてきて、世のため人のための人間になっていない、と白状するしかないだろう。
やはり私も同様、自己嫌悪しても何も変わらない者であった。
自己嫌悪というものには、少なくても苦痛を伴うし、エネルギーが必要だ。
幸せに生きている人は、自己肯定感が高いらしいから、それを下げる自己嫌悪はまた良くない。
それでいて、不誠実で詐欺まがいで、やっても何も改善しないのならば、自己嫌悪というものはとにかくコスパが悪い、と言わざるを得ない。笑。
していい自己嫌悪としてはいけない自己嫌悪
何とか、このコスパの悪い自己嫌悪を止めることはできないものだろうか?
これまでのたくさんの自己嫌悪を眺めて見ると自己嫌悪を2つに分類できそうに思えた。
ひとつは、先ほど書いた利己的であったり、欲深かったり、ずるかったり、狂暴であったり、気が小さいといった自分の性根に対する自己嫌悪である。
もうひとつは、自分がやるべきことができなかったり、やったことが下手くそだったり、といった行為に対する自己嫌悪である。
これら2つは、混在していることもあるだろうけど、あえて分けて見ると前者は変えられないもの(ここに容姿も入る。我々は残念ながら親ガチャで生を受ける。)で、後者は鍛練によって比較的変えられる技術スキルにあたるものであるように思う。
もちろん後者も望むものが高すぎれば、鍛練してもとても間に合わないだろうけど・・・。
例えば、私の場合は、100mを10秒で走れないからといって自己嫌悪に陥ったとしても、それは鍛練でもどうしようもないものだ。
いや、今や30秒でも無理か?汗。
洗剤を注ぐ時にこぼしてしまう、という注意不足は鍛練によってある程度までは克服できるものだ。
私の場合、こんな簡単なことにもずいぶん時間がかかっているのだが・・・。
そこで出した結論は、自己嫌悪をするならば、鍛練で改善するものに対してのみに限る!というものだ。
できないものに対する努力はまことに無駄なことである。
できないものはできないもの。
これは道理なのだ。
ウジウジせずに割り切るしかない。(と自分に言い聞かせる。)
ただし、鍛練によってできる、できないことはそれぞれが判断する。
そして、鍛錬にどれだけの時間とお金をかけるのか、もそれぞれが決めることだ。
すぐにできないと言うと、根性がないだの、ずるいだのと言われるが、できないことくらいは自分に決めさせてくれ。笑。
言えるのは、改善できると判断しているものが多ければ多いほど自己嫌悪が増える構造になっているということだ。
自己嫌悪に終止符を打つ
ウーン、頭でわかっても未だに自分の性根をなんとかしたいという高潔な自分がでてきてしまう・・・。
なので、自己嫌悪に終止符を打つために、私の性根を愛でることをしてみよう。
私の性根は、生きるためにいただいたもののはずだ。
生き抜くために、利己的で、欲深くて、するがしこくて、狂暴で、気が小さい、といったものを持ち合わせている。
いざと言う時に、これらが発動して身を守ってくれるのだ。
そんな大切な資質を否定してしまうなんて、ご先祖様への冒涜ではないか・・・。笑。
「出しっぱなしにしたって、僕は何も損しないから・・・」と言って何が悪い!
いや、やっぱり良くない。
どうするか?
「出しっぱなしにしたって、僕は何も損しないから・・・」
が、心に浮かぶことを抑制しない。(これは本来抑制できないはずだ。)
ただ、それを口に出して言うことをしないように抑制するのだ。
心で思い浮かぶことについては性根がそうさせているんだから、それに自己嫌悪しない。
口に出してしまったという外への行為に対しては迷惑をかけるものを自己嫌悪する。
この口に出すという行為であれば改善可能な余地を残すからだ。
こうすることで長年連れ添ってきた私の中のコスパの悪い自己嫌悪とやっとオサラバすることができる!
これに味をしめて更に進めてみよう。
行為・スキルも「鍛錬しても改善はしない」と判断できたならば自己嫌悪は必要なくなるということならば・・・
私は、トレーニングによって洗剤をこぼさないようにはできない者だと判断しました。
なので、洗剤をうまく注げなくても、やっちまったとも、老化しちまったとも、全く思いません。
私は、トレーニングによって思ったことを口に出さないということができない者だと判断しました。
なので、口に出しても、しまった、言っちまった、とは全く思いません。
こうして、鍛錬しても改善しない、と判断するものをドンドン増やせば、自己嫌悪も減らすことができるのだ。笑。
そうそう、これが悟りの境地というものだ!
これで私もいよいよ悟りの境地に入ることができる。
もし私がこの悟りの境地に入ったならば、周りから一目置かれるだろうか?
確かに・・・一目置かれるだろう。
周りから、頑固ジジイの開き直りだ!と迷惑がられるという意味で、一目置かれることだろう。
ともかく、自己嫌悪はコスパが悪いし、体にも良くない。
これをキッカケにして、自己嫌悪して反省するものを可能なかぎり断捨離していこうと思う。
それには、何よりも改善できないと見切ることが大切になる。
自分はできるはずだとしている高潔な自分を捨てる必要がある。
この何とも名残惜しい欲を断ち切るのだ。
まあとは言え、断捨離に躍起にならなくても、結局は時間が解決してくれるんだろう。
私は加齢とともに、既に改善できないものは増え続け、最終的には何ひとつとして自分が悪いと感じなくなるんだろうから。
焦らなくても大丈夫だ。
UnsplashのRoad Trip with Rajが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
自己嫌悪するのも、自分の性根を愛でるのも、人の持つ防御本能ですね。
どちらも物事を自分の都合のいいように解釈していて不誠実に思えますが、それによって身をもたせているのだと。
この防衛本能があったとしても、高潔な自分とホントの自分が離れ過ぎるとシンドいんだと思います。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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