田中 新吾

「内心に潜む確信を語れば、それはきっとすべての人に通ずる。」という名言を知って考えたこと。

タナカ シンゴ

内心に潜む確信を語れば、それはきっとすべての人に通ずる。

by ラルフ・ワルド・エマーソン

私がこの名言を知ったのは以前、独立研究者山口周さんのVoicyを聴いていた時だった。

君にはなぜ仲間がいないのか?

以下にその内容を抜粋してまとめてみる。

ーー

コミュニティの中で何らかの孤独感を感じていたり、所属している組織で浮いていると感じていたり、心が通じ合える人がいないと悩んでいる方。

あなたはどれだけ自分が本気で本気で思っていることを口に出していますか?

周りに同調したり、忖度したり、あるいは周りによく見られようとしてそれを口に出せば、当然ながら自分の本音に共感してくれる人は見つからない。

だって口から出るのはあなたの本音でも何でもないのだから。

だから自分の本音に共感してくれる人達に見つけてもらうためには、周りからどんなに浮いていたとしても、その時は誰も同調していないことだったとしても、口に出していかないと見つからない。

インターネットというのは素晴らしくて、インターネットが無い時代は荒野で叫ぶようなものだったけれど、今は本当に遠くの遠くからでも見つけてくれる。

「あ、この人私と同じことを考えているな」と。

アメリカの思想家でラルフォード・エマルソンという人が遺した言葉に「内心に潜む確信を語れば、それは普遍に通じる」というようなものがある。

これは本当にまだ誰も言っていないものだとしても自分に確信があればそれは普遍性があるということ。

僕はこの言葉が好きだし、自分自身の実感としても本当にそうだと思う。

だからもしも自分自身に仲間がいないと感じる人はぜひ「内心に潜む確信を語る」をやってみて欲しい。

ーー

こんな話である。

「内心に潜む確信を語る」をやってみて欲しい、という提案に対して感じた説得力の正体

山口周さんと言えば『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』で知った方も多いかもしれない。

この本、出版不況と言われる現代でも20万部くらい売れたそう(きっと今でも売れている)。

でも実はこれには裏話があり、出版以前は「美意識について書いているんです」と言うと近くにいる周りの人は「なんでビジネスで美意識???」という反応だったというのだ。

要するに理解されなかったということ。

ところが、山口さんは自分に「確信」があったから出版した。

すると、その本を読んでくれた遠いところの人達から「共感する」「同じようなことを考えていた」などと多くのメッセージをもらったという話である。

そしてだからこそ「内心に潜む確信を語る」をやってみて欲しいと。

このエピソードを聴いて皆さんはどんなことを感じられただろうか?

かくいう私は「内心に潜む確信を語る」をやってみて欲しい、という提案に非常に強い説得力を感じた。

この説得力を支えるものとして、山口さんの「権威」がまったく影響していないと言い切ってしまうとそれは嘘になってしまう。

しかし、その「権威」以上に説得力を支えていると感じることが私にはあった。

山口さんご自身がまさに「自分の確信」を語っていた、ということである。

この感覚を持てたのは、恐らく私自身が「今の自分が本当に本当に思っていることだけをブログに書く・発信する」を強く意識して行ってきたから。

そして、これによって「すべて」ではないにせよ「人に通じる」を実感してきたところが大きい。

確信や信憑は、たしかめることが可能

実は以前、私に「確信(本当に本当に思っていること)を語ること」の重要性について、考えるきっかけを与えてくれた方がいる。

哲学者の苫野一徳(とまのいっとく)さんである。

哲学をテーマにした書籍やコラムというのは、どうしても難解なイメージが先行してしまいがちだが、この方のお話は本当にわかりやすく読みやすい。

私が苫野さんにハマったのは、2016年に「公教育をイチから考えよう」という本を知人の紹介から知った時だった。

そして「確信を語ること」の重要性を考えるきっかけとなったのが、翌年2017年に出版となった「はじめての哲学的思考」という本である。

曰く「哲学的思考の奥義の数々を、読者の皆さんに惜しみなくお伝えするもの」という趣旨のもの。

そのため、これまでの哲学史はかなり端折り、若い人を想定する読者が、あらゆる問題に対峙した際に、哲学的に思考を深めるためのメソッドが中心に説かれている。

そして、本書の中で苫野さんは以下のような考え方を示していた。

哲学における思考の出発点は私たちの確信や信憑。

確信や信憑は私たちの欲望によって抱かれるもので、抱いてしまう欲望は疑うことができない、否定することもできない”たしかめ可能”なものだから。

私には「この考え方」が本当に気持ちの良いくらいストンと腹落ちした。

以下でもう少し補足をしてみたい。

例えば、目の前にグラスがあった場合。

そのグラスはもしかしたら実在しないかもしれないし、幻影かもしれないし、夢かもしれない。

グラスの中の液体は、もしかしたら水じゃないかもしれないし、いっしょに入っている氷は本当は冷たくないかもしれない。

しかし、それでもなお、今私にはグラスが見えてしまっているし、喉を通ったこの液体を水だと思ってしまっているし、この水を冷たいと感じてしまっている。

この意識作用」についてはどうやっても疑うことはできない。

別の言い方をするとこれは「確信」や「信憑」、あるいはこればっかりは否定することもできない「たしかめ可能なもの」ということ。

そして、このたしかめ可能な確信や信憑から対話を続けていくことが哲学的には極めて重要である、というのが苫野さんの主張だった。

思うに、私たちはあらゆる命題が「真」とは言えない前提が織り込まれている世界を生きている。

そんな世界において「たしかめることが唯一可能なものは自分自身の確信や信憑である」ということに私は本当に深く納得した。

更にこれを受けて、たしかめられるものがほとんどない世界の中で、たしかめられるものだからこそ、自分自身の確信や信憑こそ人に通じる、という考えを明確に持つようになった。

そして、この思考形成は間違いなく「今の自分が本当に本当に思っていることだけをブログに書く・発信する」を強固なものにした。

確信や信憑は、感覚を落とさない思考の中から立ち現れてくる

では、その自分自身の「確信」や「信憑」というのは、どのように立ち現れてくるのだろうか?というところで、今考えていることを示して今回の話をおしまいにしたい。

私が思うにそれらは「感覚を落とさない思考の中から立ち現れてくる」。

感覚とは言い換えれば「身体的なもの」である。

一体どういうことか?

この考え方を持つようになったのは「バカの壁」の頃から解剖学者養老孟司さんのファンで先生が考えられていることに対して、これまで一生懸命になってくっついてきているのが影響として大きい。

そして最近出たばかりの「ものがわかるということ」には「感覚(身体)の重要性」が本当にわかりやすく示されていたのでここで紹介させていただきたい。

現代人は総じて、感覚的に捉えることが苦手な人が増えています。

都市社会、情報化社会では、社会が感覚を消していく方向に進んでいるからです。

(中略)

私は講演でよく、こう話しかけます。

「皆さん一人ひとりが見ている「養老孟司」には、一つとして同じものはありません」。

座っている場所も違えば、見ている人の背の高さも違うのだから、当然です。

ところがそのように「違う」ことを忘れてしまっている人が多い。感覚が鈍るとはそういうことです。

感覚は身体的なものです。

第一章で書いたように、リンゴが二つあればそれぞれ違うと感じるのが感覚です。

あるいは三人が一つのリンゴを見ても、三人それぞれ見え方が違うのが感覚です。

それを「一つのリンゴ」と認識するのは、概念の力です。

感覚が落ちると、言葉や概念の重要性にも気付けなくなります。

感覚が抜け落ちた人たちの思考はすべてが言葉からはじまってしまう。

初めに言葉ありき、になるのです。

私の「寒い」と他人の「寒い」は、感覚として同じはずがありません。

身体が違うのですから、感覚を共有することはできない。

人によって感覚がそれぞれです。

しかし「寒い」という概念を共有できなければ、話は進みません。

だから「寒い」という言葉が必要になるのです。

(太線は筆者)

これまでに何度も先生の口から聞いてきたような話だったが、新鮮な気持ちであらためて考えることができた箇所である。

感覚が落ちれば言葉や概念の重要性がわからなくなる。

思うに、そんな中で立ち現れたものが自分自身の確信や信憑、本当に本当に思っていることであるとは思えないし、思いたくない。

知の探検家梅棹忠夫さんも著作「山をたのしむ」の中で「学問における身体の重要性」を以下のように説いている。

学問というのは体力をともなうものです。全人格的、全人間的なものです。」

体、肉体の運動を伴うわけです。それを伴わない学問、そんなひ弱なものはだめなんです。

以上、冒頭のラルフ・ワルド・エマーソンの言葉を端に考えたことを最後にまとめておきたいと思う。

・内心に潜む確信を語るからこそ人に通じるのは、確信や信憑は疑うことのできないたしかめ可能なものだから。

・確信や信憑は、感覚(身体)を落とさない思考の中から立ち現れるもの。

今回書きたかったことはこんなところである。

UnsplashNorbert Kundrakが撮影した写真

【著者プロフィールと一言】

著者:田中 新吾

プロジェクトデザイナー|プロジェクト推進支援のハグルマニ代表(https://hagurumani.jp)|タスクシュート(タスクと時間を同時に管理するメソッド)の認定トレーナー|WebメディアRANGERの管理人(https://ranger.blog)|「お客様のプロジェクトを推進する歯車になる。」が人生のミッション|座右の銘は積極的歯車。

AIには身体がないと考えるといくらAIが弾き出した正解に見えるものも、きっとそれだけでは自分自身の確信や信憑にはならないのだと思ったりします。

●X(旧Twitter)田中新吾

●note 田中新吾

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