RYO SASAKI

私は思考することで思考を終わらせる。

タナカ シンゴ

最近聞いた記憶に残っている言葉がある。

「直感(ハート)が大切」

「現代人は頭でっかちだ」

「あなたは理屈っぽい」

「あなたは考え過ぎだよ」

これらの言葉が、以前から自分にあった疑問をまた、思い出させた。

知識が大切なのか?

思考が大切なのか?

直感が大切なのか?

この疑問について私の現時点での結論は、どれも大切だ、というものだ。

知識だけ、思考だけ、あるいは、直感だけでうまく生きていける人はいないだろう。

まあ、大体の人がこんなことを考えもしないし、考えたとしても同様の結論で終了なのだろう。

この記事の結論もこれ以上のものではない。

それでもあーだ、こーだと言って更にほじくろうとするのだから、私は「考え過ぎ」と言われてもしかたない。汗。

理屈が過ぎるから、「直感が大切」と言われるのもわかる。

「頭でっかち」「考え過ぎ」は共に何かの基準があって、それよりバランスが偏っている、という意味合いであり、人が正規分布に乗せられていて平均的でいなければならない、という強制をやんわりと感じる言葉でもある。

わかりやすい健康面から見ても人は、血圧、体重、体脂肪率など、いろいろなものの正規分布に乗っけられて、はみ出してはいかん、と言われ、中心により戻さすために薬を投与されている。

中心に戻そうとせずにいい意味の個性として、評価いただけているならば、もっと違う言葉があるだろう、と思う。

まあ、前置きはこのくらいにして、ここから懐疑的にあーだ、こーだと始めてみたいと思う。

知識について

まずは知識について。

知識という言葉は、後天的に外からインプットされたものという印象が強い。

世の中のルールであったり、学校のテストの穴埋めであったり、何かこうだと決まっているものという感覚もある。

ここでは、健康に関する知識を題材にして、経験から書いてみたい。

健康によいとされてきたことは、規則正しい生活、睡眠時間、栄養バランスのいい1日3食などがある。

これは、親や学校の保健の授業からインプットされた内容だろう。

はたして本当なのだろうか?

根拠どこにあるのだろうか?

これらの外からの知識を鵜呑みにするだけでよいのだろうか?

長い歴史の中で、電気がない世界が長い。

ならば人間も、日が昇るとともに起きて、日が落ちるとともに、休む。

人間が長らくその環境に置かれてきているから、それが身体に合っていると思う、根拠になっているのかもしれない。

しかし、そんな知識ではなく、そのリズムで身体が調子がいいと感じるから、という根拠も合わせもっている場合もあると思う。

これは知識ではなく、感覚からである。

睡眠時間平均7時間/日という知識は、自分にどこまで当てはまるのだろうか?

1日3食と言っても、最近はカロリーの多いものが多く、取り過ぎる方が問題なのではないか?

江戸時代は1日3食ではなかったらしい。

でも江戸時代は今より寿命が短かっただろう。

栄養バランスと言ってもどこまで厳密にする必要があるのか?

イヌイットなどはアザラシだけで生きていけるように進化してきているではないか?

栄養をとったとしてもちゃんと吸収するのか?

今の野菜は栄養が昔より下がっているから不足するのではないか?

1日に水2Lって、腎臓の負担大きくない?

納豆がいいっていうけど、大豆に農薬使ってるでしょ!?

モリンガってどんだけいいの?

「〇〇人(〇〇%)の健康状態がこう改善した」と言った統計データがあるが、その統計の信憑性にも疑問がある。

過去の統計にごまかしや不十分さがあったことが後から情報と出てきたりする。

統計のサンプル数はどのくらいが適切なのか?

調査期間はどのくらい必要なのか?

人間には個体差もある。

商品はいいところだけ宣伝して、短期間で売れさえすればそれでいい。

その後の因果関係はわかるはずがない。

だから信用ならない。

疑い出すと切がない。

私は何をもっていろいろな知識を信じているのだろうか?

私はいろんな統計をつかまされて、ブームに踊らされてきた。

だから信用ならない。笑。

健康法について、よいとされている情報は、

  • 規則正しい生活
  • 栄養バランス(食べ過ぎ注意、いい油・・・)
  • 運動
  • ストレスを減らす
  • 身体を冷やさない(冷たいものを摂らない)
  • 考え方を変える(気にし過ぎない、恨まない、ポジティブに)
  • トラウマをなくす
  • お風呂
  • 断食
  • 漢方
  • マッサージ
  • 排毒
  • 毒(薬品、添加物、他)を身体に入れない

・・・

これ以外にも上げればキリがない。

これらの知識について、どれかが間違いだった、と後から言われれば、容易くそのことをまた信じてしまう自分がいるだろう。

何をもって確信たるのだろうか?

また、これらの健康知識は、数限りないから、全部を実行することができない。

「この中のどれを自分が優先させればいいのか?」

これが今必要な知識だ。

そしてその答えは、誰にもわからない。

それぞれの専門家が自分の専門を推してくるだけだ。

知識を重ねることは知識にならず。

私は私に必要な知識をどれだけつかんでいるのだろうか?

ほんのわずかしか知らないのではないだろうか?

これが知識の実態なのだと思う。

直感について

そこで登場するのが直感。

何を食べると健康にいいのか?

ならば、欲しいと思うものを、美味しいと思うものを、欲しいだけ、食べればいいのではないか?

本来身体がもっている生きるためのまっとうな感覚なのではないか?

確かにこの感覚は大切なものだと思う。

この直感に全幅の信頼を置くことができるだろうか?

今は飽食の時代。

美味しいものはいろいろある。

この時代に身体はまだ対応できていない、と思われる。

飢餓のためにエネルギーを蓄えておくことを優先したい身体にできている。

だから、早食いにより満腹中枢が機能せず、あるいは、糖質の取り過ぎにより中毒症状になって、食が止まらないことになったりする。

舌が化学合成物に飼いならされている状態にあったりする。

直感が快感を求めるから、後先を考えずに例えばアルコールもついつい飲み過ぎてしまう。

食べたい、という直感だけに頼るのも心もとない。

即生き死に関わる時代は直感が優れていたのではないか?

断食をした後に味覚が鋭くなるように研ぎ澄まされる。

ところが緊張感のない現代に、衰えてしまった直感に頼る選択はどうなのだろうか?

また、別の観点から直感を見てみる。

子供の頃に補助輪をはずして自転車の乗れた時の話。

最初は乗り方について多少の知識を学び、一生懸命集中して思考しながら上手く乗ろうとして、最後には何も考えずに乗れるようになる。

これは知識や思考から直感にまで昇華した状態なのではないか?

つまり、直感というものが先天的に最初にあって、後から外から後天的に知識や思考が訪れてきたもの、という順番とは別の、後天的な直感が養われている。

人と話す時も、失礼のないような言葉選びを直感的に行っている。

これは、若い頃にはうまくできなかった経験に培われた直感であったりする。

この知識から出来上がった直感だが、信じる知識が間違っていると直感も間違うことになる。

一方で、人には、痛いもの、苦しいもの、怖いものを避ける、という直感が先天的に備わっている。

たぶん、人を愛する感覚、困ってる人を助けてあげたいと思う感覚なども先天的に備わっているだろう。

そしてこれらの先天的直感は、両方を持ち合わせているから、自分が危険から避けたい直感と人を危険から助けたいという直感に、悩むようになる。

後天的に、自分の成功あるいは合理性だけを追求する時間が長くて、後天的な合理的直感が培われた人は、先天的な人を助けたいという直感が鈍くなるようにも思う。

もちろん、直感に昇華しない後天的な知識・思考と先天的な直感がシェア争いをすることもある。

逆に後天的な知識・思考と先天的な直感が一致にしてその思いが強化される場合もある。

知識・思考 VS 直感 という見方では、明確にできないから、むしろ、先天的感覚と後天的感覚に分けた方がわかりやすいのかもしれない。

思考について

最後に思考について。

思考とはここまで書いてきたように、あーでもない、こーでもない、だどと考えること。

生きるために必要だとは思うが、必ずしも必要な思考ばかりがあるわけでもない。

間違った知識を信じた上での思考も間違った直感を信じた上での思考もまた間違うことになる。

何かを疑うことなく信じれば、思考することも悩むこともない。

思考しない生き方はシンプルで老けない生き方なのかもしれない。

ここから、理屈っぽく、考え過ぎな私が思考する意味について思考してみたい。

ちなみに私なんかより、思考を深くしている人は世の中にたくさんいるのだが。

私の思考は、理系だからなのか、論理性、整合性を大切にしたい、という特徴はあると思う。

これには、いい面と悪い面がある。

(このことについてはここではこれ以上深堀りしないでおく。)

子供の頃、好きだったということで、そのような頭の使い方に慣れた、という言い方がよいのか、他の頭の使い方をしなかった、と言えるのかもしれない。

なぜ、今になっても思考するのだろうか?

根本的には「ただ愉しいから」と言えるのだろう。

それは、謎解きをするような感覚だ。

ただ、子供の頃の癖が残っているだけかもしれない。

人生の意味合いは何にも優先して、「愉しさ」を味わうことではないか?と感じる。

その「愉しさ」とは人によってそれぞれ異なる。

その人の「愉しさ」だ。

「嬉しさ」は生きていく中で変化するものなのだろう。

そして当然ながら、努力、苦しさの末でないと味わえない「愉しさ」もある。

もう一つ、思考する理由があることがわかってきた。

それは、ただ快楽を貪るような「愉しさ」の享受(これはこれが必要だと思うが)ではなく、人生にメリットがある合理的な理由だ。

若い頃は、正解があると思っていた。

正解にたどり着いて生活を正解で埋め尽くせば、幸せな生活を送ることができる、と思っていた。

この考え方が、最も合理的な考え方だと思っていた。

ところが、経験を重ね、知識をインプットして、思考すると、どれもが正解ではなくひとつの考え方であることのではないかと感じてきた。

幸せな生活とは何か?

合理的とは何のことを言っているか?

それらの言葉すら、曖昧で全くわからなくなった。

物理的に、何かを選択する時に、それによって犠牲になって選択できない何かが同時に発生するように感じた。

知識を得れば得るほど、知識の物足りなさを感じる。

知識を得れば得るほど、別の知識との矛盾を感じる。

正解を求めるための思考の結果が正解がない、という結論を導き出した。

思考の結果が、意味のない思考がたくさんある、ということがわかってきた。

何とも皮肉な結論だ。

それでは、思考したことに意味がなかったのだろうか?

これはあくまでも想定していなかったことで後付けのことなのだが、意味は大いにあった、と感じる。

正解がないから、正解を求めなくなった。

正解がないから、正解(何か一つ)に依存しなくなった。

正解がないから、悩んでも意味がないとわかった。

正解がないから、争っても意味がないとわかった。

これらの領域が広がった。

正解はないから、それにはまる必要がなく、人は自由な存在なのだ。

正解がないから、信じるのは自分の欲望だけ。

これらによって生活が非常にシンプルなものに変わってきている。

まだまだこの領域は少なく道半ばのようには思うが・・・。

そう、最初から考えない生き方がもっとシンプルなのかもしれない。

でも自分は自分で納得したかった。

そして、自分で思考したことで、自分がより明快になるのではないかと感じてる。

知識・思考・直感と向き合う

ここまで、知識と思考と直感について懐疑的に見てきたが、これらを独立したものとして捉えることは難しく、また、知識と思考と直感のどれにも一長一短がある。

それでも人は、知識と思考と直感を使って生きていく。

人はまた、自分の知識と自分の思考と自分の直感こそが正解である、ありたいという強い思いを持っている。

知識と思考と直感に一短があるからと言って、「どれにも偏重せずにバランスよく」などと知識にもならないようなことを書くつもりはない。

知識と思考を直感をそれぞれ研ぎ澄ますことに意味がない、などと書くつもりもない。

この世界は思っているほど完成されているものではない。

というより、豊かで複雑で完成されるようなものではない。

この世界は不完全で何についても疑わしく、選択すれば間違いだらけにもなることもある。

人間、自分も他人も同様にその世界の中のひとり。

不完全さが面白い。

このことが感じられると、確信をもって前向きに人生をさまようことができるようになる。

「何でこんなことをしてしまったのだろうか?

いやいや、そんなことをするよ。別に珍しいことではない。

そういうものだから。」

不完全だから間違う、と言ってもいいし、正解がないから不正解、間違いもない、と言ってもいい。

ある事象に対する良い、悪い、正解、不正解という感覚が起きることは避けられないかもしれないが、これらは作り上げられた単なる解釈にしかすぎない。

勝手に間違いだと決めただけのことだ。

外に正解がないから、自分でやりたいことを自分で選択できる。

知識も思考も直感も信じられないから、自分でやりたいことを自分で選択できる。

知識も思考も直感も信じられないけど、自分でやりたいことを自分で選択できる。

やりたいことをやる、というのは幸せなことだ。

思考する必要のないことがどんどん増えると、楽に生きられる。

思考する必要があることだけにフォーカスして、生きられる。

私は最初からこの思考しない境地になれないから、引き続き、思考して思考の必要のないことを発見する。

そして、その思考を終わらせて除外する。

あるいは思考して、思考を直感に昇華させて終わらせる。

そのために、理屈っぽく、考え過ぎに、思考する。

私は、こうやって周りから押し付けられる正解から自由になる。

この認識は後付けだ。

世の中にあるいろんなものへの期待はそこそこにして、何よりも「自分の中から湧き上がる、自分の本当に愉しいこと」をして生きる。

それが自分を生きること。

自分の知識も思考も直感もその程度だとし、これらについての思考をここで終わらせる。

Photo by Deleece Cook on Unsplash

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

自分の知識、思考、直感は正しい、と信じて生きたい。

だから、自分の人生に可能性を感じて生きていられる面もあります。

でも、自分の知識、思考、直感が間違っていても人生は愉しめるのだと思います。

これもまた矛盾を含んだような内容ですみません。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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