2年ぶりにカラオケに行って、いろんな変化に気づいた。
最初に気づいたこと
およそ2年ぶりにカラオケ屋さんに入った。
この久々なタイミングに自分は何を感じるのだろうか?
何かの変化をシャープに感じるチャンスになるはずだ。
好奇心をもって入店して、神経を研ぎ澄ませてみた。
まずは、何の曲を歌ったらいいのか?
自分は以前はどんな曲をどういう理由で選んでいたのだろうか?
頭が働かずに座ったまま固まってしまった。
歌える歌(得意な歌)を、気持ちよくなる歌を、一緒に行った人がわかる歌を、その時の雰囲気に合っている歌を、などかな、とやっと思い出すのだが、最後の決め手が何だったのか、すっかり忘れていた。
そして、大声を出していなかったので、声の張り方がわからない。
以前はどこから声を出していただろうか?
壊れるのではないか?と不安になりながら襲る襲る声量を上げていった。
これが2年のブランクであり、始めに私が感じた私の小さな変化だった。
最近、味覚の変化を確認するために急遽あるお店に入ってもみた。
ずーっとビールを家のみばかりしていたので、出来立てのビールをサーバーから注いだ場合の味はどう感じるだろうか?と思ったのだ。
炭酸がシャープに感じられ、泡も美味しく明らかに異なる味だ。
美味しい。
この差異感覚こそがまた、ブランクの賜物だと思う。
時代は流れ、自分も変化する。
自分はどんな歌が好きなのだろうか?
カラオケでの選曲がわからなくなったことで、今まで考えたこともないことに思いを巡らせることになった。
自分は一体どんな歌が好きなんだろうか?
それはなぜなのだろうか?
好きな歌はいろいろあるし、好きな理由は言葉で表現できるようなものではない。
そうしているとある傾向が言葉として浮かんできだ。
それは「歌詞への共感」。
自分は子供の頃から歌詞の内容に何も感じないというわけではなかったが、圧倒的に曲にばかり目を向けてきたように思う。
特に、洋楽なんかは英語だから歌詞の意味もわからず、そのビートに気持ち良さを感じていたことを思い出した。
一般的に歌詞を重視してそれをしっかり感じている人はどれだけの割合いるものだろうか?
女性は男性に比べて歌詞で聴く、という話を聞いたりもする。
若い人は、自分がそうだったように歌詞を聴かない傾向にあるのだろうか?
「歌詞への共感」によって、何かの振動が身体にじわじわと染み入るようになった。
カラオケの愉しさに、その何かが加わった。
では、自分はどんな歌詞に共感しているのだろうか?
昔を懐かしく思うような歌詞、場を盛り上げる歌詞、といったものは除外して、今の自分だけが共感するものを取り上げてみたい。
昔に浸って歌うことも愉しみ方ではあるが、そればかりでは変化がない。
いや、きっとあるはずの自分の変化がわからないままだ。
過去に引きずられない今を抽出してみたい。
数年前によく歌っていたのは、平井堅『ノンフィクション』2017年 だった。
「成功がすべてですか? 何のために生きてますか? ただあなたに会いたいだけ」
などの言葉がすごく響いて、初めて聴いた時に叫びたくなる歌だった。
同じ平井堅でも、
『ポップスター』2008年
「I wanna be a popstar 君を夢中にさせてあげるからね」
『瞳をとじて』2004年
「瞳をとじて 君を描くよ それだけでいい」
なんて歌詞は自分から遠くて、言葉にしようものならば、自分が浮いてしまう。
自分ではないものに成り切るという別の愉しみもあるのだろうけど。
『ノンフィクション』の歌詞への共感は、世の中でいう成功ではなく、自分における成功というものを考えるようになって、勝手にあなたの成功を押し付けてくるなよ、という抵抗が、自分の中に起こったからなのだろうと思う。
カラオケスナックなんかで選曲したら、
「そのような重いものを忘れるためにカラオケにやってきたのに、なんてものを入れてくれてるんだ!」
と心の底で思われているかもしれない。笑
直近で、初めて聴いて共感したのはこちらの歌。
「人生はフリースタイル 孤独でも忍耐 コンプレックスさえもいわばモチベーション 人生はいつもQ&Aだ 永遠に続く禅問答」
「駆け引きの世界で 僕が得たものを ダスタシュートに投げ込むよ」
ちょうどその前日に「自分の変態性を探している」という話をしていた矢先のことだった。
自分の変態性を殺そうとしてきた時間が長いわけなのだが、今や逆に変態性を個性として活かそうとしている。
時代が流れ、自分も変化する。
この歌詞は、自分にとっては「変態のまま生きろ!」というメッセージに聞こえてくる。
THE BLUE HEARTS『チェインギャング』1987年
「ひとりぼっちがこわいからハンパに成長してきた」
これは最近書いた記事
「自分らしく生きる」ことは簡単ではないことに、あらためて気付かされた。
「自分らしく生きることは孤独との戦いである」という内容と見事にリンクしている。
どれも最近の自分の考えていることにマッチしている。
勝手に自分がリンクさせにいっている。
ハンパな自分を認識して、せめて人生の最後はそうでなく生きようという思いがそうさせる。
これらの歌は20年~30年前のものだ。
その当時であれば自分は曲でしか聴いてなかったし、仮に歌詞に焦点を当てたとしても、この歌詞の意味を自分なりに解釈することができなかっただろう。
このような純粋なものを感じることは、現実からの逃避である、とどこか心の底で決めていたようにも思う。
だから純粋への共感は禁忌だった。
アーティストたちは若くしてこれらの言葉に行き当たって、自ら発信しているから驚くばかりだ。
私は、今やっと純粋への共感にたどり着いた。
共感のためには何らかの解釈が必要で、解釈をもつためには経験が必要だ。
わずかな言葉が、作者とは全く異なる第三者の別の体験とむずびつくこともあるのだ。
ちなみに自分が、中学生の頃に聴いていた洋楽に、
QUEEN『 Bicycle Race』1978年がある。
爽快感が突出している名曲で、歌詞の意味を当時辞書で調べたことがあった。
「じーてんしゃ、じーてんしゃ、じーてんしゃ、おれはじてんしゃに乗りたいんだ」
何てバカな歌詞なんだろう!
歌詞の意味を知るなんてやめよう。
そんな風に思ったことがあった。
ところが、今となっては、この歌詞の意味するところは、
ジョーズも、スターウォーズも、ピーターパンも、スーパーマンも好きではない、俺は自転車が好きだよ、世のはやりや常識になんて引っ張られなんてしない、俺は俺なんだよ!
そこに、自分を生きよう!オリジナリティを大切にしよう!というメッセージにある。
当時言葉で意味を理解できたかもしれないが、その背景にあるものが分からなかったから、言葉の重みが感じられなかった。
「オリジナルよりもチャンと生活できるようになりたい、俺は」という感想でしかなかった、たぶん。
当時は邦楽の歌詞はおしゃれで、洋楽の歌詞はバカっぽいという印象だった。
洋楽は曲としてはすこぶるカッコよかったのだが。
今は、その邦楽の歌詞のお行儀良さを、無難なだけであって、どこか制限された状態なのだとも感じ、洋楽の歌詞に対しては、自由であったり、自分を表現した時の孤独をものともしない強さであったり、を感じるようになった。
こう感じられるように変化するまで、ずいぶん時間がかかったものだ。
ビリージョエル『マイ・ライフ』1978年 も、同時期に聴いた。
「自分の人生なんだから、ほっといてくれ」
という歌詞で、今はこの言葉で自分のいろいろな記憶が蘇り、強い共感がある。
この歌詞の解釈はさすがに中学生とは異なって当然なのだろうけど。
時代は流れ、自分も変化する。
もっと歌詞に注目すれば共感するものが見つかるのだろう。
カラオケで何を歌うべきか?
カラオケの健康効果はいろいろ言われている。
・深い呼吸による血流アップ
・噛み砕く力のアップ
・唾液量のアップ
・ストレス発散(ストレスホルモン コルチゾールの減少)
などなど。
参照:健康に役立つカラオケ
参照:カラオケの健康効果がスゴイって本当!? その効果と注意点とは
確かに、2年間のブランク後、歌い終わった感じは、他の何物ともまた違うスッキリしたものだった。
そして、自分の奥に、声を張り上げることに変換しているエネルギーのタネがあることも感じる。
その源泉は喜びなのか、怒りなのか・・・。
健康効果を高めるには「できるだけ感情を出して歌うといい」とも書かれている。
ならば、感情を出すためには、自分の好きな曲、そして歌詞に共感する歌がいいに決まっている。
気持ち良さを感じられるという意味で、そして、健康になるという意味で、歌詞に共感する歌を歌うのがよいということだ、と納得する。
他のアーティストの歌をカバーするアーティストにも2種類あると言った人がいた。
それは、そのアーティストに歌う意味がどこまであるのか?というポイント。
歌がうまいというだけで、そのカバー曲をただ広めたいというだけでカバーするアーティストがいる、と何とも批判に満ちた言い方だった。
それに対して、その歌を自分のこととして心酔できて、一体化できるアーテイストがいる、という。
一体化できるとそのアーティストがカバーして歌う意味が大きいというのだ。
ここには、アーティスト自身の体験によって歌詞への共感がある、ということが含まれるのだ、と感じた。
「自分を表現して生きるのが人である」、という記事を少し前に書いた。
アーティストのオリジナルもアーティストのカバーも、アーティストの表現であるのと同様に、素人のカラオケもひとつの自分の表現の形なのだと思う。
その時に、どのような自分表現ができるのか?
あるカバーアーティストのように周りに合わせた曲を歌う、周りにカッコイイと思われる歌を歌うのではなく、自分が共感するメッセージが含まれているのが自分表現により近いなのだと思う。
ここまでの「歌詞への共感」を認識したという話は、一般的には今更であって遅きに失するものかもしれない。
でも、世の中の変化に押し出されるようにして、自分の変化にやっと気がついて、それを自分が外に出せるようになった。
自分が変化すれば、既存の歌詞の宝庫の中に自分が共感するものがまた見つかって、それによって逆に自分の変化を発見することができるだろうと思う。
RADWIMPSの野田洋次郎
そんなことを考えていた最中に飛び込んできたのが、野田洋次郎だった。
以下は、彼のインタビューでの回答である。
(日本の音楽シーンの今後について)
今のメジャーなフィールドでは、ボカロ的な系譜を引き継いだ、純然たるポップロックが主流な気がしている。
ヒップホップみたいなアンダーグラウンドな世界と相変わらず解離がある。
そこを行ったり来たりするカルチャーが面白くなってくるのではないか。
すごく健全な音楽、健全な香りがオーバーグラウンドでは満ちている。
なのでそのカウンターとなるド不良、その匂いを、まとったパンクだったりとか、グランジだったり、ロックだったりというものとヒップホップのビートが混ざったようなものが間違いなく潮流として来ると思う。
常に何かが主流になればそのカウンターが生まれてくるので。
ただ世界を見るとよりガラパゴス化していってそれがまた面白いところだと思う。
これは音楽のことについての話だが、世の中全般の流れのことにも見事に当てはまると感じた。
アンダーグラウンドとは、地下活動、多くの人に知られていないこと、反社会的な、などの意味を含んでいる。
彼のこんな面白い曲が紹介されていた。
「そうさ僕ら僕ら人類が 神様に 気づいたらなってたのさ 何様なのさ」
人間中心主義への批判、宗教への批判をしているこの曲が、まさに彼の言うアンダーグランドの曲のひとつに当たるのではないだろうか?
野田洋次郎の24歳頃の強烈な歌詞だ。
ちなみに私の24歳の頃はバブル真っ只中だった。
時代は流れ、変化する。
アンダーグランドに含まれるパンクについて、このサイトRANGERのタナカシンゴさんの記事の後半に、パンクについて書いたものを見つけた。
普通、「パンク」というと、既成の秩序の破壊、権威の否定、体制への反抗という面が強調されるが、ワットのものはそれだけではない。
虚飾がなくストレート、実質むき出し、これらも「パンクの精神と哲学」の重要な側面となっているのだ。
それでまた思い出したのが、「ギャル」というものについて。
こちらも、歯に衣着せぬ、嘘のない物言い、信頼、人情などがその特徴だとタレントのみちょぱが言っていた。
パンクの精神に共通するところがある。
音楽に限らず、いつの時代も社会に対する反発が生まれ、それがエネルギーとして変化が起こっていくものだ。
例えば、かけっこの一等賞を決めないような、偉いと言われる人だけが優遇されるような、忖度が手伝って虚飾だらけの世の中になると、そのカウンターの力が強くなるのが当然の成り行きだ。
神田白山が「FM局ってのは、世の中がすべて幸せに満ちている、という体の放送だ」と皮肉っていたことを思い出した。
残念ながら世の中は幸せだけでできてはいないのだが、みんな片目をつぶってオーバーグラウンドだけを見て生きている。
刺すような現実を見られないから、片目に包帯をしたまま、調和しているかのようにして生きることが年をとるということなのか。
一方でアンダーグラウンドのメッセージを届けようとする者がいる。
カラオケを歌っている時に感じる自分の奥にある感情というか、エネルギー。
これこそが生きる力。
このエネルギーの源泉に、社会への怒りがある。
歌詞にある社会へのメッセージは、いつだってオーバーグラウンドの既成概念へのアンチテーゼを含んでいる。
共感する歌詞を歌うことは、それらを含んだエネルギーの発散のひとつになる。
最後に
カラオケスナックというところは様々な人が集まっては、様々な思いから選曲をしている。
例えば、デュエット曲『銀座の恋の物語』1961年はちょうど60年前のものだが未だに有名だ。
歌詞は恋愛のことを書いていて、それ以降の時代の人は、その歌詞に純粋さと恥ずかしさと違和感を感じるだろう。
銀座デートが象徴的な憧れではなくなったのはずいぶん前のことになる。
この歌詞の対象は私とあなただけのことだ。
2000年代に入り、時代が流れると、私とあなたを対象にした恋愛歌だけでなく、もっと広い社会全体を対象にしたメッセージの歌詞も増えてきている、とも言われる。
ネットがここまで普及した時代は、嫌でも情報が入るから私とあなたの問題だけに目を向けて安心できる時代ではない。
違った見方で言うと、オーバーグラウンドだけの情報だけで人が完結できるわけがない。
アンダーグラウンドのメッセージが盛んに歌に込められていって当然なのだろう。
『銀座の恋の物語』を聴くと、そこの空間だけにポッカリと浮かび上がる、仮想の幸せを感じる。
時代は流れ、変化する。
全く異なる歌のメッセージが、いろいろと混在し合っているカラオケスナック。
こうしてながめると、カラオケスナックは非常に危うくもあり、面白い空間だ。
若者から発生するアンダーグラウンドのメッセージをこれからの年配はどう捉えるのだろうか?
騒がしい歌だ、あるいは、キテレツな歌だと一蹴して無視するのだろうか?
演歌は、アンダーグラウンドのエネルギーを受け持てるのだろうか?
50年後、カラオケスナックはどんな役割を担っていくのだろうか?
今回は、大きな社会の変化に巻き込まれたことで自分を観察する機会をもらったようだ。
それによって、気づいた自分の変化から派生して、いろいろな思いをあちこちにつなげてしまった。
自分が変化することで見えるものが変わってくる。
自分が自分を抑えつけず、素直を出せれば、この先も自分の変化を発見していけるだろう。
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【著者プロフィール】
RYO SASAKI
こんなことを考えながらカラオケで歌っている人間は他にはいないのでしょう。
まさに、これが私の変態性のひとつなのだと思います。汗。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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