田中 新吾

「不便でよかったこと」はないだろうか?

タナカ シンゴ

最近になって「不便益」という言葉の存在を知ったのだが、これが物凄く腹落ちしたというか、感銘を受けてしまったので紹介をしたい。

「不便益」とは、京都大学デザイン学ユニットの「川上浩司教授」が提唱している概念で、辞書には書かれていない。

英語では「benefit of inconvenience」と表される。

思うに「不便益」とは、

不便でよかったことはないか?

という「問い」と解釈することもできる。

川上教授が示している「不便益」の例が面白く、心当たるひともきっと多いはずだ。

「富士山の頂上に登るのは大変だろうと、富士山の頂上までエレベーターを作ったら、どうでしょう。よけいなお世話というより、山登りの本来の意味がなくなります。」

「ヒットを打てるように練習するのは大変だろうと、だれでも必ずヒットの打てるバットを作ったら、どうでしょう。これも同じですね。」

「私が子供の頃、遠足のおやつは300円以内でした。もし、自由に好きなだけおやつを持ってきても良かったとしたら、どうでしょう?遠足前日に半日をつぶしてスーパーをうろつき、自分ならではの組み合わせを考え抜いたのは、今思えば楽しい思いでです。」

不便でよかったことはないか?

これに対して私の場合は、

「不便でよかったことはある

であり、

「不便が生じるところには必ず、その状態ならではの思考が浮上する

「不便によっても、人生の質は上がる

といった感じの思考を行った。

追って詳しく書いていこう。

高校生の頃の「不便益」

生きていれば大小さまざまな「不便(目的を果たすのに不都合なこと)」を感じるわけだが、思えば色々と「不便益」を享受してきている。

例えば。

高校生の頃、サッカー部だった私は、練習中ぬかるみに足を取られ、転倒しそうになったことがあったのだが、

転倒しそうになる自分の体を支えようと、右腕を思いっきり地面に着いた時、そこに全体重がかかり「右腕の靭帯」を断裂してしまった。

断裂後は当然、治癒するまで「ギプス」をはめることになってしまい、それはもうとにかく「不便」だった。

利き腕が使えないので「左腕で」ということになるのだが、

・食事が思うようにできない。

・字が思うようにかけない。

・自転車に乗れない。

となるのは想像するに容易いだろう。

しかし、それでも生活をする必要があった私は「左腕を利き腕のように操作できるようにする」他なかった。

日々の試行錯誤の末、結果的に左腕をうまく使って食事を摂れるようになり、

字もそこそこうまく書けるようになって、期末テストなども無事にこなすことができるようになっていった。

その当時「ボウリング」にハマっていた私は、ギプスになっても投球することを止めなかった。

はじめの内はガターばかりで、ゲームにならないくらい散々な目にあったのだが、途中からは案外そうでもなく。

やがて、左腕をうまく使ってボールをコントロールできるようになり、ギプスをしながらでも「160や170くらい」のスコアを出せるようになっていた。

私はこの時から「意外と両利きってなれるものなのかもしれない」ということや、「自分ではできないと思っていることも実は意外とできるようになるのかもしれない」と考えるように変わった。

この経験というのは、私にとって「不便益」であり、左腕しか使えない状況にならない限りは得ることのできなかった思考と言っていいだろう。

受験勉強時代の「不便益」

例えは「受験勉強時代」の話に変わる。

浪人生の頃、予備校の授業料を少しでも自分で作ろうと思い、ファミリーマートで夜勤のアルバイトをしていた。

そんなある時、勉強とアルバイトの負荷が身に降りかかりアルバイトの帰り道で、乗っていたバイクで事故を起こしてしまった。

事故といっても自爆で「自分がバイクごと路肩の電柱に激突した」という話。

激突した瞬間の記憶が無いのは、私は「運転しながら寝てしまった」いたからである。

今考えても自爆で本当に良かった。

私が記憶を取り戻したのは病院の集中治療室のベッドの上だった。

あとで聞くと、乗っていたホンダの「ZOOMER(ズーマー)」は、フロント部分が完全大破で、廃車になったということだった。

私は、ベッドの上で目を覚ますと、視界が二重に見えたり、口がうまく塞がらなかったりと、自分の目や顔に「特別な異常」があることに気付いた。

なんと、電柱に頭を激しくぶつけたために、右側の「顔面神経」と、右目を動かすための「外転神経」が強く麻痺してしまっていたのだ。

・視界が常に二重になって見える

・食べ物を食べようと思っても口から零れ落ちる

・ヨダレが意思と関係なく零れ落ちる

・笑いたくても右側の口角がうまく上がらない

こんな具合に、突如「不便」な状態に陥り、精神的にも不安な入院生活を余儀なくされたのだった。

しかし、この状態だからこその思考というのも確かにあった。

・体や脳に障害を持つ方の気持ちがこの時はじめて少しだけ分かった。

・自分ひとりの力など本当にちっぽけであり、人の助けを借りないとまともな人生を送ることなど絶対にできない。

・死んでも失いたくないのは他者に対しての敬意。

・死ぬこと以外は大した痛みではない。

入院生活中、このようなことを毎日のように考えるようになっていた。

靭帯断裂同様、これも私にとって遥かに大きな「不便益」であり、顔面の神経が麻痺にならない限りは絶対に得ることができなかった思考だろう。

ちなみに、当時リハビリを死ぬ気で頑張ったかいもあって、今では後遺症はほぼ残っていない。

「不便」によっても人生の質は上がる

このような感じに「不便益を得る」という経験を人生の中から抽出してみると結構ある。

ゆえに、私の主張は「不便でよかったことはある」なのだ。

そして思うに、「不便益」の核心は「不便が生じるところには必ず、その状態ならではの思考が浮上する」という点になるのだろう。

ライターの武田砂鉄さんも自著の中で「不便益」について取り上げており、その中で「不便が生じるところには必ず、その状態ならではの思考が浮上する」という表現をされており、まさに「我が意を得たり」だった。

私たちは「人生の質(クオリティオブライフ)」を上げてくれるのは「便利」であると信じ、今ではスマートフォンやキャッシュレスに象徴されるような「便利」をひたすらに追求してきた。

その結果、無駄が減って、可処分時間を獲得し、やれることが増え、人生の質は上がった、ということに特別何か異論があるわけではない。

しかし、「人生の質を上げてくれるのは便利だけではない」というのは前述したような経験からも確かな手応えとしてある。

恐らく、人生というのは「とんでもなくデカい塗り絵」のようなもので、塗られていく箇所が多ければ多いほど、濃ければ濃いほど、質が上がるようにできている。

そして、この塗り絵は「便利」だけでは塗りきれない。

中には「不便益」によって塗られていく箇所というのも間違いなくあって、それによって人生の質が上がっていくというのもまた真なり、と私は思うのだ。

生活の中に「不便」を意識して取り込む

そして、不便によって「まったく違う思考状態が得られる」というのであれば、それを活用しない手はないのではないだろうか、とも思う。

なぜなら、思考のバリエーションは豊富である方が長い目で見た時や全体にとってプラスになるからだ。

確かに、交通渋滞のように、「外から与えられる不便」「追われるような不便」というのは嫌に感じるかもしれない。

借金取り、パパラッチ、ストーカー。

「追われる」状態というのは人間なら誰もがストレスを感じるものである。

チーターに全速力で追いかけられるシマウマだって、それを嫌だと思わないシマウマはいないだろう。

みんな「追われる」のは等しく嫌なのだ。

参照:「追われる」仕事の時間を減らす努力は、「人生の質」を良くしていく、という話。

しかし、キャンプのように「自分から追い求める不便」というのは決して嫌なことではない。

むしろそれを面白いとすら感じ、多くの学びを得る。

今私は、毎朝の散歩と、週に2回程度の夜のランニングが基本的な運動習慣となっている。

スマホは家に置き、計測アプリだけが機能するスマートウォッチだけを付けて外に出るのだが、この時間が結構好きだ。

というのも歩いていたり走っていると、新しい発想や思考が湧いたり、モヤモヤしていたものがまとまったりと、とてもクリエイティブな頭になるからである。

そういうわけで、この時間には「自分ミーティング」というネーミングを付けているのだが、ここで得ている効用というのもまさに「不便益」と言えるのではないだろうか。

思うに、意識して不便を取り入れるのは「全然アリ」で、むしろ積極的に行った方がいい。

「言語化の正体」は「不便益」

「不便益」という概念を知って、自分の中で遥かに大きな発見となったのは「言語化も不便益」ということである。

勘違いしている人が多いように思うのだが、言語化というのは言語化力みたいな能力の問題ではなく、「考える量」の問題だ

つまり、思うように言語化ができないと思う場合、言語化力が足りないと考えるのではなく、「考える量が足りない」と考えるのが本質的だろう。

言わずと知れた人気を誇る「Minimal」というクラフトチョコレートメーカーは「顧客自ら言語化できる」ような配慮を体験の中に埋め込んでいる。

・ゆったり話せるお店の立地

・気軽に話せる広いカウンター

・会話からお客様の好みを引き出す

・お客様にぴったりなものを提案して感動してもらう

・風味の特徴や背景を知ってもらう

・お客様自身が自分の好みを言語化できるようになる

・感動するから記憶に遺る

・言語化できるから人に話せる(口コミ)


これらがMinimalが実践する、「感動」「言語化」を軸にした、口コミを生む体験設計のポイントです。

参照:口コミされる“感動”と“言語化”の体験設計

要するに、考える量を増やすサポートしてあげることで、顧客自ら言語化できるようにしているのだ。

私の経験則にはなるが、

はっきり言って、自分で考え尽くしていないものを言語化することなどは絶対にできない。

しかし一方で、自分で考え尽くしたものは必ず言語化できる。

思うに、出来ることなら「楽をしたい」と思う人間からすれば、考え尽くすという行為は「不便」に該当する

しかし、その不便の状態ならではの思考というのはあって、そこを通過させることではじめて言葉となってこの世に生み落とされるものなのだろう。

つまり、「考える」ことにおける「不便益」こそが「言語化の正体」と言ってもいいのではないだろうか。

逆に言えば「自分で考え尽くす」という「不便」から逃げていたら、いつまで経っても言語化という「不便益」を得ることはできない。

人間には「不便」に気付くと、それをなんとか「便利にしよう」とする習性がある。

この習性が悪いとは思わないし、不便を便利にして手間を省いたり、効率化することには大きな価値がある。

だが、不便は不便のままの方が良いことだってあり、個人的に思うに、不便ともうまく付き合っていく方が「人生の全体の質」は上がる。

不便でよかったことはあるか?」については、

時々自分自身に投げかけたい問い」として引き続きストックしておきたい。

Photo by Arisa Chattasa on Unsplash

【著者プロフィールと一言】

著者:田中新吾

プロジェクトデザイナー|プロジェクト推進支援のハグルマニ代表(https://hagurumani.jp)|タスクシュート(タスク管理術)の認定トレーナー|WebメディアRANGERの管理人(https://ranger.blog)|「お客様のプロジェクトを推進する歯車になる。」が人生のミッション|座右の銘は積極的歯車

●X(旧Twitter)田中新吾

●note 田中新吾

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