「集中する時間」を増やすことで幸せに生きる実験開始。そのためには社会に少しだけ抗う。
これは女子ゴルフトーナメントを観戦に行った時の話だ。
車で行くとすると、会場のゴルフ場から少し離れた広大な空き地に臨時駐車場が用意されて、そこからバスで会場までピストン輸送されることになる。
トーナメントの観戦を終えて駐車場に戻ってきた私は、自分の車の方に向かうのだが車が見つからなかった。
朝時分に駐車した時とは違って、車が空き地全体を埋め尽くしてしまって景色が全く変ってしまっている。
駐車してからバス停まで歩いた記憶を何度も呼び起こして、だいたいの位置を定めて探してみるのだが一向に見つからない。
同じように自分の車にたどり着けない人と何度かすれ違っては、アイコンタクトと少しの会話で慰め合うところまでになってきてしまった。
あまりにも見つからないから、盗まれたんではないか?などと、車をロックしたことすら疑わしく思うまでになってきてしまった。
そうしているうちに30分は経過したであろうか。
車にたどりつけないでいた私のすべての仲間たちが、もう既に自分の車にたどり着いてしまって、自分だけが未だにたどりつけずにさまよっているように感じられた頃。
ようやく自分の車を発見することができた。
それは、誰かが移動したんではないかと思われるほどとんでもない片隅にあった。
この誤差の大きさに唖然とした。
さて、この認識違いはなぜ起こったのだろうか?
一般的には注意力不足と言われるものだろうが、その注意力不足は寝不足などの体調不良からきたものなのか?あるいは脳の老化によるものなのか?
これまでの私ならばPDCAーPlan(計画)、Do(実行)、Check(評価)、Action(改善)ーサイクルを働かせて、こんなことが二度と起こらないように改善策を練って反省するのだが、今回はなぜかそのルーティンを拒否する自分が現れてきた。
それでもって、これをキッカケに「集中力」というものについて考えることになった。
私はむしろ集中していたのだ
観戦経験豊富な方であれば、帰りの準備として駐車位置を周りの風景から認識しておくことなどは当たり前のことなのだろう。
私の場合、帰りを意識していなかったことがまずは問題なのだが、それがなかったにしても無意識に感じるはずのバス停まで歩いた距離感、このズレが問題だった。
記憶で歩いた距離は実際の距離の半分以下と非常に短かった。
実際にはとんでもなく端から長い距離を歩いていたのだった。
なぜそうなったのか?
歩きながら、ゴルフの観戦について何時スタートのどの組を見ようか?どこまでついて行こうか?どこで定点観察しようか?などをグルグルと考えていたことを思い出した。
「やはり銀メダリストをみたいよね。」
「ディフェンディングチャンピオンも捨てがたい。」
「ドライビングレンジの練習は間に合わないけどパター練習は見られるか?」
「お昼は何時頃にする?何食べる?その前に食事は何があるの?」
などなど。
観戦できる喜びと期待が自分をこの思考だけに集中させて、あっという間にバス停に到着してしまい、その間の長さの感覚が失われてしまった。
自分が停車した車の位置がわからなくなるなんて、周りからは注意散漫だと言われるだろうが、私は注意散漫ではなくむしろ集中していたのだ、と反論したくなるのだ。
何の抵抗?めんどくさ!などとツッコまれるが、この無駄な理屈っぽさが私らしさだ。
ちなみにこの話は誰も知らない私だけの話で、誰からも注意散漫だと言われていないし、めんどくさ!とも言われていない一人芝居だ。
ここでも私は集中していた
こんなことも思い出した。
よく使うスーパーの機械式駐車場は、入庫時に駐車券を機械で発券するものなのだが、ある時、駐車して買い物をした後に駐車券が手元にないことに気が付いた。
駐車券はいつも車の定位置に置いているから、持ち出して落とすようなことはないはずだ。
それで記憶を辿ったところ、どうも駐車券を発券して手に取ったという記憶がない。
でも駐車券を取らなければバーが上がらずに入庫することができないはずだが・・・。
そうしたらもう一つの記憶の絵が浮かんだ。
駐車場の入口で前の車に接近した絵。
そうだ、どうも前の車に連なって駐車場に入ってしまったようだ。
センサーは同じ塊と捉えてバーは降りずに、発券なしに入庫できてしまった。
なぜそんなことになったかというと、丁度カーラジオから好きな曲が流れていたために、その曲い合わせて大声で歌っていたからだった。
発券することに気が回らずに、無意識に前の車についていってしまった。
これも注意散漫というのだろうか?
いや、私は歌を歌うことに集中していた。
運転しながらだから、歌だけに集中していたとはいえない。
運転と歌だけに集中していたのだ。
いやこれも違っていて、運転の方は慣れから自動運転になっていて、やはり歌にだけ集中していたのだ。
いやいや、そもそもどっちでもいいよ。
私のやり口はどうも不正駐車するうまい手口らしく、管理局に大目玉をくらった後にやっと解放された。
素晴らしきかな「集中」
これらのことから、注意散漫だと言われるような時は別の何かに集中しているのだとわかった。
子供の頃から注意散漫だと言われ続けてきた私が、今になって主張したくなったことは、私はその時に別の何かに集中していた、ということだ。笑
その注意散漫になる時間もかけがえのない時間だったはずなのだ。
観戦シミュレーションや歌に集中するから、周りに対して気が回らなくなる。
あることに集中するとあることが散漫になる。
集中と注意散漫は必ず一緒に存在する。
世の中は何かの不具合が起こると散漫だと評価して周りの360度に気を配ることを求めてくる。
なんとも都合のいい話だと思うのだ。
ところで、集中力は時としてこんな事態を招くものではあるが、集中力は幸福のために必要なことだと言われるようにもなった。
だからというわけではないが、数十年の時を経て自分の注意散漫を集中というものを味方につけて正当化したくなってきた。
集中や没頭はいろんなシーンで幅広く起こりうるものだ。
掃除をする時、皿を洗う時などにも没頭できて、これを日常禅などと呼ぶこともある。
集中力、没頭、フローの素晴らしさを紹介している本からいくつかピックアップしてみたい。
心理学では幸福を快楽・意味・没頭の要素に分けて見ている。
つまり、快感がなくても意味づけがなくても没頭によって幸福が感じられるのだ。
お笑い芸人オードリー若林さんは、ネガティブを克服するためにはポジティブになることでは解決せずに、没頭することが必要である、と自らの経験を話す。
これも何を考えている時間を増やすかによって人の人生は変わると思うからすごく納得する言葉だ。
集中力を高めてフロー状態に至った時は、パフォーマンスが上がるし楽しい上に疲れが少ない。
フロー状態はなかなか再現はできないが何回か経験がある。
私は、このように素晴らしい集中を生活の中に満たしていくために、注意散漫をある程度受け入れる必要があるということに気づき始めた。
集中によるミスを反省することはもうやめだ!
なんと注意散漫なことだろう、いくつになってもなおりゃしない、などと自分を責めるなんてバカバカしい。
私の今回の観戦シミュレーションや歌うことにすんなり集中できたことは、それも、他のことを忘れるくらいに集中できていたということは誇らしいことだと自分にフィードバックすることにした。
観戦シミュレーションや歌うという集中の中身はなんともつまらないことじゃないの?
その集中はその時でなくても良かったんではないの?
とツッコまれるが、つまらないことでも別の時でも良かったとしてもその時に浮かんだことなんだから尊重されるべきなのだ。
ちなみに、これも誰からもツッコまれていない。
「集中」のスイッチを入れるには
集中するための障害になるものが周りにたくさんあるから、多くを無視する必要がある。
すんなり無視するための前提は、「本来の自分を出す」ということにどうしても行きつくように思う。
まず、集中する対象については、当然ながら周りにやらされるのではなく、自分で選択する必要がある。
そしてここでいう「周り」には自分の頭も含まれているとも言える。
それについてはこんな記述があった。
没頭するとは、自我を忘れることです。
頭を使うのではなく感覚で行動するということで、無我夢中の状態と言えます。
自我も自分の思いでもあるのだが、それではなくて更に意図や目的がなく損得勘定もない湧き上がる感覚が純粋な自分である。
この「本来の自分」を無視せずにそのままそこに集中するということだ。
「頭を使うのではなく」とあるが感覚で行動する時にも頭は使っているように思えるので微妙な言葉ではあるのだがその違いをなんとなく理解できるように思う。
集中状態に入るには、環境を整える方法を紹介しているものもあるのだが、本人の心の持ちようがもっとも大切なのではないか?と私は思う。
その心の持ちようとは、
自分の尊重、わがまま、自信、独立、自分への許し、図々しさ、落ち着き、周りを無視。
などの言葉になるのではないだろうか。
集中した状態とは、集中しているもの以外の周りに対して注意散漫になるものだから、その状態であってもよくて集中の方を優先する、という自分への許しが必要であり、周りの無視も容認する必要があるのだ。
集中とはそれが解けた時に、なんて気持ちよかったんだろうか?、そして、こんなに自分勝手なことをしていてよかったのだろうか?という不安が襲ってくるものだ。
そんなことにお構いなく集中に身を浸らせ、そのわがままを自信をもって大胆に通し続けるのだ。
この図々しさを自分が選択するには、先に書いた集中の素晴らしさの認識があってのことだ。
必要だと認識できなければ誰も図々しくなろうとはしないだろう。
自信については、集中に自信が必要であるということの逆で集中によって自信が生まれる、という面白い記述もあった。
フロー状態(没頭)で「自意識の喪失」を体験した後は自信がつく。
「自信をつけよう」と思って行動しても自信なんかつけられなくて、無我夢中でことに臨んだ時だけしか自信なんてつかない。
瞑想を終えた後などにすっきりとして力が湧いてくる感じはあるが、それが自信なのかははっきりしない。
自信がつくのは「自意識の喪失」によるものだとすると、フロー状態になった場合はパフォーマンスが上がるから、その結果によって自信がついたということに紛れてしまって、大切なことを見逃しているのかもしれない。
大切なのはパフォーマンスが上がったことではなくて「自意識の喪失」である。
ところがまずこの「自意識の喪失」がはっきりつかめない。
自分のために何かをやっているという意図がなく、わけがわからないが何かに夢中になっている時に、自分がなくなっている瞬間があるということなのかもしれない。
集中しようとするとっかかりは「〇〇した方が得」といった自我が存在して、やり始めると自我がなくなる、という表現ならばわかる気がするのだがどうも釈然としない。
ただ、「自意識の喪失」ができたとしたら、自我による方向づけや抑制がなくなり、自由に動けるように感じる。
そして、自我から解放され、自由に泳げた魂が喜ぶから自信が湧き上がるのかもしれない。
その瞬間があったとしても自分がある意識にすぐに戻るから、この理解は自我意識が強い私にはまだまだ難しい。
この「自信」については、今回はここまでにしておこうと思う。
集中を大切にする生き方へシフトする
集中力が高いと言われる天才は、凡人には異常に見えることがある。
食も睡眠もおろそかにして没頭し続けることがある。
凡人にはそのような生活を受け入れることはできない。
近いものとしてタレントが存在していて、タレントは自分のもつその才能を活かすことに人生を捧げるから、日常生活がうまくできなかったりもする。
だから、それをサポートするマネジャーを帯同させる。
私にもマネジャーがついていれば、車の位置は気にする必要がないし、車の中で心ゆくまで歌を歌っていて問題ないわけだ。
天才やタレントは自分の好きなことに集中している時間が多い、と一旦おいてみると自分が自分の好きなことに集中している時間はそれにはとても及ばない。
私は周りとの調和を目的に生きる立派な大人を目指していたから、周りを気にすること、周りに注意を払うことに時間を割いて生きてきた。
私は人からバカにされないように注意深く間違わないことを目標にして生きてきた。
注意深く間違いなく行える人は、知らず知らず一点集中を抑制しながら生きているのだろう。
いや、注意深く間違えないという一点にだけ集中して生きていると言った方がいいかもしれない。
それ以外のことに集中しないからクリエーティブにならないのだろう。
大人になるにつれ、意味がないもの、無駄なものは除外していこうとしてきた。
その結果、このままだと何にもならないような集中や没頭という心地よいものを避けるようにして、年をとってしまうように思う。
そして天才ではない私は、好きなことへの集中は時にトラブルにみまわれ、ひどくなると命の危険が伴う、といったしっかりとした分別を持っており、その分別によって危険を避けて生き永らえようとしているのだ。
しかしそんな私であっても今私にとって必要なことは、人生には周りとの調和よりも自分の集中した時間を作るということだと主張したい。
社会は便利になるが注意散漫では居られないほど複雑になり、注意散漫からのミスを誘うが出たミスを嫌う。
そんな社会の要求は、自分がしたい集中を自分から奪い、社会への適合の方へ、それは常識人なるものに矯正しようとするのであるから、逆に意識しないと自分の集中は確保できないと心得るべきなのだと自分に言い聞かせる。
注意散漫を警戒して一点集中できない人生なんて何が楽しいのだろうか?
大人でも夢中になる人生を送りたい。
またツッコミが聞こえてくる。
「おーっと、佐々木選手、ずいぶん大きく振りかぶりましたねえ。」
誰からも言われてはないが、もう一人の自分がささやく。
ちなみに、今回の駐車位置が見つからなかったことや駐車券を取らなかったことは自分が集中できているバロメーターとして機能している、と言いたいのだ。
集中して生きることはやや危うさはあるが、幸せで素晴らしい生き方なのであろうと思う。
私は「集中」「没頭」という幸せ要素を増やして生きてみるという実験を開始した。
その原動力は子供の頃から注意散漫と言われてきたストレスにあって、今になって「幸せ」を盾にとって恨み返しで発散させようとしている、といった本当にしようもないことなのかもしれない。
かなーり遅れてきた私のささやかな抵抗である。
「いい大人が・・・」
とツッコむ自分がいる。
それでも、もう一人の自分は我関せずだ。
Photo by Alexander Schimmeck on Unsplash
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
集中することを優先するから一方の不注意を許容していこうと今は思ってますが、その先に老化によるボケが入り込んでくるだろうと想像します。
そうすると集中とボケの区別が難しくなるのかなあ・・・などということが気になります。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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