タナカシンゴ

「経験」を自分の身に固定化するために、私がやっている3つのこと。

前回執筆した「なぜ私は「今日の仕事が、楽しみ」なのか。その本質的な理由が分かった。」という記事に触れて、ライターのSASAKIさんからコメントをもらった。

記事の経験を積むですが、泉谷さんは、経験を自分の身につける人と、経験を勲章にだけする人がいて、大きく異なる、と書いてますね。

上手いこと言うもんだなあと思います。

泉谷さんというのは、精神科医の泉谷閑示氏のことで、今ちょうど私たちの間で「時の人」的な感じになっている人である。

SASAKIさんにいたっては、彼が著した書籍を数日のうちに全て読破してしまったそうだ。

参照:「自分の人生を生きる」ってことにチャレンジする。

ハマった時のSASAKIさんの爆発力はとんでもなく凄い。

毎回寄稿いただく記事の質の高さには、こういう力も強く影響しているのだろう。

それにしても、

経験を自分の身につける人と、経験を勲章にだけする人がいて、大きく異なる

とは私も心から「上手いこと言うなー」と思った。

どの本に書いてあったのか訊ねると「普通がいい」という病、にあったと教えてくれた。

教えてもらった後すぐに購入し、数時間で読了。

私が求めていたことは <体験と経験> という項目の中に記されていた。

「苦労が身になる」人と「苦労が勲章になる」人

「苦労が身になる」という言葉がありますが、「経験」をした人は苦労が身になりますが、一方「体験」止まりの人は、苦労は身にならずに「勲章」になります。

苦労が「経験」になっている人は、よほどこちらが質問しない限りは、自分からは苦労話をしないものですが、「体験」の人の場合は、こっちが聞いてもいないのにうんざりするぐらい苦労話をしてくれます。

「苦労が身になる」というのは、まさに身になってしまったわけですから、もはやその苦労は本人の一部になっている。

そういう人からよく聞くのは「あの苦労があったからこそ、今の自分があるのだ」という言葉です。

苦労が勲章のように外側にぶら下がっている人は、「苦労は買ってでもしろ」と言ったりしますが、その苦労で当の本人は実質的には変化・成長していなかったりします。

コメントをしてくれたSASAKIさんは「苦労」を「経験」と言い換えていたが、それでも意味は十分に通る。

むしろ、私にとっては「経験」と言い換えてもらう方がしっくりきた。

「経験」を辞書で引くと、実際に行ったり、見たり、聞いたりすること以外に、その結果、身につけた知識や技術を指すこともある、と書かれている。

これはつまり、5年の間に知識や技術を身につけた人は「経験年数5年」となるが、知識や技術を身につけていなくても「経験年数5年」と言えるのだ。

実際、私は前職の中途採用の現場でこれを実感した。

経験年数5年だからといって、必ずしもその知識や技術に習熟しているとは限らない。

そして、泉谷氏の言葉を借りれば、こういう人の経験は「勲章」となっている可能性が高いのだろう。

では一体、経験を勲章にせず、自分の身につけるためにはどうしたらいいのだろうか。

個人的に思うに、固定化するためには、それなりのことをしなければほぼ身につかない。

「経験」が自分の身に固定化された時の話

話は変わるが、個人的なエピソードをここで一つ。

私が以前在籍していたマーケティングファームには取り組みの一つに「ミソコン」というものがあった。

ミソコンとは「顧客に納品が完了したプロジェクトのミソ(知見や技術)を競うコンテスト」の略称である。

半期に一回必ず開催されていた。

実施の目的は、ミソとなった知見や技術を全員で共有し、会社全体で納品のクオリティを向上させることにあった。

納品が完了しているプロジェクトのみを対象とし、顧客からの評価、さらには社会からの評価が高いものがよく発表に選ばれていた。

そして、クオリティを発揮した発表者には賞金も与えられた。

そんなミソコンに、在籍していた当時私も何度か発表する機会に恵まれた。

発表者になると当然必要なものが出てくる。

プレゼン資料だ。

全社員に向けて、制限時間の間に、プロジェクトの概要とミソを伝え、それによってどのような成果があったのかを示し、納得をしてもらわねばならない。

したがって、プロジェクトを客観的に捉え、何がミソたりえたのか分析をし、理解を深め、どのように伝えれば納得してもらえるかロジックを考え、表現する必要があった。

私が初めて発表したのは、たしか入社2年目の終わりころで、大手硝子メーカーのB2Bマーケティングのプロジェクトだった。

周囲からの期待もそこそこに、業務時間外の時間も使ってプレゼンの準備を進めたのは懐かしい思い出だ。

結局、この時は私の発表以上に評価されるプロジェクトがあり上位者になることはできなかった。

がしかし、私にとってこの経験は大きな意味をもった。

ミソコンに取り組むことで、プロジェクトでした様々な経験が、私の身に固定化されていく実感を得ることが出来たからである。

経験はこういうことをしなければ身にならないこともよく学習した。

そしてこうした経験があったからこそ、SASAKIさんから泉谷氏の考えを教えてもらった時にストンと腹に落ちたのだろう。

結局私は在籍中、何度かミソコンに発表者として参加し、その事毎に賞金もいただいた。

それは当然嬉しいことだった。

だが、経験が自分の身に固定化されていくことの方が、賞金をいただく以上に遥かに嬉しいことだった。

「経験」を自分の身に固定化させるために、私がやっている3つのこと

このようなこともあって、私は経験を自分の身に固定化させて、できるかぎり再現できるように現在も努めている。

試行してきた中で、実効性があると感じているものを以下に羅列してみたい。

1.経験を誰かに教える

「誰かに教える時に、経験は身に固定化される」

学生の頃、補習塾でアルバイトもしていたこともあり薄々は感じていたが、ミソコンを含む前職での仕事を通して確信を得た。

教えるというプロセスを通すと、経験が身にこびりつくのだ。

教えるということは、教えてもらった側が同じようにできるようにならなければ、教えたことにはならない。

したがって、自分の経験を要素分解し、そこに理屈を通し、質問や反論への応答も想定し、相手の中にある前提との差分を測りながら教えていく。

教えるメリットを最も享受するのは何を隠そう「教えた側」だ。

だからこそ、私は自分のした経験は失敗も成功も、積極的に後輩や部下に教えていった。

脳研究でも「脳は出力を重視するように設計されている」ことは明らかになっている。

勉強は、教科書を復習するより、問題を解くほうが効果的だ――そうほのめかす論文が発表されました。米パデュー大学のカーピック博士らの研究です。

より専門的に説明すれば「入力を繰り返すよりも、出力を繰り返すほうが、脳回路への定着がよい」ということになります。

(中略)

私たちの脳は、情報を何度も入れ込む(学習する)よりも、その情報を何度も使ってみる(想起する)ことで、長期間安定して情報を保存することができるのです。

これを拡大して解釈すれば、「参考書を繰り返し丁寧に読むより、問題集を繰り返しやるほうが、効果的な学習が期待できる」となります。

入力よりも出力を重視――脳はそう設計されているようです。

2.経験を言語化する

言わずもがな、脳のメモリーの容量は思っているほど大きくない。

大人になればなるほど自分の記憶の無力さに気づく人も多いのではないだろうか。

折角いい経験をしても、そのままにしておけば直ぐに忘却の彼方だ。

だからこそ、経験はできるかぎり言語化して「メモ」に残す。

iPhoneのメモ帳でも何でもいいからとにかくメモする。

メモしなかったものは忘れるが、メモしていたものは身につく確率が高まる。

そして、このメモを起点にして誰かに向けて発信すると更にいい。

私の場合、書くようになってもう10年以上になるがこの経験から言えば「ブログ」はかなりいい。

なぜなら自分用のメモとは異なり、読んだ相手に伝わるように言語化しなければならないからだ。

言ってしまえば、不特定多数の人に対して「教える」を試みていることにもなる。

「どのように書けば伝わるか」

「伝えるための情報はこれで十分か」

「理屈は通っているか」

「根拠は薄弱でないか」

このような問答を繰り返しながら言語化を試み、一つの記事として仕上げる。

この手間によって、経験が自分の身に固定化されていくのだ。

Twitterなどのインスタントに使われるSNSも同じような使い方は可能だと思う。

3.読書をして経験を言語化する

「最新の知見を知る」

「別の人生を歩んでいる人の考えを知る」

「心に届く表現を知る」

「自分の心の拠り所・メンターを持つ」

本を読むメリットは様々にある。

だが、中でも私が感じているメリットとして遥かに大きいのは、

本は経験を言語化するのに物凄く役に立つ」というものである。

このことに本当の意味で気づいたのは30代になってからだ。

参照:「読書」の「人を精神的に強くする」という効用についての話。

至極当たり前のことだが、本を読んでいると、自分の目の前に著者の様々な経験が立ち現れる。

そして、その経験に触発されて「なるほど、そういうことだったのか!」と、頭の中にモヤモヤとあった自分の経験が言語化されていくことがあるのだ。

この現象は本をそこまで読まない人でも経験したことが一度や二度はあるはず。

モヤモヤとしていたものが言語化されていく瞬間は一つの快楽だ。

この気持ちよさも味わいながら、経験が身に固定化されていく感覚がある。

したがって、私はできるかぎり本を読み、様々な人の経験に触れ、経験を言語化するように努めている。

以上の3つは愚直にやることで、経験が自分の身に固定化されていくことを身をもって感じているものだ。

経験は「地下水脈」まで掘り下げる

話は冒頭の、泉谷閑示氏に戻る。

彼の本を読んでいて更に活目したのは <地下水脈> という項目だ。

泉谷氏は「地下水脈」になぞらえて、経験が個人の中で深められていくと最終的に「普遍性」を獲得するに至ると述べているのだ。

「経験」が個人の中で深められていくと、その出来事の特異性や個人的な要素は次第に薄らいでいって、最終的に普遍性を獲得するものになります。

(中略)

その普遍性を地下水脈にたとえています。

一番深い所を流れる地下水脈に、個人の「経験」が深められて到達するかどうか、その掘り下げ方がとても大きな違いを生むわけです。

しかし、地下水脈にたどり着く前に、途中には緑の水や、赤い水などもある。

赤い水が溜まった所にたどり着いてそこで止まってしまった人は、「ここから掘ると赤い水が出てくるぞ」と言い、緑の水が溜まっている所で止まった人は「こっちは緑の水が出てくるぞ」と言う。

井戸を掘った場所の違いで、違う色の水が汲み上がってくる。

これが、いわゆる専門性ということがはらむ問題点なのです。

けれども、最も深いところまで掘り切った場合には、どの場所から掘ったとしても必ず同じ地下水脈に当たる。

どこから掘ろうが同じ水を汲み上げてくることになる。

この地下水脈に共通して流れているものが、普遍的な真実であろうと私は考えます。

「経験」の質を高めるということは、すなわち「経験」を掘り下げていって、個々の専門性や個別性の壁を突き抜けて、普遍性にまで到達するということなのです。

どんなに優れた精神科医でも、すべての「経験」をすることはできない。

そんなのは無理ゲーだ。

しかし、同じ経験がなければ共感することができないのだとすれば、これでは「年下の方」や「女性の方」を患者に持つことはできなくなってしまう。

そこで、泉谷氏は自らの「経験」を徹底的に掘り下げ、経験の「普遍性」という地下水脈が流れる場所まで到達させることをしているという。

経験の中に潜む「普遍性」を獲得することによって、多種多様な患者のことを想い、共感し、応対しているのだ。

私は思った。

これぞ経験を自分の身に固定化するという所作の極地にあると。

要は、経験を身に固定化させるにも、どの「深度」かはポイントとなるのだ。

泉谷氏は、地下水脈までたどり着いた人はみな、専門性も時代も超えて共有するものを感じとっているという。

そして、地下水脈の深さから来た言葉は極めてシンプルで分かり易い、とも続けている。

図らずも、経験をどのレベルで自分の中で深めていくべきなのか目指すべきところが見えてきた。

キーワードは「地下水脈」そして「普遍性」。

でも、どこまで深く掘れば辿り着くかは分からず、いつ辿り着くのかも分からない。

だが私はそこに面白みを感じる。

経験を自分の身に固定化するために今やっていることも、まだまだ進化の余地が十分にありそうだ。

貴重な経験を「勲章」にしないためにも、引き続き自分の身に固定化するための努力を重ねていきたいと思う。

Photo by Linus Mimietz on Unsplash

【著者プロフィール】

タナカ シンゴ

「穴の空いたバケツに水を入れるようなもの」という喩えを時々見かけますが、これは「経験」にも言えることだと思います。

経験を固定化する術がなければ漏れていくし、術を知っていてもやらなければ漏れていってしまう。それが経験なのだと思います。

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