幸福探究にハマって、不幸にならないように知っておくべきこと。
これが「幸福沼」なのか。
私はここのところ幸福探究にはまったようで、「幸福」に関する記事が続いている。
こんな時にもたげてくるのが、「その方向に直進して大丈夫なのか?」という疑問である。
以前、自称健康オタクだと名乗るも、その実質は健康の本質を見失ってしまい健康の枝葉ばかりに夢中になっていた自分を書いたことがあった。
落ち着きのない健康オタクの末路 ~焦らずに重要なことをコツコツと続けること~
このことと同様に、現時点のターゲット「幸福」に夢中になって拙速に直線的に追いかけることによって、返ってターゲットにたどり着けなかったり、あるいはマイナスになってしまう、ということはないだろうか?と不安になるのだ。
どうも拙速・直線的が私の傾向のようなのだ。
「幸福」の追いかけ方は大丈夫なのか?
この懸念を、目に留まったこちらの本のタイトルが思い出させてくれた。
「幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない」
直線的な私にとっては、この逆説的な言葉が非常に気になる。
人生は残念ながら直線的に進むだけでは解決しないようにできているようだ。
このキッカケもあって、自分が変な方向に進まないように、くどいとも思ったのだが今回も「幸福」について学んでみることにした。
感情をコントロールして解決しようと思ってはいけない
「幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない」は、心理療法のACT(アクト)というものを紹介している本である。
まず冒頭に、人間は幸福から遠ざける固定観念(本には神話とある)がある、と大前提のような言葉がある。
①幸福はすべての人類にとって自然な状態だ
②幸福でないのはあなたに欠陥があるからだ
③より良い人生を創造するためにネガティブな感情を追い払わなければならない
④自分の思考や感情をコントロールできなければいけない
これらは神話であってこれらを信じている限りは、幸せになることはできない、というところから始まる。
これらは到底達成できないことなのだからそれを追いかけると、逆に苦痛に見舞われ消耗するだけに終わるということのようだ。
不幸に感じる瞬間はなくすことはできないし、ネガティブな感情は正常な思考にとって不可欠であり、思考や感情はコントロールできるものではない。
そう言えば、ネガティブをポジティブに、男なら泣くな!などなど・・・子供の頃から、感情のコントロールは大人の必須科目のように教えられてきたのだが、ここではそれと逆のことを言っている。
最近になってようやく、あらゆる固定観念が人を不自由にして苦しめることがわかってきた私なのだが、ここにも私の固定観念があったのか、と思った。
固定観念はそれが当たり前過ぎて自分にあることに気がつかないものだ。
自分の思考や感情をコントロールしなければならない
これを信じてはいけない、というのが特に納得いかないものだ。
コントロールできるのが大人というものなのではないか?
納得いかないものほど強く刷り込まれているものである。
読み進めると徐々に納得できるようになっていった。
まず、ACTの基本的な考え方に、所詮無理なものをできるようにと尽力するのではなく、自分のできることをする、というものがある。
これは前々回の記事でも紹介したバルセロナ大学の調査とも符号して納得できるものである。
「こうあるべきを持っていて、それが実現しない人は不健康になりやすい」
「こうあるべき」がいわゆる固定観念であり、思考と感情のコントロールがそれに当たる。
絶対にできない思考と感情のコントロールを、できないことと認めないと苦しくなるということを認めないとならない。
感情は不快などの危機回避のために瞬間的に起こっていて、種をつなぐためにDNAに組み込まれている有用なものである。
そして思考は感情を起点にすることが基本で、ああしよう、こうしよう、と分析し評価するわけだが、これももちろん種をつなぐために必要な機能だ。
それらのコントロールを例えば大脳新皮質が担いたいのかもしれないが、つなぐ種は大脳新皮質にすべてを任せるなんてことは許さないのだろうと思える。
多分、大脳新皮質に得意なことと不得意なことがあって十分に信頼できないのだろう。
必要だから保持してきた重要な機能をどこか別に任せるというような大事は簡単にはできないだろうと思う。
ネガティブな感情をどこまでも拡大することもあるし、思考は感情をないがしろにしたりすることもある。
感情がおさまらず、思考がベチャクチャしゃべって止まらないことがある。
ACTはこれらを前提としながら、思考と感情を抑制するべく戦うものではなく、思考と感情から逃避するべきものでもないとしている。
ではどうするかというと、思考と感情を受け入れるスペースを十分にとって(このことを拡張という言葉で表現している)、否定せずにありのままにすることをスタートにしている。
思考と言えどもそれがいつも事実であるとは言えないし、思考がネガティブを膨らませて妄想を作り上げることがある。
ある失敗をした。
感情はショックを受ける。
思考はこれは挽回が利かないかもしれない。
評価ががた落ちではないか?
友達から相手にされなくなるのではないか?
どこまでも思考は膨らむ。
それでもこのような思考や感情を放置した上で集中すべきことに意識を向けていく。
これによって結果的に思考や感情の暴走を抑えたり、思考や感情を忘れることになるというものだ。
思考や感情を受け入れないと思考や感情を抑えたり、忘れたりすることはできない。
本の中にある詳細の方法はここには書かないが、自分の思考や感情を尊重することから始まるようだ。
DNAの申し子である自分の思考や感情を尊重することは、二次的なストレスがなく自分の中でスッキリするように思える。
そして尊重はご先祖様への感謝につながるように思ったりもする。
ここで、ひとつ付け加えておきたいことは、人は思考や感情のコントロールが全くできないのか?というとACTでもコントロールできることもある、と言っている。
コントロールできる範囲のものはコントロールで対応すればいい。
確かに、私の経験でもコントロールできることは以前より少し増えたように思う。
ただし、完全にコントロールすることはできないのだ。
コントロールできないことに対して、それをコントロールによって対処しようとすると、事が悪化する、と言っている。
一部でもコントロールできることが、さらにできるようにと人を誘うのだが、この引きどころがポイントのように思う。
生き抜くために人間のDNAが進化してきた
次に紹介するこちらの本は人間の進化という視点で感情のことを書いていて、前章の内容と統合することでより確信に近づくものだ。
幸福の意外な正体 ~なぜ私たちは「幸せ」を求めるのか
人には、お金が欲しい、いい車が欲しい、人を蹴落として高い地位に就きたい、などの欲求がある。
これらの欲求は、奪い合い、殺し合いの時代が長かったために、生きるために少しでも有利になるように生まれた、というわけだ。
お金の量や車のランクや地位の高低はある一定以上で満足するものではなくて、周りの人との比較によって満足する、しないが決まる。
これも奪い合う、競い合うものだから周りから支配されるという恐怖から逃れるために比較になるのが必然なのである。
格好よく見せたい、というのも生きるためのもので、同時に鳥の求愛ダンスのようなものでもあって、これは繁殖のために必要だ。
DNAの要請に応じて欲求が生まれているわけだ。
この欲求に対する見方の変化は、生存競争に適応してきたDNAが、稀に見る安全な時代に産み落とされたために、そのギャップによって発生しているのではないだろうか?
それらの欲求が若者には滑稽に見えたり、年輩も人生を考えなおしたりしている。
また、人間が人より優れていたいと思ったり、マウントをとることに快感を覚えるようにできているのも、奪われる恐怖を避けるためにそうなったのではないだろうか?
本題の感情についてはこのような記述がある。
ポジティブな感情とネガティブな感情は対称なものではない。
人が「すごいですね」などと褒められた時に「嬉しい」と思う感情は長く続かないものである。
これに対して、明日の仕事はうまくいかないのではないか?などという「不安」の感情は、非常に長続きするものである。
これは、安全に生きるために「不安」は払拭しなければならないと種が騒ぐからである。
喜怒哀楽の喜楽よりも、より怒哀の方が対応するべき感情として緊急度がはるかに高くて優先すべきものなのだ。
ネガティブな感情は安全に生きるために不可欠であって、払拭のためにネガティブな感情に向き合う多くの時間が割かれるのも必然ということになる。
確かにそう思える。
私は幸福を考える時に、感情である喜怒哀楽を取り出してきて(この感情で語ろうというのも短絡的と言われてもしようがないが)、喜楽を増やそう、百歩譲って喜楽と怒哀をバランスよく味わおう、などというアプローチをしていたわけで、ここにまた固定観念があったことを思い知らされることになった。
ネガティブな感情を持つ時間が長いのが正常であるとも言えるかもしれない。
感情をこのように見ると感情を抑制するという行為は愚かなことに思えるわけだ。
結局は今の環境に適応しようと頑張っている
DNAによって瞬間的に湧き上がる感情は、もちろん今の時代を生き抜くために必要な要素がたくさんあると思う。
だから、その感情と思考を否定せずに受け入れるということが基本になる。
しかし、DNAは古き時代に適応するためのものではあったのだから、すべての不安を解消せねば命を取られるとして働いている。
だからネガティブな感情が頻発する。
安全でシステマティックな現代ではその発動が過剰になるから厄介になる。
瞬時に払拭しなくても生命の危険があるわけではない恐怖や不安に対して、過剰反応が起こりネガティブな感情を長引かせ、思考を莫大に膨れ上げることになる。
そしてまた、感情がもたらす恐怖や不安は自分ではどうしようもないことでもその払拭を求めてくる。
このような恐怖と不安とどう向き合うか、これもひとつのテーマだ。
これらの繰り返しは種と環境の都度の照らし合わせであり、その結果が現代への適応ということになるのだろうと思う。
そして、人間には、現代の新しい環境に拙速に順応する種と恐怖の時代の刷り込みを色濃く残してなかなか順応しない種がある。
世の中の人々にはグラデーションがある。
どちらがどうとも言えない。
順応に時間がかかる人は柔軟じゃないと批評もできるが、残っている恐怖の場所においてや、もし恐怖の時代がまた訪れるならば、いち早く適応できるとも言える。
ここまで学んできて、最後に「幸福」についてもう一回まとめてみることにしようと思う。
今思う幸福になるために必要なことは・・・
まずは、
・感情や思考を受け入れること
DNAが長く安全を担保してきているのだから、敬意を払わなけらばならない。
私は軽はずみに「ありのままに生きる」という言葉を使ってきたが、それは感情を大切にすることである。
そして、それはDNAに指示されていることなのである。
その上で次に、
・自分ができること(集中すべきこと)に集中して行動すること
DNAは特に現代では過剰に働くから、感情のありのままなだけではうまくいかない。
できることに集中して行動するのだ。
それが結果的に感情や思考を適度に抑えることになる。
こうしてみると安全でシステマティックな時代においてはDNAの危険回避要請に対してそこまでもしなくてもいいじゃない、と妥協するポイントを探して行く方向が幸せの方向であるように見えてくる。
そうまでしなくても生きていけるのだ。
DNAが環境と向き合って折り合いをつけているのだから、悩まずにその自分を否定せずに、その適応の様子を微笑ましく観察しよう。
ネガティブな感情がどんなに大きくてもそのすべてを一度ウェルカムに受け入れる。
そうすることで、逆にネガティブな感情がそれ以上拡大しないで済む。
本のタイトルにつながってきた。
幸福になるために直接的にコントロールしに行っては幸福にはならない。
そして、幸福になるためにネガティブな感情を短絡的に排除してはいけないのだ。
コントロールするべきこととコントロールしないことをわきまえることだ。
感情をコントロールせずに、集中するポイントをコントロールする。
これらの複雑なことは学ばないと拙速な私にはとても捉えることもできないことだった。
学ぶことで今回のように固定観念をまたひとつ失くして、距離をおいて幸福を眺めることもできるようになる。
とにかく、直線的に猛進する私にとっては、このような方向修正が時々に必要になる。
私に番人をつけておかないとならないわけだ。
もういい歳なんだからさすがに自分の扱い方を覚えねばなるまい。
さて、一方で物事は、くどいくらいにこだわると沼にはまってしまうものでもある。
けれども、くどいくらいにいろいろな方向から眺めると今回のように沼にはまらずにフラフラながら沼の淵を歩けるように思える。
やはり、くどいくらいに学びを重ねていきたい、という思いがここでまた確認できた。
Photo by Alexei Maridashvili on Unsplash
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
人生は拙速では限界があるんですねえ。
まだまだ人間がわかっていないようです。
だから長く生きることに面白みがあるのでしょう。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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