「人は自分の写し鏡」の意味とは何か?~「同じ」「違う」に学ぶ~
このサイトのライター田中さんの最近のブログで気づいたことがある。
「服装は出会った人へのプレゼント」という考え方を知って、年をとってもちゃんとお洒落をしていこうと思った。
自分の若い頃は、自分をカッコよく見せるために服装を選ぶことを当然していたのだが、服装をプレゼントとして・・などといった相手軸で選んだことなんてなかった。
所詮私という者は、どこまでも自分軸でいたんだと思い返した。
そんなことに気づいて、どこか恥ずかしくなった。汗笑。
ただ、名誉のために言っておくと、そんな私にも相手を不快にさせるもの、奇抜なもの、は避けようという他人軸?がチャンと残っている、ということだ。
言っておく、と言うほどのことではなかったか・・・。汗。
自分軸の話はともかくとして、ブログの中に初めて知った印象的な言葉があった。
Self as We
※「自己」の主体を「われわれ」という新しい見方で捉え直す、といったメッセージ。
これは、お釈迦様が言うところの小我と大我の大我に近いものなのかと思いつつ、この言葉が今まで私が引っ掛かっていたことを思い出すキッカケになった。
今回は、そこからいろいろ思いを巡らして、「人は自分の写し鏡」という言葉の意味にまで辿りついたのだ。
あくまでも自分なりの解釈ではあるのだが・・お付き合いいただければ幸いだ。
人類は一体になれるのか?
争い事は絶えない。
社会に寛容性がなくなっている。
分断が至る所で起っている。
こんなような世界でも、みんなが大我の心を持てば争いはなくなるんだろうか?
こんな捉え方もある。
ビックバーンの時は一つだったものが分かれただけなんだ、とか、先祖を遡っていくと結局周りの人と全部血がつながっているんだ、だとか・・・。
みんな元々一体なんだよ!というものだ。
確かに頭では理解できるが、一方で人それぞれが思っている以上に違うものだ、と日々感じていて、人間はひとつになれるかどうも疑わしい。
これが、私が引っ掛かっていたことだ。
こんなに違っている者どうしが共感し合えて一体になれるはずなんてない!
我々人間の顔かたちがよく似ていることが、中身も同じはずだ、と誤認させてしまっていて、いっそのことスターウォーズの宇宙の様々な人種のように姿形が変わっていた方が・・・
そっちの方が違いを認めざるを得ないし、その違いに警戒するから、よっぽどいい人間関係ができるんだ!
そんなことまで以前ブログで書いたこともある。
しかしこれは、人と人が「違う」ものだと考えた方が人に期待しないから楽でいい、というような言ってしまえば逃げでしかない。
やはり、私なんかにできることはないのだろう、と感じざるを得ない。
私と人は同じなのか?違うのか?
「人と人は違う」で、思い出した本がある。
名著『阿Q正伝』著:魯迅。
ブログを遡ったところ、読んだのは約4年前だった。
その感想を当時こんな風に書いていた。
終始周りの人をバカにして、目を合わせてはケンカを吹っ掛ける、今でいうマウントをとろうとする、主人公の阿Qにはそんなタチの悪さがある。
自分が人より優れていないと気が済まない人間であってプライドがとにかく高い。
自分が負けてしまってもその現実を真正面から受け止めることはせず、臭いものに蓋をして、自分が勝ったことに事実をすり替えて、苦痛逃れをし続けているのだ。
阿Qに対して率直に私は、
「もっと(周りと)うまくやれんかなあ」
「困った人だなあ」
などと感じた。
当時、自分にも阿Qのような変わり者の要素はないのか?と疑ってはみたのだが、結論私と阿Qの共通点はなし、と結論づけていた。
そして、こんな風な奴もたまにはいるから、警戒を強めたような記憶がある。
自分と人(阿Q)との違いを刻むことで終りにしたのだ。
また別で、作家の又吉直樹さんの本にハマったキッカケを聞いたことがある。
子供の頃、道化を演じながらも、同時に人を欺くことに苦悩していた主人公の葉蔵に自分と同様のものを感じて共感したのだとか・・・。
私が読んだのも子供の頃だったが、私の方は主人公に同じものを感じることなく、あんな風に気を使いすぎて、自殺までしようとするとは、なんてナイーブでヤバい奴なんだろう!
あんな風になってはいけないし、私はあんなんではないから大丈夫、といったような感想だったと思う。
更には、後味が悪くてこんな暗くなるような本、読まなければ良かった、などとも・・・。
又吉さんは葉蔵に「同じ」を感じ、私は「違い」を感じた。
今思えば、これが賞をとる作家さんとの感性の違いなんだろう。
残念ながら非常にわかりやすい例だ。汗、笑。
さて、今になって怪しく思うのは、私の中に阿Qのような、自分が優れていないと気が済まないというプライドの高さはホントにないのか?というものだ。
当時は、若い頃の私にはあったかもしれないが、それは大人になって卒業できた、というように自分を肯定して完結することにしたという表現がホントのところに近いのではないだろうか?
ならば、ホントに卒業したんだろうか?
1ミリもプライドがなくなったというのか?
そもそもそれは学校で修得して卒業するといったような類いのものなのだろうか?
うーむ、そんなことはあるまい。
プライドがあるのが人間ではないだろうか?
正確な表現というものは難しいのだが、プライドは消えてなくならなくて、そのプライドを変に、あるいは、過剰に出さないようにコントロールするようになっただけなのではないのか?
そして、そのコントロールも状況が変わればタガが外れることだってあるんだろう。
そのコントロールが強過ぎるとどこかで爆発するものでもある。
そんなことを思うと、私の根っこも多分阿Qと違わないのだと、阿Qに「同じ」を感じ始める。
葉蔵に関してはどうだろうか?
自分に葉蔵のように道化を演じている部分は一切ないだろうか?
いや、そんなことはあるまい。
誰しもが周りと上手くやっていくために多かれ少なかれ、何かを演じているものだ。
演じるのを止めて、自分の正直を出した時、相手とケンカになったり、相手を傷つけたりしてしまうのが実情なのだ。
ここにもやはり私の中の葉蔵と似たような根っこを感じるのだ。
違いを上げるとすると、私は道化を演じることを悪いことだと感じないでいられること、あるいは、そこに気づいてすらいないこと、もしくは気づいても無視できること、なのではないか?
それだけに留まらず、 道化を演じるのは、周りと上手くやるためのスキルであり、それができることを誉れだ、とすら思っているふしがある。
そこに営業という仕事が長いことが更に上塗りされている。
私という者の正直はどこにあるのかわからなくなっているんでないだろうか?
自分のひどい有り様(プライドの高さ、演じて生きている、など)を認めることが耐えられないから、卒業したことにする、とか誉だということに決める。
そこに耳をかさない強さ?というか曖昧にする鈍感さ?というか、あるいは都合の悪いことは塞いでしまえる、ということをしているのではないだろうか?
これでは臭いものに蓋をする阿Qとまったく同じである。
そして、私が厄介な主人公たちと自分を分別して「違う」ことにしたかっただけなのだ、とやっと気づくのだった。
また自分の嫌なところを見つけてしまった。悲。
世界を分別する
ここ最近、また気になっている言葉に「世界を分別する」というものがある。
これは例えば、川上から汚水を流しても、自分のところから川下へ汚水が流れてしまえば自分のところはキレイだからOKだ、というようなこと。
あるいは、権力者が権力のない人の弱みにつけこんで、酷なことを強要するようなこと。
周りにどんな不幸と苦しみがあろうが、分別してしまって自分の周りが良ければそれでよい、というような考え方だ。
この分別と、私が厄介な主人公たちと自分は違うものだ、と分別したこと。
これが重なって見えてくる。
生まれも育ちも違うんだから、人は違って当たり前で分別したい。
違った人を警戒して、何なら違ったその人を改善しないとならない、という分別したところからの立ち位置をとる。
自分を信じているから、普通にこういった立ち位置になる。
でも、たぶんこれでは人と人は上手くいかないんだろう。
自分と相手を分別しては相手と鼻っから共感ができないのだから。
確かに人と人は違うものではあるのだが、同じ人間なんだから、根っこに同じものを抱えているんではなかろうか?
阿Q、葉蔵と私のように。
環境の違いや、性格の強弱などによって、根っこの現れ方が違うだけなのだと思う。
目の前の相手が見せる自分との違い、それは時に信じられないようなことだったり、とてつもなく不愉快極まりない言動だったり・・・・。
これらを自分とは違う、と簡単に分別してしまうのではなくて、自分の内に、自分が感じないようにしているだけの、自分が抑制してコントロールしているだけの、あるいは自分が克服したことにしている(それが良いにつけ悪いにつけ)だけの、「同じ」を見つけるのだ。
「同じ」を見つけられた時に人は一体となることができるんだと思う。
これが私の反省であって、発見であった。
※抑制とコントロールしているだけの・・と書いたものの抑制とコントロールの有無はかなり大切なものであることは、付け加えておきたい。
「人は自分の写し鏡」とは?
「人は自分の写し鏡」という言葉、これは私にとってわかるようでいて、どうもスッキリしなかった言葉だ。
写す、といってもそもそも人は別物だから鏡のようには写らないだろう?
また、自分が相手のことを嫌いだとその態度が相手に伝わって、相手も自分に嫌いな態度を示すから、鏡なのだ、というのだが・・・。
まあそう説明されても、それはそうだろう、としか言いようがなくて、どうもピンとこない。
でも今回の「同じ」を見つける、ということからこの言葉の意味がわかったように思う。
「写し鏡」の意味のひとつは、「同じ」根っこを感じる、ということなのだ、と。
そして、そこから同じ根っこであるものの、目の前に現れるお相手の反応が、自分のそれと違うということ、それがなぜ起るのか、ここはその違いを探るのだ。
そこにはその背景となる、私とは全く違う環境、経験そして性格の強弱などが影響しているのだろう。
意味のもうひとつは、1つ目とやや重なるのだが、この人との「同じ」と「違い」の両方でもって自分というものが何者か?その輪郭が現れる、まさに「自分が写し出される」ということだ。
「同じ」と「違い」によってすべてが当たり前だと思って気づかない自分をやっと捉えられるのだ。
そう言えば最近、自分を発見するために人と話しているのだ、という感覚が強くなっている自分に気づく。
少し前に思っていた、人のことを知りたい、という気持ちはむしろ副産物でしかないのではなかろうか?という思いに至るのだった。
さて、最後に争いの絶えない世界に戻ってみることにする。
そんな世界のために自分ができることなんて、何もないかもしれない。
けれど、せめて自分の中にある人との「同じ」を見つけ出して共感できるようでありたい。
せめても、いろんな人と共感したいのだ。
でも、そうしていった結果、世界の嫌なところのすべてを自分の中に見つけてしまうことになるんではないだろうか?
自分という者は、まだまだ自分が思うより嫌な奴だということを突きつけられてしまうのではないのか?
これ以上嫌なところが増えるのは勘弁して欲しいのだが・・・。
世界相手に振りかぶったものの、途端に怯んでしまう自分がいる・・・。汗。
いや・・・そうなったとしても、もはや開き直って生きるしかないのだろう。
自分という者との縁をいただいてしまったのだから。笑笑。
UnsplashのRobby McCulloughが撮影した写真
【著者プロフィールと一言】
RYO SASAKI
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
プライドというものはなくならないにしても、プライドを感じるということよりも別のことに興味が出てきたならば、プライドを感じるということに気が回らなくなる、そんな風にも感じました。
嫌な自分を見つけてしまっても、どうやら万事がこんなようなものなのではないか?
ならばなんとかやっていけるんではないのかな。
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